44 トリソミー
マップで経路を辿っていくと、赤い屋根と白い壁の家に着いた。白い柵で囲われた芝生の庭は他の家にも共通しているが、玄関前の、煉瓦で壁に沿うように作られた花壇には、緑の中に犇めくようなマリーゴールドが咲き誇っている。
「ごめんください。マザー、わたしです。ネムです」
ベルを鳴らして、ノックを3回。
しばらくすると、ゆっくりとした足取りが近づいてくるのが聞こえた。
「………まあ、ネム。無事だったのね。どうぞ、お入りなさい」
顔色の悪いマリエの顔に、やはり来るべきではなかったかもしれないと思いながら、ネムは出来るだけ早く切り上げようと家の中に上がった。どこか懐かしい草木の匂いがして、少し考えて名称を思い出した、ヨモギだ。
「マザー、お加減が悪いと聞いて。これ、お見舞いの品です。『お好きかと思って』」
大したものではありませんが、という文句はNGと聞いていたので、ネムはアクイレギア式に伝えた。
「ありがとう。奇麗なお花。カスミソウね。大好きなの。これは……レモンかしら?」
「ゼルコーヴァ製のゆずジャムです。お湯を入れて飲むと、体が温まるそうです」
マリエはありがとうとほほ笑んだ。赤いショールを体に巻き付けている。部屋の明かりは全くついておらず、人気を感じられなかった。もしかしたら眠っていたのかと思ったが、それにしては出て来るのが遅くもなかった。
顔色が悪かったのが、ネムと話すうちに、少し血色が戻ってきたように思う。
「お茶を用意するから、そこの部屋に掛けていてくれるかしら」
すぐに帰った方がいいと思ったが、ジャミラから様子を見てきてほしいと言われてもいたので、もう少しいることにした。示された部屋は扉がなく、向こうの窓から裏庭が見えていた。机と椅子があり、煉瓦造りの暖炉があった。裏庭は、敷地を囲む白い柵の背が高くなっており、そこに蔓ばらが茂っていた。
「お待たせ。持ってきてくれたゆずジャムを使ってみたわ」
「ありがとうございます。すみません、具合が悪いのに」
「あら。ネムの顔を観たら元気になったわよ」
マリエはほほ笑んで、ゆず茶に口を付けた。良い香りだと目を閉じた。湯気が漂う湯呑をそっと下ろして、両手を膝の上で合わせた。
「ジャミラには悪いわね。心配ばかりかけて。……本当は、後継の人を探さなくてはならないのに、老人がでしゃばって管理人をしているのだもの。気苦労が多いはずだわ。ここにあなたを寄越したのも彼女でしょう?」
どう返したものか、情報量が多かったが、ネムは、住所を知らない筈なのに尋ねてこられた理由を答えた。
「住所を教えてもらいました。2度ほど電話をいただいたのに取れずすみません、マザー」
するとマリエは目を瞠った。濃い茶色の瞳の瞳孔が暗がりの中で開く。純系のイクシオリリオン人のような瞳だ。マリエは口許に手をやった。
「まあ、掛けなおしてくれたのかしら? 実は今、私の携帯はFBIに取られてしまっているの。ホールコインの被害者のデータが欲しいとかで。だから私の方が電話にとれない状態なのよ」
「そうだったのですね」
事情が分かってネムはほっとした。
ゆず茶を一口飲むと、柑橘類のすっきりとした香りが口の中に広がった。
「さっきジャミラさんに、バター茶を入れていただきました。砂糖入りのが美味しかったです」
「あれは、適度に砂糖を入れないと飲めたものではないのよね。そして、バターは無塩バターでいいと思うのよ。バター茶を嗜む部族は、塩分を取る必要が、きっとあったのね。でも私たちは正直、普通の生活をしているだけで塩分過多でしょう?」
遊牧民や山岳地帯に住む部族が愛飲するらしい。
塩は、岩塩からとられたものを使用するという。
そういった場所では、甘味はどのように摂取するのだろう。
サトウキビや蜂の巣があるのだろうか。
後で調べてみよう。そう思った時、ネムは管理室にある本棚のことを思い出した。かなりの読書家、というより勉強をしているようなラインナップだった。読書と言えば、雑貨屋の女店主をしている時のジャミラは、いつも文庫本サイズの本を手にしていた。共にふたりで管理人をしているということは、ジャミラの私物を収めている可能性もあるわけだ。
ゆず茶をもう一口飲んでからネムは尋ねた。
「管理人室で思ったのですけれど、あの大きな本棚……ジャミラさんの読んでいる本を、しまってあるのですか?」
あの蔵書は偏ったカテゴリーだったけれども、どれも専門的なものが多い印象だったので、良ければ見せてもらえないかと思ったのだ。その為に、その書籍類の所有者を確認したかったのだが、マリエは口許に持って行きかけた湯呑をテーブルに置いた。
「――いいえ。あれは私が読んだ本を仕舞ってあるのよ」
しん、と沈黙が広がる。
今まで気づかなかった、部屋で時を刻み続ける秒針の音がやけに響いた。
「マザーの読んだ……?」
「ええ、そうよ」
ネムは意外だったので驚いた顔をしてしまった。実のところ、ネムはあの本棚の蔵書の主が、単純にジャミラだとは思っていなかった。文庫本のサイズよりも大分大きく、専門書の大きさであるし、年代もだいぶ古いものもあった。ただ、マリエのものという線は考えていなかった。あれらはカレッジの図書館にあるような装丁だった。つまり、一般の家庭が気軽に手に入れるような値段でもなければ、内容でもない。
カテゴリーのなかで、子育て関連の書籍は学生寮を運営しているので、それだけは関連付けてもおかしくはないかと思うが、遺伝や障害関連のラインナップは、何か専門的な勉強をしているか、あるいは――
「ネム、世の中には障害を持っている子どももいるでしょう?」
――身近にそういう人がいるか、だ。
マリエは膝の上で重ねた手を広げた。
「でもね、産まれてくる子どもたちは氷山の一角。軽い障害だから生まれるの。重度の障害の子はそもそも流産して生まれない。早期流産の90%は胎児異常による自然淘汰と説明されたわ」
受精機構は多精拒否機構ともいえる。配偶子の受精によって染色体数の倍化が起こるので、前もって染色体数を半減して一定数に保たなければならない。相同染色体と対合と交差、2回の連続分裂による染色体数半減が特徴だ。ここで交差は、父方と母方の相同染色体間での部分的組み換えのことであり、新しい組み合わせを生じ、配偶子における遺伝子組成の多様性を生じる。これを減数分裂という。
ヒトの精子の形成過程は、増殖期において、始原生殖細胞が生殖腺に移行して精原細胞となる。発生初期に分化した精巣内の精原細胞は休止状態となり、青年期に達すると、精巣では精原細胞が体細胞分裂を繰り返して数を増やす。成長期において、精原細胞が成長すると一次精母細胞となる。思春期に当たることが多い。減数分裂期において、1個の一次精母細胞が第一分裂で2個の二次精母細胞に、そして第二分裂で合わせて4個の精細胞を形成する。精細胞は形が変わって精子となり、精子形成となる。
ヒトの卵子の形成過程は、増殖期において、同じように始原生殖細胞が生殖腺に移行して卵原細胞となる。発生初期に、卵巣内では体細胞分裂を繰り返して多くの卵原細胞を形成する。卵原細胞の数は5か月目には600万個を超えるが、その後大部分は退化する。成長期――ここは胎児期に当たる――で卵原細胞の一部は成長して一次卵母細胞となる。減数分裂期において、一次卵母細胞はすぐに減数分裂に入るが、第一次分裂前期を終えた段階で休止状態となる。思春期になると、約1か月に1個の割合で一次卵母細胞が減数分裂を再開し、第二分裂中期に排卵される。分裂しながら輪卵管を通り、受精後に第二分裂を完了する。第一分裂を終えたものを第一極体、第二分裂を終えたものを第二極体というが、第二極体は遺伝子を持つが栄養を持たない。卵細胞は、胎児の段階で600万個、思春期で4万個、排卵は400個だ。
減数分裂が正常に行かない場合がある。染色体不分離で、受精後に染色体が不足していたり、過剰になったりする。
「13トリソミー。パトー症候群というのを知っているかしら?」
「いえ……」
「私もよ。その時まで知らなかったの。非常に珍しい事例だとか」
マリエは暗がりに溶けるように笑った。
「私の娘が、そうだったの」
マリエは肘置きを白い手で掴んで、窓の向こう――裏庭を眺めた。
しかしその目は外の風景を見ているようで、違うものを見ている気がした。
「15年も不妊で、ようやく夫との間に授かった娘が、ね。……それまで子が出来ないのならば、夫婦仲良くやって行けばそれもいいと穏やかに見守ってくれていた夫の親族の怒りを、私は買ってしまったの。夫の親族には詰られ、精神的に不安定で追いつめられた私は献身的に支えてくれていた夫に離婚届を持ってサインするよう詰めより、離婚したわ」
横に向けていた顔を、正面のネムに戻して、小さく微笑んだ。
「……あのレジデンスはね、もともと夫の――ウィロー家の所有なの」
罰が当たったの、とマリエは俯いて両手を握りしめた。
テーブルに透明な雫がパタパタと降った。
開いていた管理室の扉から入り、窓口の反対側にあるマリエの本棚の中から、本を探す。遺伝と障害についての本だ。分厚い本だったが、何度も開かれたのか、探さなくてもそのページは開いた。
染色体異常症候群についての章だ。
性染色体異常と常染色体のトリソミーとの二種類があることが紹介されている。
性染色体の異常とは、異数体の配偶子が受精した際に起こる。
その結果が、染色体の不足や、過剰になる。
不足の場合は、女性の1例が取り上げられている。
Xしか持たない女性だ。これは1000分の1の頻度で起こり、ターナー症候群と言われている。新生児期の四肢の浮腫、先天性心疾患、小児期の低身長、思春期の無月経など徴候がみられる。
そして過剰の場合は、女性が1例、男性が2例、合わせて3つが書かれている。
まずXXXという、Xが一つ過剰である女性だ。これは960分の1の頻度で起こり、正常な外見を持ち、通常生殖能力がある。15から25%は中程度の精神発達遅延があり、月経不順のほか、女性特有の発育の不全が認められる。
次にXXYという、Xが一つ過剰である男性だ。1080分の1の頻度で起こり、クラインフェルター症候群と言われている。下肢の長い長身で、無精子症や男性の象徴が小さく、女性のような乳房、時に知能低下がみられることがある。
最後にXYYという、Yが一つ過剰である男性だ。1080分の1の頻度で起こり、正常な外見で、長身が多く、攻撃的行動をしばしば示すことがある。
「マザーの娘さんは……」
常染色体のトリソミーにあたる。ここでは、3つが挙げられていた。
まず21トリソミー。800分の1の頻度で起こり、ダウン症候群とばれる。短頭症、平坦な微量、目尻の上がった眼瞼裂、突出した下、両眼隔離、猿線、第5指の彎曲指症、発育発達遅延、先天性心奇形がみられる。寿命は50歳から60歳。
次に18トリソミー。8000分の1の頻度で起こり、エドワード症候群と呼ばれる。発育不全、後頭部の突出、胸骨の短縮、指の屈曲拘縮と奇形、心奇形、小顎症、耳介の突出、精神知的障害などがみられる。寿命は1か月から1年以内。
「『そして13トリソミー。25000分の1の頻度で起こり、パトー症候群と呼ばれる。小頭症、小眼球や無眼球症。両側性唇裂、口蓋裂、多指症、心疾患、知的発達障害などがみられる。寿命は』……」
90%が1年以内……。
管理室の戸口からギシリと音がした。




