第10幕 『 執刀 』
本日は、森先生がはじめてネコのSpayを執刀する日。
朝からの森先生は平静を装っているものの、全身から発せられるうっとうしいほどの緊張感をみんなに漂わせていた。
でも、今日は上田さんがお休みだから、それでもその緊張感は抑えられてると思うんだけどね。
昼食のあと、いつものようにコーヒーを飲む。
しんとした時間が流れる。
なんだかこっちまで緊張してきちゃうなぁ...。
「では、はじめます」
森先生はコーヒーを飲み干し、立ち上がった。
すかさずわたしも立ち上がり姿勢を正すと、森先生に敬礼をした。
「御武運を!」
「てか、見てて下さいよ」
「いるとかえって緊張しない?」
「逆に安心です」
「そう、じゃぁ、あとで行くね」
わたしは座り直すと、残っているコーヒーをゆっくり飲んだ。
しばらくして、スクラブのままキャップとマスクをつけ、わたしは手術室に入った。
ちょうど森先生がネコのおなかにメスを当てたところだった。
モニターの数字を見る。
異常なさそうね。
皮下を剥離し、筋膜に到着。
ちょっとやせてる子だから、やり易いんじゃないかな。
手術って、自分でやってる分には時間の経つのも忘れてしまうくらいのものなんだけど、ヒトがやってるのを見てるのってほんとにやることなくって暇だったりするんだよね。
眠くなっちゃう...。
お、森先生、緊張の第一場面。
右卵巣の血管、結紮、切断。
ひとつため息をついたのが分かった。
続いて左。
通常、左の方がやり易い。
完了。
調子いいじゃない。
最後、頚管。
この感じなら、少なくともネコのSpayは森先生にまかせられるね。
こそっと寝ちゃおかな...。
「あ...」
なんだか声がしたような気がした。
目を開いて、森先生を見る。
森先生の目が引きつっている。
「どうしたの?」
術野をのぞく。
「け、頚管切ったところで、結紮はずれちゃいました」
森先生の声がうわずっていた。
手には外れた結紮糸。
あちゃ~、そこでやるか...。
すでにおなかの中は赤くなっていた。
「落ち着いて、挫滅してるから急にはそんなに出ないはず」
しっかり出てるけど...。
まずは森先生を落ち着かせなきゃ。
森先生は震える手でガーゼをおなかに入れ、出てくる血液を拭いている。
でも、そこから進めない。
「いい、膀胱、分かる?」
「は、はい」
「膀胱持って」
血液で手が滑って上手く持てない。
「バブコックあるでしょ。それ使って」
「そう、挟んで、そのまま持ち上げて、後ろに反転。ほら、見えるでしょ」
外れた頚管が顔を出した。じわりと出血している。
「じゃぁ、今度はそこにアリス鉗子かけよう」
カチッと鉗子のロックがかかる音がする。
「あとは結紮。出来るでしょ」
「はい」
頚管の再結紮が無事終わり、腹壁を縫いはじめたところでわたしは手術室を出た。
医局に戻り、椅子に座る。
あ~、緊張したぁ...。
なんだか、どっと疲労感。
他人の手術だから冷静に言えるけど、自分がああなってたら落ち着いて対処できないよねぇ...。
やっぱり恐いなぁ。手術は...。
夜の診察が終わり車に乗り込もうとしたら、森先生が追いかけてきた。
「先生、今日はありがとうございました」
あらたまって、ぺこりと頭を下げた。
「助けてもらったお礼に、食事おごります」
おお、かわいい後輩。
森先生はいつも自転車で出勤してくるので、わたしの車で近所のファミレスへ行くことにした。
森先生はハンバーグにライス大盛り。
わたしはかわいくオムライス。
「頚管が細かったから、糸通さなかったんですよね。だから抜けたんですかねぇ」
ナイフでハンバーグを切りながら森先生が聞いてきた。
「でも、あれくらいなら針かけるとかえって切れちゃうかもね」
「じゃぁ、緩かったんでしょうか?」
結構おいしいね。このオムライス。
おなかの空いていたわたしは、とりあえず続けて2口ほどオムライスをほおばった。
そして、ゆっくり飲み込んで。
「外科結びした?」
「はい」
「うちってさ、ちょっと太めのPDS使うから、子宮があまりに細いと結び目の方が大きくなっちゃって、かえってしっかり締まらないかも」
「なるほど...」
森先生はナイフをおくと、コップを持ち水を一口飲んだ。
「もしくは、2回目結ぶまでにこちょこちょ動かしちゃうと、いつの間にか緩んでるってこともあるね」
森先生はいちいちうなずきながらわたしの話を聞いていた。
きっと今日の手術で、森先生は10回わたしの手術を見るよりも、もっとたくさんのことが勉強出来たんじゃないかと思った。
食後のコーヒーを飲みながらしばらく手術の話をして、もう森先生からの質問が底をついたところでファミレスを出た。
お言葉に甘えて、しっかりおごってもらった。
車で病院まで送る。
もう少しで到着ってところで、わたしは森先生に聞いてみた。
「先生は、将来どうするの?」
「僕ですか?開業しますよ。そのために臨床に来たんですから」
運転中のわたしは前を見ていてその時の森先生の顔は見られなかったけど、きっといい顔してたんじゃないかと思った。
そんな、はっきりとした言い方だった。
病院の駐車場で森先生を降ろす。
「ほんとにありがとうございました」
森先生は、ドアを閉めると頭を下げた。
「こちらこそ、ごちそうさま。また明日」
「おつかれさまでした」
わたしはゆっくりバックすると、駐車場を出た。
開業か...。
森先生のその素直な気持ちがちょっとうらやましかった。
ほんと、わたしは何がしたいんだろ...。
車を走らせながら、考えた。
でも、
マンションに着くまでの時間では、到底その答えは出るはずもないよね。




