【導入部:雨の夜の訪問者】
錆だらけの鉄階段を、三度笠の男が一段ずつ確かめるように上っていた。
雨だった。
五月雨特有の、重く湿った雨が、夜の住宅街をじっとりと染めていた。水気を含んだ空気がぬるく肌にまとわりつく。老朽化した鉄骨はところどころ腐食が進んでいて、踏みしめるたびに低く軋んだ音を立てた。
男は足を止めなかった。
三度笠の縁から、雨粒が糸を引くように落ちていく。道中合羽の背が濡れ、肩から袖にかけて雨の筋が走る。それでも男は構わず歩いた。ただ一点だけ——合羽の合わせ目に押し当てた左腕には、寸分の緩みもなかった。
内側で何かを、抱えていた。
覗き込もうとしても、合羽がそれを許さない。男はまるで、内側のものが雨に触れることを、この世界の理に触れることを、何としても避けようとするかのように、ゆっくりと、慎重に、階段を上っていった。
二階廊下に出ると、風が吹き抜けた。
錆の匂い。湿った木材の匂い。どこかの部屋から洩れてくる、揚げ物の油の匂い。生活の匂いが、雨に薄められながらも確かに漂っていた。廊下には蛍光灯がひとつ灯っているが、そのうちの一本が点滅を繰り返している。つく、消える。つく、消える。男の影が廊下の床に伸びては消え、伸びては消えた。
男は廊下を進んだ。
途中、足が一瞬だけ緩んだ。
廊下の隅に、小さな子供用の自転車が錆びていた。タイヤはすっかり空気が抜けて、ぺしゃんこになっている。ハンドルに結びつけられた赤いリボンだけが、雨に濡れてまだ色を保っていた。いつから誰も乗っていないのか——男は視線を前に戻した。
この建物に、人間が生きている。
声も顔も知らない誰かが、それぞれの夜を送っている。
そう思いながら男は歩き続け、201号室の前で止まった。
◇◇◇
「藤崎」。
風雨に晒されて文字が薄れかけた表札。
男はしばらく、それを見つめた。目を細めているのか、それとも何かを考えているのかは、三度笠の影に隠れて窺えない。ただ、男の左腕だけが、さっきよりも少し強く、内側のものを押さえた。
ゆっくりと、深く、息を吸う。
雨の匂いが、静かに胸の中へ広がった。
男は合羽の前をそっと開いた。内側から現れたのは、くたびれた探索者用のバッグだった。布地は使い込まれて毛羽立ち、ストラップの縫い目がほつれかけている。それでも、雨はどこにも滲んでいなかった。男は指先でそっと表面を確かめ——濡れていないことを確認してから、合羽を閉じた。
それから、チャイムを押した。
◇◇◇
電子音が、薄い壁の向こうで間の抜けた音を立てた。
そして、消えた。
廊下の蛍光灯が、また点滅した。つく、消える。
雨が屋根を叩く音だけが、規則正しく続いている。
奥の方で、フローリングが軋む音がした。近づいてくる気配。でも、ドアノブには触れない。
十秒か、二十秒か——男は動かなかった。
合羽の合わせ目を静かに押さえたまま、廊下の雨音を背に受けたまま、ただそこに立っていた。焦る素振りもない。もう一度チャイムを押す気配もない。ドアが開くまで待つ。それだけが、今この男にできることだとでも言うように。
やがて、警戒を隠しきれていない声が、ドア越しに聞こえてきた。
「……はい?」
「お控えなすって」
男の声は、穏やかだった。しかし、その口調は廊下の空気にひどく馴染まなかった。古い時代劇から切り取って貼り付けたような、どこか別の時間軸から届いたような、奇妙な響きを持っていた。
「藤崎様のご息女でいらっしゃいますか」
「……誰ですか。勧誘なら帰ってください」
「お父上の遺品を、お届けに参ったんでございますが」
沈黙。
今度は長かった。
ドアの内側で何かが揺れているのが、気配として伝わってくる。逡巡なのか、拒絶を整えているのか。やがて、金属のチェーンが擦れる乾いた音がして、ドアが十センチほど開いた。
チェーンロック越しに、若い女の顔が覗いた。
二十代そこそこ。疲れた目をしていた。怒りでも悲しみでもなく、ただ疲弊だけが顔に張り付いていた。化粧気はなく、安いスウェットを着ている。長い夜を何度も過ごしてきた人間の顔だった。
「……父?」
女は男を一瞥してから、視線を手元に落とした。
「ああ、あの人やっと死んだんですか」
隣の部屋で、赤ん坊が泣いていた。
男は無言で、頭を下げた。
三度笠の縁が、少し深く傾いた。それだけだった。
女は少しの間、その姿を見ていた。
「……で」
女——真帆は、チェーンロック越しに腕を組んだ。
「借金はいくら残ってます? 百万? 二百万? それとも桁が違う系ですか」
「いえ……その、少しだけお話を聞いていただけませんか」
「興味ないですね」
即答だった。迷いがなかった。何年もかけて積み上げてきた答えのような、澱みのない一言だった。
廊下のどこかで、テレビの音が洩れている。バラエティ番組の笑い声。それが夜の安アパートの空気と混ざって、奇妙に遠い音になっていた。
「お母さんを死なせて、私を置いて探索者になって、借金だけ残して」
真帆の声は、平坦だった。怒鳴ってもいない、泣いてもいない。ただ事実を読み上げるように、言葉が続く。
「——最後まであの人らしいじゃないですか。勝手に死んで、勝手に借金残して、今度は遺品? 笑わせないでください」
真帆は扉を押した。
閉まりかけた。
「……お嬢さん」
男が、静かに言った。
「……何ですか」
「その通りでござんすよ」
真帆の手が、止まった。
「……は?」
「お父上は——」
男は三度笠を胸の前で持ち、もう一度、深く頭を下げた。
「極悪人でございました」
チェーン越しの細い隙間に、夜の冷たい空気が差し込んでいる。
どこかの部屋で、また赤ん坊が泣いていた。
今夜も、誰かの世界が続いている。
真帆の手は——扉を、閉めなかった。




