06 雑貨店
ルヴィの日課は、朝のランニングだ。中等部の時にあったマラソン大会の練習がきっかけだ。朝起きて一時間半、近所のコースを走り込む。はじめは喉の奥から鉄の味がしたものだが、そんなこともなくなった。足裏で地面を感じるのが楽しい。強制されてはじめたのが、存外性に合っていたらしく、継続して十年だ。
走って走って走って……走るのが好きなのは、午年だからかもしれない。
*****
「あ………」
眠気眼のネムの背中を押しながらアパートの外に出ると、ネムが声を漏らした。見ればモスグリーンの車がやって来るところだった。運転席にはこのアパートの管理人たる老婦人が乗っている。手を振り、声を張り上げた。
「おはようございます、マザーマリエ!」
車を停めたマリエが窓を開ける。
「おはよう、ふたりとも。これからお出かけ?」
「はい。マザー」
「カレッジのオリエンテーションに行ってきます!」
眠たげに目をしばたたかせるネムに代わり答える。
「まあ、今日なのね」
目元に皺を寄せて微笑んだ。
面白いことを聞いたような顔だ。
「ではふたりとも――いってらっしゃい」
素敵な老婦人に見送られ、意気揚々と出発する。
最寄り駅まで十分ほど。
遅れてやって来た電車に乗り込んだ。
「地理学ってのはやっぱ実地調査が肝なんだよ。実際に現地に赴いて、調査するんだ。その場所は汚染された川かもしれないし、天然の洞窟かもしれないし、砂漠かもしんない。過酷な状況下でも継続しうる体力が必要不可欠なわけ!」
「……なるほどね」
半分眠っているような相槌をもらう。
地上を走っていた電車は、地下鉄に切り替わる。
するとリグナムバイタ近郊に入ったということだ。
暗い地下からグリーンゲートをくぐると地上に出た。
視界にはカレッジの正門が見える。
反対側は、クラクション鳴り響く大都会だ。
「騒がしい街……。ルヴ、離れないで」
ため息をついた幼馴染は、すれ違う人や、道の途中に設置されたごみ箱、住宅街の屋根といったものにあてどなく注視している。その度に癖のある柔らかな髪が顎のラインで揺れ――通行人の視線を誘った。
「よし、さっさと行こうぜ!」
カレッジの正門はすぐそこだ。
入学許可証をしっかり見せると、門衛はちらりと見て来て笑ってくる。
「素敵な彼女だ」
「どうもー」
お褒めに預かり光栄で。
今回は無事に通ることができた。
面倒なところに顔を覚えられてしまった。
そのまま通り過ぎようとしたルヴィの腕をネムが引き留めた。
「――報告用の写真を撮るから時間をちょうだい」
バッグから携帯を取り出し、ルヴィのお目付け業務の一環としてだろう。カレッジ正門を背後にした写真を撮り始めた。手持無沙汰に周囲を見回す。近くには鬼門の門衛の駐在所がある。そこから突然、大音量のラジオが聞こえて来た。
「なあに?」
「……………うーん。うん分かった」
門衛たちの話し声が聞こえた。
あまりの美少女がいたので、駐在所に控える仲間に知らせたのだ――暇人か。
「そう? どういうニュース?」
「んえ?」
不思議そうなネムの顔とぶち当たる。
すると流れ続けるラジオの内容が頭に入って来た。
「あー、オレの保証人手続きが遅れかけた原因――国際テロの事件」
「………世界的な被害だったものね」
携帯をおろし、集中して聞き入る。
ニュースの喋りは固い文章な上、早口だ。
ネムは首を振った。
「オリエンテーションの中身の聞き取りは大変そうだわ」
なにやら腕を組んで小さくぼやいている。
内容は聞き取れなかったが、必要なことならまた話してくれるだろう。
「んじゃ、行きますか」
「ったく……名前で外つ国の人間だって思われるなんてさ……」
「しぃ、ルヴ。はじまるわ」
何とか隣の席に滑り込むことができたのは日ごろの行いの良さだろう。
照明が当たった壇上に学生が立っていた。
「栄えある我が校にようこそ、新入生諸君」
壇上に立つのは腕に腕章をつけた学生たちだ。
職員は端の方で列になって立っている。
見分け方は、私服かスーツかの違いだ。
大学院生のオリエンテーションなので、年齢では見分けがつかない。
二十代の若い層もいれば、四十代くらいの中年もいた。
「我が校では評価C以下を三つ取ると即退学になります」
上から、A・B・C・D・Fが存在する。
それなのに、AとBしかとってはならないということなのか。
『きびし……』
思わず母国語で呟く。
その隣でネムが顔を暗くしていた。
履修登録の方法や、施設の案内などの説明を受け、次に学生生活についてて話題が転換した。それとともに説明する学生が交代した。
「我が校は他のカレッジと異なり、はじめから都市として栄えているところに創立されました。都市から離れた郊外にある他のキャンパスでは経験できない、都会で暮らしながら学生生活を送ることになります。それもこのリグナムバイタ中心地マグワートで」
楽しんで、という声に合わせて、ノリのいい新入生がそれに返す。
学生スタッフがそれに手を振る。
「では他の州から来たアクイレギアン、他国から来た皆さんに、リグナムバイタの特殊な文化を説明します。まずは有名ですが、恋愛様式について」
口笛がどこからか聞こえて来た。
「リグナムバイタでの恋愛は刺激的なものになるはずです。LVの人々は積極的なので出会いは多いでしょう。ステップを進むのは早いですが、それはあなた一人とは限りません。基本的に、普段から複数人とカジュアルな関係を結び、特定の誰かと関係が進み、互いの認知が揃った時、やっと恋人となります。実は、私たちもこの関係を把握するのは難しいです」
じゃあ、どうするんだと思っていると、すぐに答えが返ってきた。
金髪の髪をポニーテールにした学生はにっこりとわらう。
「恋人かどうか不安な時は、一度はっきり訊ねてみましょう。玉砕したらそれまで」
笑いが起こる。
笑えるのだろうか、これ……。
ネムは隣で興味なさそうに爪を見ている。
ルヴィも、縁がなさそうな話を聞くより、ネムの爪を見ていた方がまだいい。
そうしていると、いつの間にか話が終わったようで、別の学生スタッフになった。
お堅い感じと思ったら、その通りだった。
「薬物について、このリグナムバイタ州では以下の薬物が違法です」
聞いたことがあるものから、聞いたことがないものまで。
「聞いた通り、カンナビスは合法ですが、キャンパス内での使用は禁止しています。また、誘われた場合、きっぱりと拒否してください。最近、学生の売人の存在が警察から指摘されています。十分注意してください」
ルヴィたちは物騒な話題に目を白黒させていたが、前に座る白髪交じりの男性が重々しく頷くのを見て、正味やばいのかなと認識し直していた。
そんな空気をぶち壊すように、先ほどの金髪ポニテの学生スタッフが小走りで壇上に戻って来た。何事かと思っていると、担当の学生が、小型マイクを手渡した。
「パーティーや出会いの場で、薬物を混入させて意識のないところを襲うという事例が多発しています。飲み物からは目を離さないで、知らない人からの飲食物は受け取らないように!」
以上、注意事項のすべて、説明は終わりですと元気な言葉で締めくくられた。
任意でレクリエーションがあったが、参加するのはやめた。
「思った以上に危険な国に来てしまった件について……」
「帰りたいの?」
最寄駅のロータリーから放射線状に続く道を歩く。
色づいてきたイチョウ並木は一見の価値があるなと思う。
「挑戦もせずにそれはないなー」
「そう………」
アパートの前で立ち止まったネムが見上げた先には、道路を挟んで向こう側――緑のオーニングテントだ。
「あの雑貨店で何か日用品を求めるのはどうかしら?」
つまり気分転換にショッピングがしたいということだ。
「いい案だと思います!」
アパートから斜め向かいにある雑貨店は、硝子張りで中の様子がよく見えた。客はいないらしい。店員も見えない。しかし木製の扉には営業中の札がかかっている。
「ごめんくださあい」
率先して扉を開けると、古風な音色がなった。
年季の入ったカウベルだ。
しかし人間の返事はなかった。
店内を見回すと、広くはないが、香辛料やサンドイッチ、焼き菓子などの食料品、重曹や洗剤、デッキブラシなどの掃除用具、日用品雑貨、幅広く何でも揃っているような雑多な印象だった。
「マザーの言っていた通り、軽食も売っているのね」
手作りバーガーやサンドイッチをネムが指さす。
そのバーガーにどこか既視感を覚えた。
「どっかで………」
カゴの中を覗き込んだネムがこちらを振り向く。
「確認できたから、これでいいわ」
品揃えが良かったことに満足したようだ。
「んじゃあ、会計に行きますかっていいたいとこだけど……」
「この呼び鈴かしら?」
ちりんと鳴らしてみると、奥から物音がした。
奥から人が現れる。
褐色の肌に長い黒髪を緩く結んだ、背の高い店主だ。
首元まで覆うタートルネックで、肌は顔と手ぐらいしか出ていない。
「……御用で?」
中性的な雰囲気で、ハスキーな声が言葉少なに発せられる。
「あ、すみません。お会計をお願いします」
「このクレジットは使えます?」
店主は頷く。
レシートを切って渡してくれる。
二人で紙袋を抱える大荷物になった。
「……向かいのレジデンスの、新しい入居者?」
ここは初の近隣住民とのお付き合いでは。
はりきってはきはきと話す。
「はい。オレはルヴィアスです。こっちは一緒に住む、」
「ネムです」
ネムが頭を下げようとして、せっかく入れてもらった紙袋の中から重曹が落ちかける。女店主はそれを長い腕を伸ばして受け止めてくれた。ルヴィは両手がふさがっていたので、ヒヤッとするくらいしかできなかった。
「そう……よろしく」
目を伏せると、翡翠が濡れたように見えるなと思った。
カウベルの音が鳴り、店から出る。
アパートと雑貨店はほぼ向かいにあった。
石畳が敷かれた車道に誰もいないのを確認して横断する。
街路樹を抜けて芝生を踏んでから気づいた。
「なあ、さっきの店で売られてたバーガー、マザーマリエの手料理じゃね?」
バンズの形が昨日頼んだものと同じだった。あとから気づいたが、あのエキゾチックな女店主こそ、マリエの話していたもう一人のレジデンス管理人だった。




