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20.白い紙

 お嬢様が静かにしているところは、あまり見ない。


 恋をしてからしばらくは壁にぶつかってばかりだったけれど、本来は自分で扉を見つけて、こじ開けて、通り道まで整備してしまう方だ。その切れ味が恋を経て鈍るどころか、前より丁寧になった。

 なのに今夜は、テーブルの上に羊皮紙を広げて羽ペンを手にしたまま、何も書かずにいる。


 勇者庁から戻ってきたのは夕方だった。今日はエトル様とすれ違って、声をかけられなくて、他領の令嬢を制して、変装がバレて、「ご武運を」とだけ言って帰ってきた。「ありがとうございました」と言ってもらえた。それは成果だ。でも、成果だけで胸がいっぱいになるような方なら、こんなに静かにはならない。


 明日、エトル様たちは王都を発つ。見送りの場はない。お嬢様はそれを知っている。知った上で、今、何も書けずにいる。勝ち負けがはっきりしている相手なら、終わった後に区切りがつく。でも今回は区切りがつけられない。そういう夜は、お嬢様の手が止まる。


 私はお茶を淹れた。いつもより少しだけ香りを強くして。気休めだけれど、こういう夜は気休めが効く。


「ねえ、フィア」


 お嬢様が、羽ペンを持ったまま言った。


「はい」

「……なんでもない」


 なんでもない、と言う人ほど、なんでもなくない。

 私はカップをお嬢様の手の届く位置に置いた。近すぎず、遠すぎず。手を伸ばせば届くけれど、こちらから押しつけてはいない。お茶の渡し方にも距離感はあるのだ。


「明日に備えて、今日は早めに休んでください」

「休まなくても平気よ」

「はいはい」

「はいはいってなによ」

「はいはいです」

「意味が変わってないでしょ」


 テーブルの上を見ると、ここ数日の記録が並んでいた。面会希望の整理表。問い合わせの文面の写し。贈答の差し戻し用の文言。侍女会議の出席者名簿。全て、お嬢様がこの数日で積み上げたもの。紙の1枚1枚に、走り回った時間が染みている。


 そして、白い紙が1枚。何も書かれていない。

 お嬢様は白い紙が好きだ。何でも書けるから、という理由で。悪役令嬢の計画はいつも白い紙から始まる。排除計画も、差し入れ計画も、規定改定案も、全部この紙の上で生まれた。


「それ、何を書くんですか?」

「次にお会いしたときに言う言葉よ。明日は会えないでしょ。出立するまで見張ってるわけにもいかないし。次にエトル様が王都に戻ってきたときに、最初に言う言葉を考えてるのよ」


 先のことを考えるのは、この方らしい。だけど、いつもの計算とは少し違っていた。計算なら数字を並べるけれど、今のお嬢様は数字ではなく言葉を探している。そして、見つからなくて困っている。お嬢様は言葉が多い方だ。多すぎて困ることはあっても、足りなくて困ることは滅多にない。


「どんな言葉を考えていますか?」

「それがね、出てこないのよ」

「お嬢様にしては珍しいですね」

「出てこないときだってあるのよ。わたしだって人間なんだから」


 知っていますよ。人間すぎるくらい人間だと、ずっと思っています。


「今日、勇者庁で声をかけたときは考える前に出てきたのに。あのときは身体が先に動いたのよね。令嬢を止めたときも、エトル様にご挨拶したときも。でも、こうやって座って考えると、出てこないの。おかしくない?」

「おかしくないですよ」

「どうして?」

「考えて出す言葉と、身体から出る言葉は別ですから。今日の勇者庁で出たのは考える前に出る方です。お嬢様は本来そちらが得意な方なので」

「本来ってなによ」

「計画を立てるより、その場で判断する方が切れ味があるという意味です」

「それ、褒めてるの?」

「7割くらいは」

「残りの3割は?」

「振り回されることへの文句です」


 お嬢様は少しだけ笑った。さっきまでの空気が、少しだけ緩んだ。こういう時に笑わせるのも、私の仕事のひとつだと思っている。


「ねえ、フィア」

「はい」

「わたし、今日ので満足しておくのがいいのかな」


 お嬢様がカップを手に取って、ひとくち飲んだ。

 意外な問いかけだった。そういう言い方をすること自体が珍しい。この方はいつも足りないから動く。足りないから走る。あまりに足りないと壁に穴を開け始めるんです。


「今日のこと、ですか」

「変装がバレてかっこ悪かったけど、種は蒔けたでしょ」

「はい」

「それで充分なのかなって」


 私は少し考えてから答えた。


「充分かどうかは、お嬢様が決めることですよ」

「ずるい答えね」

「でも、嘘ではないです」


 お嬢様がカップを置いた。両手をテーブルの上に置いて、何も書かれていない紙を見つめる。


「充分じゃないのよ。全然」

「でしょうね」

「でしょうねって、あなた」

「お嬢様が『充分だった』なんて言ったら、心配しますよ」

「なによそれ」

「お嬢様は充分で止まる方じゃないですから。充分で止まったら、それは疲れているか、諦めているかのどちらかです。どちらもお嬢様には似合わないですよ」


 お嬢様は少しだけ笑った。自嘲ではない。認めた、という笑い方だった。こういう笑い方をしている時、お嬢様は綺麗だ。悪役令嬢の仮面をつけている時よりも、素の笑い方をしている時の方が、ずっと。


「誰か用みたい。たぶん家令ね」


 部屋の外から足音が聞こえてきた。少し急いでいる。この屋敷の使用人は普段は足音を立てない。急いでいるということは、急ぐだけの理由がある。


 ノックが2回。家令の声だった。


「お嬢様。勇者庁よりお使いがございました」


 この時間に、勇者庁から?

 お嬢様と目が合った。さっきまで言葉を探していた目ではない。何かが来た、と察知した目。鷹が風の変化に気づいた時のように、一瞬で焦点が変わっている。


「なんですの?」

「勇者エトル様より伝言をお預かりしております。明日の出立前に、もしよろしければお時間をいただきたいとのことです」


 部屋が静かになった。

 窓の外で夜風がカーテンをかすかに揺らした音が、やけにはっきり聞こえた。


 お嬢様の指が、テーブルの上でかすかに動いた。それ以外は微動だにしない。背筋は伸びたまま。表情は穏やかなまま。でも、私には分かる。指先だけが本音を漏らしている。薬指が親指の腹をこすっている。この癖は、お嬢様が内心で動揺している時だけ出る。


「それだけですの?」


 お嬢様の声が少しだけ細くなったのを、扉の向こうの家令は気づかなかっただろう。でも私は聞き逃さなかった。


「はい。お返事はいかがいたしましょう」


 お嬢様は一拍だけ間を置いた。一拍だけ。それ以上は待たなかった。待てなかったのかもしれない。


「お受けいたしますわ。明朝、伺いますとお伝えくださいまし」


 家令の足音が廊下を遠ざかっていった。

 部屋に、また2人だけの静けさが戻った。


 お嬢様は、さっきまで何も書けなかった白い紙を見つめていた。

 それから、ゆっくりと顔を上げた。


 目が光っていた。

 計算と情熱が同時に走る、あの目だ。お茶会の前にも見た。舞踏会の前にも見た。侍女会議の前にも見た。でも今夜のはどれとも違った。もっと深いところから光っている。奥の方で、何かが灯った目。


「フィア」

「はい」

「来たのよ。エトル様の方から」

「はい」

「わたしからじゃないのよ。向こうから来たのよ」


 お嬢様の声が、わずかに震えていた。震えているのに、笑っている。

 この方は、いつも自分から動いた。仲間にしてくださいと宣言した夜会も、イリーシャ様を招いたお茶会も、侍女を集めた会議も、令嬢たちを束ねたお茶会も、全部お嬢様から仕掛けた。仕掛けて、走って、走り続けた。

 それが、初めて向こうから来た。ラテリナ・イルデインの計算を超えたものが、返ってきた。


「種、蒔いたでしょ」

「はい」

「もう芽が出たんじゃない?」


 お嬢様の目が潤んでいた。泣いてはいない。泣く手前のところで踏みとどまっている。お嬢様は人前では泣かない。1人の時に泣くかどうかは知らないけれど、少なくとも私の前では泣かない。泣かないことを強さだとは思わない。でも、この方らしいとは思う。こういうところも含めて、私はお嬢様の隣にいるのだ。


 私はもう一杯、お茶を淹れた。


「お嬢様。泣いてもいいですよ」

「泣いてないし」

「泣いてないですね」

「泣いてないのよ」

「はい。泣いてないです」


 お嬢様はカップを受け取って、両手で包んだ。温かさを確かめるように。指先がまだ少しだけ震えている。でもそれは動揺ではなくて、熱の震えだった。身体の内側から湧いてくる何かが、指先まで届いている。


「明日の言葉を考えないとね」


 さっきまでの潤んだ目はどこにもなく、完全に切り替わっていた。この切り替えの速さには毎回驚かされる。泣きそうだった方が3秒で作戦会議を始めるのだから。


「さっきまで『次に会ったときの言葉』と言っていたものが、『明日の言葉』に変わりましたね」

「だって明日会えるんだし。次を待たなくていいじゃない」

「はい。大きいですね」

「大きいどころじゃないのよ。計画が全部繰り上がったんだから。次の帰還に向けて長期計画を立てるつもりだったのに、明日の朝になったじゃない。嬉しいけど忙しいのよね」

「嬉しいが先に来ましたね」

「当然でしょ」


 お嬢様はカップを置き、白い紙を引き寄せた。さっきまで1文字も書けなかった紙。羽ペンを取ると、今度は手が止まらない。さっきまで言葉が出てこないと困っていた人の手とは思えないほど、滑らかにペン先が走っている。


「まず、感謝を伝えるの。流れを整えたことを認めてもらえたなら、それにきちんとお礼を言うのよ」

「はい」

「ただの『ありがとうございます』じゃなくてね。何が、どう、誰の役に立ったのかをちゃんと言うの。それを言えるのは実際にやった人間だけだし、『わたしはちゃんと分かっています』って伝えられるでしょ」

「はい。それがいちばん効きますね。お嬢様は漠然とした言葉より、実際の数字で語る方が得意ですから」

「帳簿の令嬢だし」

「はい。帳簿の令嬢です」


 お嬢様がペンを走らせる。面会希望の重複を減らしたこと。直接の手渡しを止めたこと。問い合わせの経路を揃えたこと。全て、この数日で実際にやったことだ。


「それから、『必要なら、また呼んでくださいませ』」

「いいですね」

「押しつけじゃないのよ。扉を開けておく形。受け取るかどうかは向こうが決める。でも、受け取れる形にしておく。お裾分けと同じ原理でしょ」

「はい。侍女会議のときのお嬢様の言い方ですね」

「そうよ。あのとき学んだことが、ここで使えるのよ」


 お嬢様の目が楽しそうに光っている。計画を立てている時の目。でも、それだけじゃない。楽しんでいる。自分の成長を自分で確認して、楽しんでいる。


「その上で」


 お嬢様がペンを止めた。少しだけ間を置いて、はっきりと言った。


「結婚の話もするのよ」


 それは、やっぱり言うんですね。


「お嬢様」

「なによ」

「正直、予想通りです」

「当然でしょ。ここで言わないなら、わたしはなんのために走ってきたのよ。夜会で宣言して、お茶会を開いて、令嬢を束ねて、通達を出して、侍女会議を仕切って、勇者庁に変装して乗り込んで、令嬢を制して。全部、このひとことを言うためにやってきたのよ」


 列挙されると壮観ですね。そしてその全てに私は巻き込まれていますね。


「ですが、言い方は考えてくださいね」

「考えるから大丈夫よ」

「夜会のときみたいに最初にいきなり言ったりしないでくださいね」

「しないから。あのときとは違うのよ」

「はい。違いますね」


 本当に違う。あの夜会の時のお嬢様は、勢いだけだった。実績もなく、関係もなく、ただ本気の気持ちだけを正面からぶつけた。今は違う。積み上げたものがある。認められたものがある。その上で言うひとことは、あの時と同じ言葉でも、重みが全く違う。


「ねえ、フィア」

「はい」

「仲間って、助け合うものでしょ」

「はい」

「わたし、助けたでしょ」

「助けましたね」

「それで、助かったって言われたのよ。今日、勇者庁でエトル様に直接『ありがとうございました』って」

「はい。言われましたね」


 私が即答すると、お嬢様は満足そうに頷いた。嫌な予感がする。お嬢様がこの顔をした時は、必ず理屈が跳ぶ。必ず。


「じゃあ、もう仲間ってことよね?」

「……は?」

「実質よ。実質仲間でしょ」


 出ましたね。

 この目。嫌な予感しかしないのに、本人は本気で納得している目。


「お嬢様。『助けた』と『仲間』の間には、本人の同意が必要です」

「同意なら、助かったって言ってたじゃない」

「それは『助かりました』という感謝です。『仲間にします』という意味ではありません」

「細かいのね」

「細かいのがお嬢様の武器でしょう。帳簿の数字を1つずつ合わせるのが得意な方が、ここだけ雑にまとめようとしないでください」

「帳簿を持ち出すのはずるいのよ」

「さっきは帳簿の令嬢とか言ってましたよね」


 お嬢様が一瞬だけ黙った。否定できない顔。帳簿の話を出されると弱いのは、この方が帳簿を本当に大事にしている証拠だ。


「じゃあ、こう言い換えるのよ」


 立て直しだけは早い。転んでも次の一歩が出るまでの時間が短い。


「『仲間になってください』じゃなくて、『もう仲間ですわね』って確認すればいいの」

「やめてください」

「なんでよ」

「圧が強すぎます。社交界ですらその言い方は使わないでしょう?」

「圧は乙女の嗜みよ」

「嗜みの範囲を超えています。もはや攻撃です」

「攻撃は言いすぎでしょ。かわいい圧力よ」

「かわいい圧力を受けた令嬢たちが、何日も胃痛に苦しんだこと、ご存じですか?」

「大げさね。それはわたしのせいじゃないのよ」

「お嬢様のせいです」


 お嬢様が扇を取って顔を隠すように開いた。照れているのか悪だくみしているのか、おそらく両方。この方は扇の後ろに感情を隠すのが上手い。でも扇で隠しても、耳が少し赤くなっているのは隠せていないですよ。


「でもね」


 扇の向こうから声だけが出る。


「わたしの言ってること、筋は通ってるでしょ」

「筋は通っているかもしれませんね」

「でしょ」

「ですが、相手がその筋で生きていません」

「どういう意味よ」

「エトル様たちが助けてもらったからといって、パーティの仲間にはならないんですよ。助けてもらったらお礼を言う。必要があればまたお願いする。それだけです。仲間というのは、もっと長い時間をかけて、一緒に過ごした先に生まれるものなんだと思いますよ」

「長い、時間」

「はい」

「わたし、気が短いのよね」

「はい、知ってます。18年間知ってます」


 お嬢様が扇をぱちんと閉じた。


「しょうがないから、実質仲間理論は心の中にしまっておこうかな」

「しまわずに破棄してください」

「それは無理よ」

「どうしてですか?」

「だって、いつか本当に仲間になるんだし。そのときに出すのよ」

「本当の仲間なら、実質ではないですよ?」

「……そうね。破棄しよっと」


 その時が来るかどうかは、分からない。でも、この方がそう信じているなら、私はその隣にいればいい。


---


 お嬢様が『明日の言葉』を書き終えて、満足そうに指先で揃えた。


 真っ白だった紙には、お嬢様が書き込んだ言葉が3つ並んでいた。感謝のこと。必要なら呼んでほしいということ。そして最後に、小さく、でもしっかりと。結婚のこと。


 並び方は強引だけれど、うちのお嬢様らしい。そして何より、今のお嬢様には実績がある。言葉だけだったあの夜会とは、もう違う。白い紙の上に並んだ言葉は、空回りの計画書ではない。走って、転んで、立ち上がって、整理して、また走った人の言葉だ。


 私はお嬢様の前に、もういちどカップを差し出した。


「お嬢様」

「なに?」

「明日は、いつものお嬢様で大丈夫ですよ」

「……当然でしょ」


 少しだけ沈黙があった。その沈黙の中で、お嬢様の口元がわずかに緩んだ。


 王都の夜は静かだった。だからこそ、隣にいる人の呼吸の音がよく聞こえた。少しだけ速くなっている。緊張と期待が混ざっている。


 明日、お嬢様は芽の出た畑を確認しに行く。

 私も一緒に行く。当然のことですよね。


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