06 ガイダンス
早朝からのランニングから戻る。玄関のロックを開けて入ると、感知式の電灯がつく。管理人のマリエが出勤する前のことだ。階段を上って自室に戻り、シャワーを浴びて、机に向かい前日に読みかけていた文献の続きに目を通す。ネムが起きてくるまで1時間ほど、だ。アクイレギアでの新しい日課になりつつある。
しかし今日はいつもとは違う。
ルヴィたちは鉄道に揺られていた。
今日は、カレッジが主催する、留学生向けのガイダンスがある。
午前から午後にかけてがっつりあるタイプだ。
「来週にはオリエンテーションだし、手厚いよな」
「海外からの受け入れに慣れているということね」
カレッジまで行くと、既に留学生らしき、聞きなれない言語を話す学生たちがぞろぞろと正門を通っていくところだった。まだ学生証がないので、許可証を見せて警備員に入れてもらった。
「ルヴィアス・キング=サリだったかな」
「えと、まあ、はい」
名前を呼ばれると、妙なイントネーションに感じた。
しかし自分だって、外つ国の人命をうまく発音できているかは定かではない。こんなものなのだろう。そうやって流しているばかりでは、よくない場合もあるということを学んだ。
「つっかれたー」
「ガイダンスの説明は30分程度だったわね」
ガイダンスは集合から班行動となっていた。班は、メンターと言われるカレッジ在籍の学生が1グループあたり、五、六人を担当するようだった。ルヴィは……はじめネムとは別の班に振り分けられていたが、ひと悶着あって、途中から合流した。早口の説明の後は、主要なカレッジの設備を班ごとに回るのだが、これにものすごく時間がかかった。既に正午を回っている。
「さすが大国アクイレギア。つっても、こんな栄えた一等地にこれだけ広いカレッジの敷地を有することができるってのは、やっぱ規格外だよな」
この立地は巨大都市の中心部にあって、近くには高級コンドミニアムや高級ブディックが立ち並ぶような一等地にある。他の名門のカレッジは、郊外にキャンパスを抱えていることが多い。地価が安いからだ。……地下にキャンパスがあるところもあるが、それは特殊な理由からだ。
「だから人気というわけね。知っている? このカレッジには、俳優や女優も在籍しているそうよ?」
「カレッジの方にも、著名人の方にも箔が作ってことか」
留学生向けのガイダンスは当然ながら、エルム語だ。
アクイレギアは歴史的に多民族国家であり、留学生を広く受け入れているだけあって、分かりやすい単語で説明された。聞きなれない単語は、巨大なディスプレイに映し出されていた。それによると――
「在留届と口座開設が必要ってことだな」
アクイレギアで作った口座は、カレッジからの奨学金が振り込まれたり、授業料の引き落としに使われたりする。この国に口座を持たない留学生たちにとっては口座開設は急務なのだ。留学を決意した当初は、この奨学金で生活するつもりでいたが、ふたを開けてみれば、留学を反対していたはずの兄からは、毎月生活費が送られてくることになっている。まあ、送金先の口座としても必要というわけだ。
「ガイダンスは終わったけど、これからどうする?」
これからの予定はすべてネム任せだ。
その代わり文句などない。
「アパートに帰る前に、口座を作っていきましょう? 確かカレッジの敷地内に銀行があったはずよ」
口座開設には、旅券と入学許可証、いくらかの現金が必要となっている。
「ATMじゃなくて、銀行があるのすごいよな」
「郵便局もあるというのだもの。便利よね」
カレッジマップを見ながら、先導してくれたネムは立ち止まってしまう。そこには銀行があったのだが、長蛇の列が連なっていた。みな手に、パスポートらしきものを持っている。
「これみんな留学生だとしたら、めっちゃ時間かかりそうだな……」
「たしか、アパートの最寄り駅にも銀行があったはずだから、そっちにしましょう」
「そっちはさすがに込まないな!」
地下鉄に揺られながら、ネムからアクイレギアの銀行システムを教わる。
「アクイレギアの銀行には口座の種類が2つあるの。金利が付かない当座預金口座と金利が付く普通預金口座ね」
昼間に都心部から郊外に行く人間は少ないようだ。
電車内に、他の乗客はほとんどいない。
「アクイレギアでは、金利が付くセービングアカウントにお金を預け入れるそうよ。そして公共料金の支払いやクレジットカードの引き落としができるチェッキングアカウントには、残高が少なくなれば都度、入金するというのが一般的なようね」
銀行によっては、ひと月に使用する回数が少なかったり、残高が少なかったりすると手数料を取られることがあるらしい。なかなかシビアだ。
「オレたちはここで生活するから、その心配はないな!」
説明を聞いていると、脳が糖を消費したのか、空腹を覚えた。降りた駅の近くにある、ドーナツ屋で買い食いして腹を満たしてから銀行に入る。自動ドアが開くが、その前から何となく嫌な予感がしていた。
「暗っ ……ってか、閉まってる!?」
端から端まで窓口があるというのに、そのすべてにシャッターが下りていた。
ネムとともに壁にかかる時計を確認したが、銀行業務が閉まる15時にはなっていない。無人の銀行を後にする。
「明日にするか」
「……明日は土曜ね」
なら週明けか。気合を入れただけに拍子抜けしたが、仕方がない。
何となく消化不良でアパートの玄関から帰ると、管理室の窓口にマリエがいた。
「お帰りなさい。ガイダンスは終わったのね? ………どうしたの。浮かない顔だわ」
お帰りなさい、と言われることに慣れていなくて、慌てただけなのだが、それっぽく言い訳をするのに、先ほどのことを思い出した。
「実は――」
すると、マリエは傾げた首を戻して頷いた。
「あら、そういうことなら、私が連れて行ってあげるわ」
他に開いている銀行があるのか。
しかし、高齢のマリエに負担を掛けるのは申し訳なく遠慮しようとしていると、管理人室から立ち上がり、何かを持って通路に出て来きてしまう。
「ちょうどドライブしたいと思っていたの。これまでたくさんの子たちの口座開設に付き合ってきたのだから、心配いらないわ」
そう言われると断り辛い。持ち物と確認され、マリエに口座開設の同行をしてもらうことになった。74歳だというが、そうとは思えないほど背筋が伸びている。凛とした背中をネムと追いかけた。アパートの玄関とは反対側にガレージがあり、そこにモスグリーンの車が1台とまっていた。
車に乗って10分程度で銀行の前に付いたが、そこは先ほどルヴィたちが赴いたのと同じ場所だった。窓口にはしっかりシャッターが下りている。しかし、マリエは動じた様子もなくシャッター越しに呼びかけた。
「こんにちは、マリエよ。いるかしら」
すると、しばらくして慌てたように閉まっていたシャッターの一つが上がった。
女性の従業員が笑顔で手を振っている。
「マリエ、久しぶり! 新しい子たちの口座開設ね?」
「ええ。この子たちが来たとき、閉まっていると聞いて付き添いに来たの」
女性は誤魔化すように笑い、ルヴィたちにウインクしてきた。
「うっかりよ! ついさっき早めに閉めたところなの! 行き違いになったのね」
「そう言うことにしておきましょう」
マリエの返しに、従業員はすぐさま手続きをしてくれた。
必要なものは旅券と入学許可証、そして現金20ドルを出す。
住所は、マリエが口頭で喋って、そのまま登録してくれた。
すべての書類にサインをすると、あっという間に二人分の口座が出来上がった。
15分もかかっていないだろう……。
先ほどまで存在しなかった講座がこんなにあっさりできていいのか。
「どうぞ、二人前、新規口座一式です」
返されたパスポートと入学許可書の書類とともに、メモ帳のようなものが乗せられていた。
「今はクレジットカードを作れないけど、デポジットを払ってくれたら、セキュアドクレジットカードが作れるわ。毎月滞納しなければ、クレジットヒストリーを作ることができるようになるの」
営業なのかどうなのか分からない提案だ。
「大学院に数年通う予定だから、作っておくとのちのちいいでしょうね」
マリエからの後押しもあった。
悪いことにはならないだろうが、ルヴィはネムが頷くか否かにすべてを掛けているので。
「では、作っていただけますか?」
考えていた様子のネムが顔を上げた。
そして、デポジットを2人分払う。
キャッシュカードは、3~4週間で届き、ATMは年中夢中で24時間引き出し可能だという。
「この、手帳は何ですか?」
「仮の小切手帳よ」
正式なものは後日届くらしい。
それまでは、仮のチェックブックに、氏名と住所を書き込んで使うのだという。
記載するときのペンは、ボールペンと決まっている。
「横着して、予め書いておくのはナシよ」
使用したときに、その日付と支払先の相手の氏名を書くという。
支払先が会社の場合は、会社名か担当者の名前。
「金額は、できるだけ右詰め。後から付け足されたりしないように、さらに右の空いた部分には傍線を引くの。余白を潰すようにね」
ゼロを一つでも書き足されれば、桁が一つ違うことになる。
「そしてサインをするの」
名前の練習をしなくてはならない。
筆記体は苦手なのだ。
「この概要欄には、記入は必須ではないけれど、公共料金の支払いにアカウント番号が必要な場合はここに記載するの」
書き損じた場合は、シュレッダーで裁断して処分するか、大文字で『無効』と書き入れるという。
隣で聞いていたマリエが補足してくれる。
「今はクレジットカードやキャッシュカードが主流ではあるのだけれど、未だにこの小切手の文化は残っているの。悪用されないように、知識として覚えておけばいいわ」
窓口の女性は念押しした。
「くれぐれも、署名をはじめからしないこと! 金額を書かれて悪用されるから」
「わたしたちは机の引き出しにしまっておくことにします」
眉を下げたネムの言葉に、ルヴィは何度も頷いた。
妙なところでアナログなところがあるものだ。
マリエは笑うと、ルヴィたちと銀行を後にした。
先ほどはなかった口座を手にして、マリエの車に乗り込む。
「マザーのおかげで今日やろうとしていたことが全部できました」
「来週になるかって話してたところだったんで、助かりました。車まで出していただいて」
歩き回って疲れ切っていたので、感謝もひとしおだ。
ネムも国が違うと勝手がわからず苦労したようで、声ににじみ出ていた。
あまりにも大騒ぎして感謝するので、マリエはくすくすと笑った。
「助けになれたならよかったわ。どうかしら、レモンケーキを焼いたから、一緒にお茶でも……」
マリエの言葉が途切れた。アマートの前で、路駐している作業車が見えた。その運転手らしき作業着姿の男性がアパートの玄関のドアの前にいた。
「――いつもの人ね」
マリエはため息を吐くと、作業車を避けてガレージに入り、車を停めた。
「私は彼の話を聞いて来るから、あなたたちは戻っていて。1階の厨房の冷蔵庫に、レモンケーキがあるから、良ければ食べてちょうだいね」
ルヴィたちにそう話す間に、作業着の男性は玄関前からガレージに近づいて来るのが、マリエの後ろから見えた。
「車出してくださってありがとうございます」
「案内もしてくださって」
ネムと口々に礼を言って、頭を下げると、微笑んだ。
「どういたしまして」
アパートの中に入ると、男性と話すマリエの声が聞こえてきた。
「あの業者の人が来ていなければ、一緒にケーキを食べてくださったのかしら?」
マリエが焼いたというレモンケーキをリビングで食べながら、残念そうにネムが呟いた。
「まあ……そうだろうな」
冷蔵庫で冷やされたケーキは、ケーキ屋から買ってきたと言ってもいいくらいに綺麗な出来だった。マリエの手が空いていたら、きっとこのケーキにあう紅茶を選んでくれただろう。
「なんか営業みたいだなー」
ネムの疑問の視線を受けて、フォークで下を示す。
窓を開けっぱなしにしているので、下で話すマリエと業者の声がするのだ。
すると向かいでネムがテーブルに突っ伏した。
「……早口だったり、ニュースの内容だったりだと、聞き取れないわ」
「カレッジに入学できる語学力はあるとお墨付きなんだ。大丈夫だって」
すると恨みがましい目が向けられるが、長い睫毛に縁どられた大きな瞳が潤むだけなので、全く怖くない。
「国際エルム語検定で満点を出すようなルヴは問題ないでしょうけれどね……」
「そんなことはないぞ」
首を横に振る。
「オレ、今日ガイダンスで聞いた、学生証の手続き、ネムの助けなしには作れる気しないもんな!」
「ルヴ、全部聞き取れているわよね?」
確かに簡単な単語で説明を受けた。
「理解ができないんだわさ……」
手続きの順序や内容が耳を通り過ぎていく。口座作って、在留届出して、学務課に行って……この工程を、すべて自分がするのか? 何を先にして、何処に行って、どの順番で何を持ってすればいいのか、聞いても混乱してパニックだ……。
「そのことだけれど、今日口座を作ることができたから、今日中に学生証の申請もできそうだわ」
「えっ 今から総領事館で在留届出すのと、カレッジの学務課行くのか?」
もう時刻は16時を過ぎている。
夜になってしまわないか。
「そうではなくて、ネットで済ませてしまうの」
ネムは携帯の画面を操作して見せてくれた。
その画面には、総領事館公式オンライン申請とあった。
「ここにパスポートの写真と入学許可証の写真を撮って送るの」
すると、書類不備かどうかの審査が半日かかる。
「午前中に出すと、その日の午後には審査結果が下り、不備がなければそのまま在留届が完了するの」
「ということは、今から出せば?」
ネムが頷いた。
「明日の朝に結果が届くわ。不備がなければ、そのまま学務課に行きましょう。学務課に特別な休日はないから、その場で学生証を受け取ることができるはずよ。口座の紐付けの申請もね」
ルヴィは広げた両手の上に携帯を乗せてネムに献上する。
もう何を触られても見られても構わない。
この携帯は、ネムの俎上の魚だ。
「任せました」
「入力は自分でするのよ? 同時にやれば、分からないところを教えあえるし」
「そうしよう。今からしよう」
一緒にやってくれると聞いて俄然やる気が出てきた。紅茶をぐぐいと飲み干して、レモンケーキの残りを一口で完食し、椅子ごとテーブルを回ってネムの隣に座った。在留届の提出が、本日最後の仕事だ。