1-3
引き摺るようにして連れてきたリラを、食堂の椅子に無理やり座らせる。
ナツメが用意したお茶に、頑なに口をつけようとしない姿についため息が漏れる。
ユノが死んでからずっと、リラはろくに食べ物を口にしていない。
これはちょうどいい機会だと、センナは腹を括った。
「ねぇ、リラ。リラは、ユノのことを忘れたいの?」
「忘れたい…?」
「死の痛みを消すってね、そういうことなのよ。リラが本当にそれを望むのなら、私は止めない。こんなことしなくても、私が記憶を消してあげる」
魔術を使うように、その頭に手を翳せば、リラは慌てて顔を上げた。
「私は、そういうつもりじゃ…」
リラが慌てふためいている。
感情的でありながらも、どこか理性を感じる動きに、ほんの少しだけ安心を覚えた。
「分かってる。あんたには、ユノのことを忘れるなんて絶対にできないもの。それは私も同じ」
「センナも」
「そう。でもまあ、私はまだあいつが死んだとは思えていないけどね」
「どういうこと?」
「ユノから任されたすべてが終わるまで、わたしは多分そう思えない。悲しむ前にすべきことがたくさんあるから。でもいつか、その日が来た時、きっと私も痛みを知る」
忙しさで誤魔化しても、本当は時々胸の奥が痛い。
可愛げのない子ではあったが、それでも十年近く共に過ごした弟弟子だ。
リラほどでないにしろ、センナにも多少の情はある。
それでも、ユノがその死の時までセンナに頼みつけた仕事の数々を、今はちゃんと成さなくてはいけない。それが、ユノに対するセンナの最後の餞だ。
そして、今日も一つ、ユノから託された仕事を終わらせなくてはいけない。
「これを」
黒衣のポケットから小さな鍵を取り出した。
「これ…」
「ユノからよ。自分が死んだら、あんたに渡してくれと頼まれていたの」
それは、ユノの研究室の鍵だった。
ユノの生前、どれだけ願っても入れてもらえなかった、あの研究室の鍵。
「でも、それはナツメに…」
「あんたによ。ユノははっきりと、そう私に言ったわ」
はっきりとした言葉に、否が応にもそれが嘘でないことを突き付けられた気になる。
「受け取らないの?」
センナの鋭い視線が、リラを見ている。
それでも、リラは手を伸ばすことを躊躇していた。
「…分からないんです。私が…兄様を殺してまで、生きる理由は何ですか…?」
あの日、この手を離れた命を思うたびに、胸の奥が痛む。大切で温かいはずの思い出すらも、辛く冷たいものに変えてしまう。
失わせたのは、疑いようもなく自分だった。
あの日から時折思い出す光景がある。
『綺麗だよ、リラ。君は私の花だ』
七年前。学院の入学式の前夜。珍しく着飾った10才のリラをみて、ユノは眩しそうに微笑んでそう言った。
リラは花。
温室育ちの花。
ユノの命を吸って咲く花。
リラが綺麗なまま生きていられたのは、ユノが命を削って守っていたから。
それを思う度、自分が呼吸をしていることが許せなくなる。
「…それをユノが願ったからよ」
センナはただ、そう答えた。
リラは、ぽつりぽつりと過去を思い出す。
ユノが医術士になってからの十年。交わした言葉は、そう多くない。
生まれて初めて、突き放された日の事を思った。
「兄様は言ったんです。優しい魔女の死のあとには、悲しみと後悔が残ると。魔女は兄様です。兄様の死の後には、後悔しかない」
かつてのリラならば決して言わなかったことを、リラは口にした。
「私は医術士になんかなるべきじゃなかった」
しかしその言葉は、同時にセンナの中の押してはいけないボタンを押していた。
「それなら…それなら、最初から、医術士なんて目指さなければよかったんだ。才能がないって自分で分かっていながら、それでも夢だけ追いかけて、焦って、勝手に後悔してる」
「センナ…?」
「今からでもやめる?魔女の力は、あんたさえ気を付けていれば下手の事は起こさない。医術士をやめて、一般人にまざって、ただひたすらに後悔しながら生きていけばいい」
勢いに圧倒されて、リラは言葉が出てこない。
「後悔するなとは言わない。ただ、反対はしても、ユノは一度だってあんたが医術士に向いてないとは言わなかった。やめろとは言わなかった」
「ユノが何も後悔しなかったと思ってるの?」
それは切なる叫びだった。
「兄様が…」
死の間際の、自嘲したような声を思い出す。そこに含まれた感情を、思い出す。
「ユノはいつだって怖がっていた。誰も救えないことを怖がり、一人で歩いていくことを怖がり、失うことを怖がった。そして、その恐怖から逃げるために死を願った」
その恐怖はセンナであっても分からない。
奇病研究という未知の世界。次々と死んでいく患者。見たこともない症例。
誰よりも奇跡を願って、誰よりも絶望した。
そういった一つ一つの積み重ねが、ユノを追い詰めていった。
十代の少年の心を蝕んでいき、二十代半ばでの死という未来を願わせた。
「ユノを救える人間なんて、もうユノ以外いなかった。唯一救えるのは、毒薬を差し出す優しさを持つ人間だけ。でも、そんなもの私も誰も、持っちゃいなかったわ」
センナだって無力だったのだ。アニスも、イバラも、オトギリも、みんな無力だった。
無力にあえぎながらも、それでも必死に手を伸ばすことをやめなかっただけなのだ。
「ユノは、自分が逃げるための口実にあなたを使ったの」
真っ暗な世界で生きることを放棄し、妹を助けるために命を投げうつ。
それはとても綺麗な物語のようで、ユノの筋書き通りの美しい終焉だった。
そして、そのシナリオを書き換えることは、結局誰にもできなかった。
「物語を作ったのはユノよ。優しい魔女が実在したかなんてわからない。その時のユノが、今のような未来を描いていたのかもわからない。それでもあの時、ユノが『悲しみと後悔』と答えたのなら、きっとこの未来はユノの描いた未来なの」
14歳のリラにユノが語った言葉。
病に侵された体を隠して、妹を突き放したあの日の言葉を、センナ新たに蘇えらせる。
「魔女の死は避けられなかった。リラは自分にできることを探し続けた。だから、あの物語とは違う。それでも、悲しみと後悔が残るのなら、それすらも大切にして生きていくしかないじゃない」
リラが、リラの思うまま生きること。
それがユノの賭けた未来。悲しみと後悔の、その先。
だからこそ、ユノはナツメではなくリラに全てを託したのだ。
「リラ、受け取りなさい。あなたは逃げずに、信念があるのなら貫きなさい。それが、ユノを超える唯一つの方法」
研究室の鍵を掴むと、無理やりリラの手の中にねじ込んだ。
ひんやりとした感触が、想像以上の重みをもって手になじむ。
「死を願っていたユノに、それでも四年、生き永らえさせたのはあんたよ。あんたは、その責任をとらなくちゃいけない」
自分のいない世界で生きる妹が、少しでも幸せになれるように。
必要なものは全部与えた。厳しさも優しさも、希望も。
其れだけが、死を願い、死に取りつかれたユノの、最後の願いだった。
その願いだけが、ユノを四年、生かした。
「あんたにはやってもらわなくちゃいけないことがある。ユノが残した仕事を、引き継いでもらう。そうしなきゃ、迷惑を被るのは患者の方よ」
そう言うと、センナは分厚い手紙の束を取り出した。
その総数約300。ユノが抱えていた患者と、同じだけの数ある。
それは、途中で投げ出すことになってしまった患者達への遺書。
ユノが病床に臥しながらも書き続けた手紙。その中にはガルバ村の患者の遺族や、リラを見限りユノに助けを求めたアニラ村の患者への手紙も含まれていた。
「これを届けに行くの。全部、手渡しでね。そして、あんたの患者になるよう頼みなさい」
それが、ユノが残したリラへの最期の指令であり、本当の初めの一歩だった。
『森の奥には優しい魔女が棲んでいました』
優しい声が、今でも耳の奥で蘇る。
魔女の残した悲しみと後悔は、現代にまで続く医術士という存在を作り出したのだと、あの日ユノは教えた。
「泣くのには、もう飽きました…」
ユノの死が残した悲しみと後悔が、いつかの物語のように未来へと続いているのなら、リラは立ち上がらなくてはいけない。
「ご飯、食べます」
「そう。ナツメが用意してくれてる」
ナツメが心を込めて作り、センナが丁寧によそったご飯。
それを一口、匙で流し込む。
「っ…!」
ちゃんと、味がする。
悲しみに麻痺した心が動き出した瞬間、体中の細胞たちが再び目を覚ましたような気がした。色のついた水が、甘じょっぱい野菜スープになり、スポンジのような塊がバター薫る焼き立てのパンになる。
ユノがもうずっと、口にできなかったものたち。もう二度と、口にできないものたち。
それを食べて、リラは生きている。
「ふぅっ…うっ…」
ボロボロと零れ落ちる涙。それすらも飲み干してしまうほどに、リラは次から次へと口へ運んだ。
新たに得た水と塩が、再び涙となって零れていく。
涙が体に染み入って、再びリラの体を作っていくのなら、零れ落ちた悲しみも、飲み込むほどに次を創っていくのかもしれない。
そっと退出したセンナを、ナツメがドアの外で待っていた。
「ご飯、ありがとうね」
「いえ、イバラ様に昔教えていただいたことがあるんです。泣きながらご飯を食べたことがある人間は、どんな時でも強く生きてゆけるのだ、と」
だから、とナツメは表情を崩す。
「きっと大丈夫ですよ」
その妙に自信ありげな表情に、センナも思わず同意した。
「そうね。泣いて、食べて、眠って、気が済むまで引きこもったら、きっと世界は違って見える」




