04 管理人
柳のある庭を持つ建物は、外から見ると三階建て。
芝生を撫でるように揺れる柳の葉が、ルヴィたちを手招いているようだった。
アクイレギアの家で特徴的なのは、道に面した広い芝生の庭だろう。よく刈られ、落ち葉一つない。その理由は、清掃員を不動産の契約や法律などで雇っており、彼らの働きによるという。これからが見物だろう、秋に色づくイチョウの木――実は、アクイレギアにおいて街路樹として選ばれることは珍しいらしい。この黄色い並木にちなんで、通りの名前がついているそうだ。パスキーを入れて、扉を開いたのはネムだ。
「――こんにちは、今日から入居する子たちね」
左手から声がした。管理人窓口そこから白くか細い指がかかって中で立ち上がる――上品に目を細めた。
「マリエ・アガタよ。このレジデンスの管理人をしているの」
思った以上に、高齢だった。
ネムの祖父より年配だろう。
予め知っていたのか、ネムの方に驚きは少ない。
……隠しているだけかもしれないが。
「お世話になります、ネム・ズマです」
「はじめまして、ルヴィアス・キングサリです」
無事に会えて嬉しいわ、と老婦人は微笑む。
「入居者の子たちからは『マザー』や『マザーマリエ』と呼ばれているの。好きに呼んでちょうだい」
人好きのする笑みで、ほっとする。
入国審査や道を尋ねた時の、当たりのきつさから不安を抱えていたのだが杞憂のようだった。
「オレのことも、どうかルヴィと呼んでください」
「そうさせてもらうわね」
目じりには品の良い、柔らかな微笑の形に皴が刻まれる。
入居に際して、提示する書類を出す。
旅券と契約の電子書面だ。
「ここの鍵は全部で三つあるの。パスコードと生態認証と物理鍵よ」
生態認証は、指紋で窓口のパネルに触れて登録する。
パスコードは玄関口で入力した数字だ。
「これが物理鍵よ。長期で出かける際は、管理人室で預かることもできるわ」
鍵穴に差し込むもの見慣れた鍵をもらう。
数字が刻まれている。
「――301号室。階段を上って三階の角部屋よ」
エレベーターはないが、貨物用昇降機があるというので、稼働をお願いする。大型のスーツケース二つを三階までもって上がるのは、自動歩行モードであれば楽だが、この建物の内部は木造で、床板の上にじゅうたんを敷いただけで万が一傷がついてしまえば大変だ。
「この貨物用の昇降機は、動力が電気ではないから、もし停電が起きたとしても使えるの。……といっても、ここに五十年以上住んでいてこの街で停電が起きたことはないのだけれどね」
大きな荷物二つを預けてようやく身軽になった。
まるで洋館の階段のように雰囲気のある造りだ。
聞けば、マリエは歴史や由緒を説明してくれたかもしれない。
「貨物用のエレベーターは管理人室でしか操作できないんだもんな」
「上に行きましょう? わたしは早く部屋を見たいわ」
「その気持ちに全力アグリー!」
三階まで上がる途中に、踊り場が二つ。
そこには窓があり、外の光が差し込んでくる。
開くような作りではないので、明り取り用の嵌め殺しだ。
「何が見えるの?」
ネムが背伸びするが、そのくらいでは見えない位置だ。
身長差は二十センチほど。
頭一つ分違うと見える景色も違うのだ。
「庭。正面からじゃ見えなかったけど、結構いい庭だぞ」
所謂、裏庭だ。アクイレギアの典型的な戸建ての形なのだが、正面の芝生の庭・建物・プライベートな裏の庭になっている。そこはちょっとした森のような木々が、パラソル付きのテーブルと椅子のセットを囲うように植わっている。その足元にはハーブのような独特の形状の葉がいくつか見受けられた。
「どっからか出られるんだろうな」
「あとで聞いてみましょうか」
背の高さの違いから見えないらしいネムはさっさと上がりたいようで、袖を引っ張って急かしてくる。二階を通り過ぎ、三階だ。どこか生活感を感じた二階とは違い、無人のようだ。というのも、敷かれている絨毯に踏みしめた痕跡がないのだ。階段から右手の突き当りに該当する部屋があった――301号室。
階段横の壁の引き戸を開けるとスーツケースが二つある状態で先回りされていた。ネムが一つずつ出してその空間を空にすると自然と床が下がっていった。
「重みがゼロになると下に降りていくってのは本当なんだな」
「危ないので閉めるわね」
引き戸を閉めると周囲との境目が分かりにくい。
絡繰り仕掛けの屋敷のようだ。他にも何かあるかもしれない。
「このお花、きれいね。摘みたてかしら?」
窓の下に置かれている飾りテーブルは、脚が二本だ。
そこに白磁のような表面のスリムな花瓶が一つ立っている。
刺さっているのは、三本のオレンジのダリアだ。
「これを目にするの、管理人のマザーマリエのほかはオレたちだけなのかもな」
不思議そうに振り返る幼馴染に、たぶんだけど、と付け加える。
三階に扉は三つ、そのうちの右端のノブに手を掛ける。
話は変わるが、アクイレギアでも最も地価の高い地区の一つにリグナムバイタのマグワート島がある。証券取引が行われる金融街、ブティックを詰め込んだ通り、高層階のコンドミニアムといった富裕層の生活圏にあり、家賃はひと月40万円は下らない。一人暮らしの家賃の中央値は50万円だ。なぜこんな話をするかというと、そんなマグワート島の中心に、ルヴィたちの通う予定の名門カレッジが存在するからだ。修士号まで、最短で二年として、ひと月40万円を24回支払う――家賃だけで960万円だ。これは光熱費を含めたその他の生活費、学費を考慮しない。
「広っ」
「アクイレギアサイズね」
南向きの窓から日が差し込んでいるようだ。
玄関からまっすぐに伸びる廊下の奥には歴史を感じさせる摺りガラスの扉だ。
その廊下には左右に扉が一つずつついている。
「2LDKの部屋なの。突き当りはリビングダイニングキッチンね」
「間取り知ってるんだな」
口にして、それも当然かと思う。
薄青の瞳が横目を伏せてみせる。
「誰が契約したと思っているの?………と言いたいところだけれど、逆にそれしか知らないわ」
入りましょう、という言葉に従い、荷物を転がして玄関に置く。
背中で扉が閉まると、自動で鍵がかかった。
目が、眩んだ。
「ルヴはここで座って待ってて。窓を開けて換気してくるから」
リビングに入ると、まずダイニングテーブルがあった。
椅子は二脚。この部屋は二人用と聞いたからそのためだろう。
左手にキッチン、右手にテレビとソファがある。
ソファに体を放り出して目を閉じる。
そうそう、と白髪の老婦人がショールを翻してこちらを向く。
「朝9時からお昼の5時までよ。私は大概この管理人室にいるけれど、席を外しているときは不在札を掛けているわ。何かあったときの緊急連絡先はこの番号にお願いね。各部屋には管理室に直通の電話を設置しているわ。それと……」
一度、言葉を切ってから老婦人は続けた。
「実は、もうひとり管理人がいるのだけれど、彼女はこのレジデンスの管理業務とは他に、近くで雑貨店も営んでいるの」
確かにここを高齢な老婦人一人で回すのは厳しいだろう。
兼業であるので、ここへ来ることはあまりないらしい。
「もしこの管理室にいるのを見つけても不審者ではないってことだけ分かっていてね。チャコールの髪に緑の瞳、カカオ色の肌のキュートな女性よ」
管理人室の壁にあるパッチのようなものを下ろすと何かが動く音が聞こえて来た。振り返るマリエが階段を手で示した。
「――よい学生時代を」
その白樺の枝のような右手には、薬指に銀の指輪が光っていた。
甘い香りがした。目を開けると、親指を握り込んだ自分の拳が見えた。
「…………ルヴ、起きた?」
薄青の瞳が霞んだ春の空みたいだ。
「眠っちゃってたんだな」
「ほんのちょっとね」
レースカーテンが掛かった大窓からの日差しは少し斜めになっていた。
「レモネードよ。飲めそう?」
「もらう。あんがと……」
はじめて見るマグカップだ。起きても、ここが異国の地だとは思えない。目に入るのは馴染みない部屋だが、そこにいるのは自分と幼馴染だからだ。
「さっきの下でのやりとり、そのまま夢に見てた。知らないとこだから緊張してたみたいだな」
手のひらを解くと、鈍く疼いた。
短くはない間、血が滞っていたようだ。
「それに疲れも出てるのね。まだ日が高いのに――朝寝ね?」
「時差十四時間だろ? フライト十三時間だろ? もう体内時計がしっちゃかめっちゃかだぜ」
出発した日時と同日の一時間後に着いたことになる。
お得なような、そうでないような。
「それにしても買い物行ってたのか?」
マグカップを持ち上げて見せる。
ネムは首を横に振った。
「それももともとここにあったの。家具付きだと聞いていたけれど、いろんなものがついてるようなの。コーヒーメーカーもあるし、基本的な調味料もあったわ」
「便利………ここっておいくらなん?」
「毎月およそ30万円よ、ふたりでね」
一人当たりにすると15万円。
地下鉄一本二十分、徒歩十分。
このリビングの他に、個室が二つの2LDK。
距離があるとはいえ、日当たり良く家具付きの閑静な環境。
「――よく見つけたな?」
「祖父の知人からの紹介なの」
あっさりとリソースを明かす。
ネムはいつも自分の手柄をひけらかさない。
マグカップが重いのか両手で支えながら口をつけている。
「へえ……ネムと同じくらい引きこもりなのに、来客多くて顔広いの謎だよな」
湯気を鼻先に浴びていると、飲み終えたネムがローテーブルにマグカップを置いた。
「では、部屋割りと荷物の片づけをしましょう? 掃除もしないと、今日寝られないわ」
「ルームツアーとしゃれこむか!」
膝を叩いて立ち上がる。
目を細めるネムの後ろをついて扉という扉を開けに行き――結果、部屋割りはすぐに終わった。個室の二部屋の間取りはほぼ同じだ。空の本棚があり、机と椅子があり、ベッド、クローゼットがある。ベッドにはマットレス、シーツ、カバー、布団もあって、ベッドメイクも済んでいるところまで同じだ。違うのは、玄関から向かって右手は、角部屋に当たるので窓がついていて、反対側には窓がない。
「ネムが嫌じゃなけりゃ、窓無しの部屋、オレでいい?」
「日当たりのいい部屋の方がいいものじゃない?」
窓付きの角部屋を譲られたことにネムが首をかしげる。
もちろん、完全なる角部屋というのは憧れる。
「兄貴との連絡にその方が都合がいいんだ」
「……そういえば、そうだったわね」
ネムも神妙な顔をしている。
そう、兄との連絡は重要だ。なぜならこの留学にかかる全費用はルヴィの長兄が全面バックアップしているから。つまりルヴィたちのパトロンだ。
「定期的に連絡を取るのを忘れないようにね、ルヴ」
「わかってるって」
こうして熾烈なじゃんけんも複雑なあみだくじもコイントスもなしに平和的に決まった後、各自荷物の片づけと掃除に取り掛かかるため、それぞれの部屋に入った。
*****
新しい子どもたちが無事に到着したことを管理簿に記載していく。レジデンスの業務を執り行うようになって三十年以上経つが、寄る年波には勝てない部分も出てくる。あの人の子に手伝いを頼んだのは別の理由があったけれども、今は心強くて助かっている。
夏季休暇の終わり頃。午前中とあって、二階の住人の子たちは、まだ眠っているか、研究室で泊まり込みをしているか、課外活動に出ているかしていて、静かだ。物音が聞こえてくるのは三階の新しい子たち。歓迎のもてなしはなにがいいだろうか。一番日当たりのいい角部屋は喜んでくれただろうか。外に出て花壇の水やりをしながら三階を見上げると、視線を感じて振り返る。
そこには風に揺れる柳しかない――いや、違う。
マリエは微笑し、軽く手をあげた。濃緑のテントを掲げる店はガラス張りで、カウンターでこちらを見る店主へと。




