21.出立の日
エトル様が指定した場所は、貴族街からは離れた場所にある王都の南門。
約束の時間より少し早く着きたくて、朝のうちに馬車を出してもらった。
窓から見える通りは、いつもの朝とは少し違ってた。荷馬車の音が多い。商人の声がまだ少ない。風が少しだけ冷たくて、季節が動く気配がする。
出発する人がいる朝って、街全体がそわそわしているような空気になるのよね。見送るわけでもなく、止めるわけでもなく、ただいつも通りに動いてる。それが少しだけ寂しい。
膝の上に手を置いて、指先を揃えた。昨夜、白い紙に書いた言葉を頭の中で繰り返す。まずは謝罪。そして説明。必要なら呼んでほしいというお願い。最後に、結婚。
「お嬢様」
隣に座ったフィアが言った。
「なに?」
「見送りに行く顔じゃないですよ」
「だって最後でしょ。次いつ会えるか分からないんだし」
「それは分かってますけど、少し力が入りすぎです」
フィアは少しだけ笑った。
昨夜、紙の前で固まっていたわたしとは違って、今朝のこの子はすっかり落ち着いてる。こういうところがフィアのいいところなのよね。わたしが揺れてる時には横にいて、わたしが動き始めたら黙ってついてきてくれる。
昨夜、勇者庁から伝言が届いた。エトル様が、出立前に時間をくださるって。もしよろしければ、って。
よろしくないわけがない。よろしくないわけがないでしょ。
でもね。『もしよろしければ』って言い方に、少しだけ泣きそうになったのは内緒よ。あの人は最後まで丁寧なのよね。こっちの都合まで気遣って。そういうところが好きなのよ。そういうところが全部。全部よ。
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南門が見えた。
門は城壁に嵌め込まれた大きな石のアーチで、門の両脇には衛兵が立ってる。普段は商人や旅人が行き交う門だけど、今朝は少し様子が違うみたい。
手前の広場には、馬車が2台停まってた。これに乗ってエトル様たちは王都を出る。
見た瞬間に、胸の奥がきゅっとなった。本当に行ってしまうのね。分かってたのに、急に実感が湧いてきた。
馬車を降りると、朝の光が眩しかった。
夜会のシャンデリアでも、舞踏会の燭台でもない、朝の自然な光。ドレスの色も、髪の色も、全部が違って見える。こういう光の下で会うのは初めてかも。
広場の端に、4人が立ってる。
エトル様。ディノ様。イリーシャ様。クランベル様。
全員が旅装だった。夜会で見た華やかな姿とは別人のようで、でも不思議と、こちらの方が似合ってる。この人たちは王都の社交界に立つための人じゃなくて、道を歩くための人なのよね。
エトル様は、革の上着にブーツ。腰に剣を帯びてる。飾りのない格好なのに、背筋のまっすぐさだけで、どこにいても目を引くの。
歩いた。1歩ずつ。指先が冷たいのは朝の空気のせいだと思いたいけど、緊張してるだけね。
深く息を吸った。フィアが昨夜言ったこと。いつものお嬢様で大丈夫ですよ、って。
そうよ。いつものわたしでいいのよ。
「エトル様」
呼んだ。声は、思ったより落ち着いてた。
エトル様がこっちを向いた。黒い目が、まっすぐにわたしを見た。朝の光の中で見ると、目の色が少しだけ茶色がかってる。夜会の灯りの下では気づかなかった色。こういう発見が、会うたびにある。会うたびに新しいものを見つけてしまう。困っちゃうのよ、こういうの。
「ラテリナ様。お忙しい中、ありがとうございます」
「こちらこそ、お時間をいただけて嬉しいですわ」
よし。出だしは完璧よ。落ち着いてる。大丈夫。
「まず、お伝えしたいことがございますの」
順番。順番よ。昨夜決めた通りに。
「王都での滞在中、わたくしが出過ぎた真似をいたしましたこと、お詫び申し上げますわ」
ここでいちど区切る。謝罪が先。それから説明に入る。
「ですが、面会希望の重複が各家で起きていたこと、贈り物の直接のお渡しが勇者庁の業務を圧迫していたこと、問い合わせの経路が乱れていたこと。これらを放置すれば、勇者様たちのお時間がさらに削られると判断いたしました」
具体的に。何を、どう、なぜ。帳簿の令嬢なんだから、数字で語るの。それが、わたしのやり方よ。
「結果として少しでもお役に立てていたのなら、嬉しいですわ」
言えた。落ち着いて言えた。昨夜の白い紙に書いた通りに。
ディノ様が腕を組んで、口を開いた。
「それについては、ただの『助かった』で済ませるには軽いな」
相変わらず不愛想な声。でも、言葉は選んでるみたい。
「面会希望が整理された。直接の手渡しが減った。問い合わせの内容が揃った。結果、俺たちが動ける時間が増えた」
1つずつ、帳簿の数字を読み上げるようだけど、現場を回してきた人の言い方。数字じゃなくて、実感で語ってる。
「……そうだな。『かなり助かった』」
そう付け足して、こっちを見た。不愛想なのに、こういう時だけちゃんと言ってくれるのね。
ディノ様が言い終わると、クランベル様が軽い声で言った。
「騒がしさが減るだけで、ずいぶん楽になったよ。君は厄介だけど、仕事は早い。それは間違いない」
「余計な言葉を足さないでくださいませ」
すぐに返すと、クランベル様は楽しそうに笑った。
「余計な言葉って『仕事が早い』の方?」
「お黙りなさい」
クランベル様がひらひらと手を振ったあとに、イリーシャ様が静かな声で言った。
「ラテリナ様」
「はい。イリーシャ様」
「あなたのやり方は鮮やかでした。皆が同じ方を向けるように、丁寧に道を整えていらっしゃったでしょう」
胸の中が、温かくなってくる。
「あなたにお会いできてよかったです。ありがとうございました」
この方にお礼を言われると、他の誰に言われるよりも胸に届くのよね。穏やかなのに、言葉の1つ1つに嘘がない。お義姉様。……まだ心の中でだけよ。まだね。
そして、エトル様が口を開いた。
「皆から報告を受けています。王都で消耗する時間が減ったのは事実です」
少しだけ、言葉を選ぶ間があった。この人はいつもそう。急がない。でも曖昧にもしない。
「今回の件は、感謝しています」
短い。でも重い。この人の「感謝しています」は、社交辞令じゃない。中身があるのよね。
ここまでは想定した順番通り。完璧に、白い紙の言葉通りに、1つも間違えずに進んでる。
「それから。舞踏会では、正直、挨拶と確認周りで手がいっぱいでした」
「……はい」
「ですが」
エトル様は一瞬視線を逸らしてから、わたしを見た。
「今回、あなたが王都でされたことを聞いて、自分の方でも思うところがありまして」
うん。
「こちらの側でも整理すれば、次はもう少し余裕が作れるかもしれません」
うん。
「そのときは、1曲。踊っていただけますか?」
えっ?
「ほんとっ!? もちろんよっ!
だって前の舞踏会、あなた全然踊れなかったでしょ?
あなたはずっと呼ばれてて、ずっと挨拶してて、こっちが近づいても『申し訳ない』って顔してて。わたし一晩中悔しかったんだから!
でも次は違うのよね。踊れる余裕ができそうって言ったでしょ?
つまり時間が確保できるってことよね。じゃあ絶対確保するのよ。
偶然の1回じゃなくて、確定の1回にするの。
曲も大事よね。速すぎず、遅すぎず、ちゃんと向き合える曲がいいの。
いつもなら4曲目あたりにそういう曲が来るのよね。
踊る場所は柱の近くにしましょ。壁際じゃなくて、壁際に抜けられる隙間があるところよ。
踊り終わったら、すぐに人が集まってくるでしょ。そこで居座ったら野暮だから、さっと引くの。綺麗に引いた方が印象に残るのよ。
それから――」
「お嬢様」
なによ、フィア。今は大事な――。
「約束の内容が膨らんでいませんか」
「膨らんでないのよ。補足よ」
「相手の同意がない補足は、膨らんだと言います」
「だって大事なことでしょ!」
言ってから、気づいた。
広場が妙に静かだった。
踊りに誘われた瞬間、頭の中の計画が全部吹き飛んだの。順番とか感謝とか結婚とか、全部どこかに飛んでってしまって、声が素で飛び出してた。止まらなかったのよ。
ディノ様は呆れた顔をしてて、クランベル様は口元を押さえてて、イリーシャ様は目を細めてる。
エトル様は、少し目を見開いて、こっちを見てた。
……あ。
わたし今、完全に素だった。
「もちろんですわ!」
とりあえず、何事もなかったかのように取り繕うしかないじゃない。
「よろこんでお受けいたしますわ。忘れられない1曲にして差し上げます!」
イリーシャ様が笑った。
「今のが素のラテリナ様なんですね」
「うっ……違い……ません、わ」
「お可愛かったですよ」
「それは……その。ありがとうございます」
ディノ様がつぶやくように言った。
「いや、かわいいっていうか怖いだろ」
「怖くありませんわ! 周到なだけですわ!」
「それが怖いって言ってるんだが」
クランベル様が肩を揺らして笑いながら言った。
「ふふ。君、王都に置いておくには惜しいね」
「では連れていってくださいませ!」
「そこは冷静なんだね」
「冷静ですわ!」
フィアが後ろで肩を震わせていた。笑ってるでしょ。絶対笑ってる。
みんな笑い出した。わたしも笑った。お上品にね。
恥ずかしくて、エトル様の顔は見れなかったけど。優しい目で見てくれてるのは分かってるのよ。
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笑いが収まった頃、わたしは1つ息を吸い直した。背筋を伸ばす。
落ち着きなさい、ラテリナ。ここからよ。謝罪と説明をして、踊りの約束をもらった。計画以上の収穫よ。でも、まだ終わってないんだから。
「エトル様」
今度は落ち着いた声で、伝えるべきことを伝えるの。
押しつけずに、扉を開けておく。受け取るかどうかは向こうが決めるから。お裾分けと同じ理屈よ。
「必要なら、また呼んでくださいませ。勇者庁を通してでも、わたくしはお手伝いできますわ」
エトル様は何も言わずに、わたしを見ていた。
「……その上で」
息を1つ、整える。
「結婚の話も、諦めておりませんから」
後ろでフィアが「言うんだ」という気配を出した。言うに決まってるでしょ。ここで言わないなら、何のために生きてるのよ。
エトル様は、ほんの一瞬だけ、視線を逸らした。
それから、わたしを見て言った。
「……仲間と、結婚相手は……募集していません。今は」
今は。
夜会では「仲間は募集していません」で終わったのに。結婚のことには触れてもくれなかったのに。
今日は違った。仲間と、結婚相手。両方に答えてくれた。「今は」って言った。『今は』は今現在のことであって、ずっとではないということよね。
「ですが」
エトル様は続けた。
「必要があれば、勇者庁を通してご依頼させていただくこともあるでしょう」
うん。そのお言葉だけで充分よ。
わたしが欲しかったのは、許可じゃない。扉の取っ手よ。こっちから開けられる取っ手。
「承知しましたわ」
両手を揃えて、お辞儀をした。
それから、少しだけ声を落として、まっすぐに言った。
「どうか、ご武運を」
エトル様だけじゃなく、3人にも目を向ける。
「皆さまがご無事に戻られますよう、お祈りしております」
ディノ様は一瞬だけ目を伏せて、短く頷いた。イリーシャ様は静かに微笑んだ。クランベル様はひらりと手を振った。
エトル様は真面目な顔のまま。
「ありがとう。また、お会いしましょう」
4人が歩き出した。馬車に向かって。背中が遠ざかっていく。
あの背筋。あの歩き方。静かで、まっすぐで、無駄がない。夜会で初めて見た時と同じ。何度見ても同じなのに、毎回少しずつ違って見える。それが、なぜか胸に刺さった。
エトル様が馬車の前で立ち止まって、振り返った。
目が合った。黒い目。朝の光を受けて、少しだけ茶色がかった黒。
何も言わなかった。わたしも何も言わなかった。
でも、それでよかった。言葉はもう全部渡してある。
エトル様が馬車に乗り込んだ。ディノ様が荷を確認して続いた。イリーシャ様がこちらに小さく手を振って、クランベル様はひらひらと指を動かして乗り込んでいった。
扉が閉まり、馬車が動き出した。車輪が石畳を叩いて、馬の蹄が地面を蹴る。南門のアーチをくぐっていく。朝の光の中に、馬車の影が小さくなっていく。
見えなくなった。
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しばらく立っていた。
足が動かなかったのよ。動かす理由が、少しだけ見つからなかったの。
未達成なのよね。冷静に並べれば。
仲間になれてない。結婚もできてない。まだ1曲も踊ってない。
でも、感謝された。
必要があれば依頼すると言ってくれた。
次に踊る約束までした。
夜会であの人を見た日から、ずっと走ってきた。壁にぶつかって、空回りして、馬鹿なことを考えたりもしたけど、それでも走り続けた。途中で走り方を変えて、扉を探して、道を作って。そうやって積み上げたものが、今日ここで返ってきた。
充分じゃない。全然充分じゃないけど。
でも、ゼロじゃないの。ゼロどころか、かけがえのない大きなものを手に入れたのよ。
「ねえ、フィア」
振り返らずに言った。
「はい」
「次にエトル様が戻ってきたとき、わたし、もっと完璧な舞台を用意するから」
「はい」
「もう1曲の約束は取ったんだし。忘れられない夜にしてあげるのよ」
「はい。知ってます」
「知ってるってなによ」
「はい。さっきご自分で宣言されてましたから」
フィアが横に並んだ。
「お嬢様」
「なに?」
「素が出てましたね。盛大に」
「そうね」
「計画もだだ漏れでしたね」
「そうね」
「でも。エトル様、笑いそうでしたよ」
「……え?」
「ほんの少しだけ。口元が動いてました」
「……見てたの?」
「見てました。それが私の仕事ですから」
胸の奥が、じわっと熱くなった。
あの人が、笑いそうだった。わたしの素を見て、笑いそうだった。
泣きそうになった。隠せない。だから上を向いた。
「帰りましょう、お嬢様」
「うん」
「お茶を淹れますね」
「うん」
南門の向こうには、もう誰もいない。
でも、約束がある。
1曲の約束。次に踊る約束。それだけで、わたしは走り続けられる。
だって、わたしは悪役令嬢よ。
ヒロインみたいに受け身で待って、運命がどうにかしてくれるなんて思わない。
欲しいものは、自分で取りに行くの。
でも次は、ちゃんと順番を守るけどね。




