45 安否
「……そうか、ルヴィの目が覚めたんだね。よかったよ」
着信が鳴ってすぐに部屋から出た廊下の隅で電話に出ると、可憐な声が友人の意識が戻ったことを伝える――ほっとして目頭を押さえた。
『心配してくれてありがとう、リック。休んでしまった講義のことも対応をしてくれて』
アクイレギアでできた友人の中で最も新しく、心理的に最も親しみを感じている友人たちが講義に来なかったのが三日前のことだ。いつも真面目に講義を受けているふたりが開始時間になっても姿を見せないことを不思議に思っていたのは、パトリックだけではなかった。
「大したことはしていないよ、ネム嬢。ザイガー教授も何かあったのではないかと懸念されていた」
『そう……不思議ね。最初のころはルヴにあんなにひどいこと言っていたのに』
それは本当だ。
けれど、不思議でもないのかもしれない。
「父は言っていたよ。イクシオリリオン人の文化的作品の中には、最初的だった相手が仲間になるって。そうした展開は僕にはなじみないけれど、ネム嬢たちの国ではきっと珍しくもないことなのかもしれないってね」
敵になればどちらかが血を流し、命を失うまで気が抜けない。
血塗られた歴史がそれを証明している。
同じ島国であるのに、何がここまでの差を作っているのだろう。
『素敵なことを言ってくれるけれど、でも少なくともわたしにとっては違うわね』
まったく戻らなかった意識が戻ったが故か。
彼女の口調は明るかった。
電話越しだと気負いなく話すことができる。
「またふたりに会えることを楽しみにしているよ」
『ええ。ではまた』
壁を向いて話していたところから携帯をしまって振り返ると、足元に甥がいた。
「どうしたんだい、ダリル」
「ママが探しに行こうとしてたから、僕が呼んでくるって言って出てきたんだ。邪魔されたくないと思って」
たいせつなでんわなんでしょう、と大きな青灰の瞳で見上げてくるので、思わず両脇に手を入れて抱き上げた。
「僕の甥っ子は優しいいい子だね。誇らしいよ」
「ママはぼくのこと、どんくさいっていうよ」
言葉が詰まる。
「数学の勉強がすすんでないって怒られるんだ。だからほかの子に教えてもらおうと思ったのに、マーティンもジョイスも知らないっていうんだ」
八歳の子供に姉はいったい何をやっているのだろう。
数学というが算数のことだ。
「数学もできるのかい? わからないならおじさんが教えてあげるよ」
「ほんとう? よかった、わからないとママにぶたれるんだ」
抱きなおして、背中をなでる。
「――何が分からないのかい?」
「えっとね、因数分解」
思考が停止する。
声が震えないようにするので必死だった。
「教えてあげるよ。ダリルはお利口だね」
「ほんとう? でもママいつもまだだめだってパディに負けちゃダメだって」
赤みを帯びたオレンジの髪に顔をうずめる。
「ママの分まで、僕がいい子だっていうよ。ダリルは僕よりずっとずっと自慢の子だって」
子どもの小さい両手足を使ってしがみついてくる甥を抱えて、先ほど出てきた扉の前までたどり着いたところで、甥の手足が離れる。だらんと垂れ下がるのを見て、幼い子どもながら聡さをみせる甥に愛おしくも哀しい気持ちになる。床に下ろすと手を伸ばされるので、その白い手を握る。
ノックをして部屋に入ると、父母と姉夫婦たちが勢ぞろいしていた。
「ママ、おじさんを連れてきたよ」
「遅いじゃない。どこほっつき歩いていたの」
冷ややかな口調が襲ってくる。
「――あ」
「ごめんよ、ヘザー姉さん。ちょっと追いかけっこが楽しくてつい撒いてしまった」
パトリックは謝った。
この冷たい言葉がかけられているのは甥ではないと思わせるために。
「鬼ごっこか、パディも童心にかえるものなんだね」
「パパ」
ダリルが義兄――自分の父親のところに行こうとすると、それより先に母親であるヘザーが鼻で笑って止めた。
「ふん。ダリル、あなたはほかの子たちと一緒に隣の部屋で遊んでなさい」
「はい、ママ……」
ダリルは表情を消して、つないだ手を離すと、隣の部屋に続く扉を執事に開けてもらい、姿を消した。
「あの子の髪がニンジンのような色なのは、あなたのせいよ」
「その話はもう聞き飽きた。責めるのなら、最終的に僕のところに来た君の選択を責めるといい。名だたる名士の御曹司との見合いをどぶに捨てて過去の君をね」
両手を広げて嗤う義兄は最近は愛人のところにいるという。
茶色の瞳をぎっと凄ませた六番目の姉ヘザーが夫のこうした言動で傷つけられているとしたら、それは心ではなく矜持なのだ。
「気に入らないといえば、あの子のそばかすもそうよ」
「だから? これ以上広がらないよう、日が当たらない部屋に閉じ込めてるそうじゃないか。良い母親だね」
一番下の姉夫婦は大恋愛した末の結婚だというのにうまくいっていない。
上の五人の姉夫婦については全員政略結婚だというのに仲がいいから不思議だ。
「あなたを金づるにしてる女の手本にさせてもいいわよ?」
「面白い冗談だ。本気だとしたら正気を疑うな」
聞くに堪えない話は、年老いた父の咳払いで止んだ。
口をぴたりと閉ざした姉夫婦とは別に、静かに茶を飲んでいるほかの姉夫婦たちは感情の起伏を感じさせないにこやかな微笑を張り付け――寸分の隙も晒さない。
ヘザーら夫婦のように明け透けであれば対応も楽なのだが。
半世紀以上年の離れた両親、四半世紀も年の離れた姉とその夫らが席を埋める空間はいつも息苦しくて仕方ない。
「パトリック、こちらへ座りなさい」
「はい、父さん……」
返事をして、ふとどこかで耳にしたような口調だと思う。
年老いた父の隣の席に向かう間、姉たちの視線が強烈についてくる。
父の次に豪奢な椅子に座ると、にこりと笑う姉たちの目が恐ろし気にゆがむ。
「では、家族団欒の語り合いをするとしよう」
その声を聴きいて、パトリックは隣の部屋の甥のことを思う。
そしてふと気づいた。
先ほどの自分の返事は、ダリルが母親に返事をしたのと同じようだと。
両親と姉夫婦が去るのを見送り、行儀は悪いが襟元へ指を差し入れ緩める。
「油断も隙もあったものじゃないな……」
ため息をつき、彼らとは別の扉、続き間の扉へ大股で向かう。
執事は両親について行ったので不在だ。
自分で扉を開けると、悲鳴が上がった。
「わ――何だい」
顔だけのぞかせると、そこには巨大なドミノが次々と倒れていく無残な光景があった。手を浮かせて止めようとする甥、止めようとして転んだらしい大甥、顔を上げて呆れた顔の甥、寝ている大甥……などなど子供部屋では阿鼻叫喚となっていた。
「パディ!」
「ごめんよ、お詫びはするから」
すると順々に体に飛びつかれ、あっという間に重たくなる。
「また余計な約束事をしたな? パディ」
幼い息子を捕まえた甥はパトリックより年上だ。
甥の息子を大甥という。
「久しぶり、ギル。やらかしてしまった責任を取るのは大人の役目だと示さないとね」
「では、僕もお詫びの品のリクエストしようかな」
顔を上げると、ギルバートは彩色された木製ピースを掲げて見せた。
「何してるんだ、大の大人が……」
「大人が遊んじゃいけないってわけはない」
ため息をつく。
連日連夜まで続く遺産や権利についてのやり取りに滅入るのはパトリックばかりだ。
「あちらの間では野心家たちが舌戦を繰り広げていたっていうのに……」
あまりの落差、まるで悪夢のようだ。
三番目の姉夫婦の息子であるギルバートはパトリックより三歳年上の甥だが、既婚者で子持ちだ。
「パディもこっちに混ざればいい」
できないと分かっていて言っているのが意地が悪い。
すると五歳年上の甥であるカーライルも息子を伴ってやってくる。
「あまりパディを弄ってやるなよ、ギル」
「いいじゃないか、僕たちがいるところでくらい。……兄さんたちは何か企んでる。気をつけろよ?」
彼らは従弟同士で気安い関係だ。
ざっと部屋を見回す。
この部屋には、今二人を除いて、姉夫婦の次男以下とその息子がいる。
その一人はパトリックで、もう一人は末の姉の一人息子であるダリルだ。
「私たちの両親が長兄と何か企んでるなんていつものことだろう。怖がらすもんじゃない」
「いいんだ、ライ。ギルもありがとう」
姪や甥の娘は、女性たちの部屋にいる。
男尊女卑を地で行くのがこの一族だ。
古い仕来りが今も健在と来ている。
その間も背中から方によじ登ってくる大甥を肩車しながら、ソファに座る。
親と子ほども年の離れた実の姉よりも、年の近い甥のほうが話が弾んだ。
「オリバーは大きな投資をしたらしいんだ。義姉の勧めでね」
「あそこは義父母とも仲がいいよな」
首からごろりと膝に降りてきた大甥がテレビをつける。
チャンネルを切り替える中で、カーライルがその手を止めさせた。
「パパ?」
「――これは大変かもしれない」
パトリックの膝からカーライルの足元に移った大甥が緑の瞳を瞬かせる。
同じ色の瞳はテレビに釘付けなので、パトリックもそちらを向く。
『世界規模での仮想通貨の詐欺が発覚しました』
仮想通貨は国が発行する通貨の枠を離れているため、国境がない。
その通貨というのは、専用のトレードで通貨と同じようなことができるようになっている。
「ライ、どうかしたのかい?」
「この仮想通貨に投資していた気がするんだ、オリバーたちが」
『仮想通貨ホールコインは歴史上最大の詐欺被害額に上るとみられ――』
「――もしそうなら、お爺様がそれを許すかな」
ギルバートの言葉がぽつりと落とされると、部屋の雰囲気が変わった。
幼い甥たちも、大甥たちも硬直する。
「どうかな……」
一瞬にして恐怖に陥れる代名詞と化している父親は、パトリックからするとそれほど恐ろしい存在ではない。しかし、どうにかできる存在でもない。
「馬鹿な選択をしたといわれるだけかも」
「それは私たちにとって、余命宣告をされたようなものだよ」
パトリックの言葉に、年上の甥は目を伏せた。
既に近親者が亡くなったような空気になる。
久しぶりの帰郷は波乱となりそうだった。
……こんなことになるなら、父からの要請を断ったことに意を痛めながら、アクイレギアにいて友人の見舞いをしていた方がよっぽど良かった、と現実逃避を図る。不慮の事故に友人たちが巻き込まれたというのは、今から三日前のことだった。




