43 染色体
人間の情報は、遺伝子から読み取れる。
その中でも染色体は重要だ。
科学の視点から見た遺伝は、非常に無機質に思える。ヒトの染色体は、46本だ。常染色体が第1から22染色体、性染色体がX、Y染色体としてある。
男性にはXYが、女性にはXXがあり、性を決定する。
減数分裂で、配偶子が作られ、男性はXとYに、女性はXとXに分かれる。
その組み合わせで、子孫へと受け継がれていく。
古代からある、男系と女系には、両者ともに意味があると明らかになった。
男系は代々の父から受け継ぐY染色体で遡ることができた。
女系は代々の母から預かるミトコンドリアDNAで足跡をたどることができる。
イクシオリリオンでは、家名から遺伝子を辿ることには、向いていない。
その代わりに他家との相関的な家系図で読み取ることができる。
外つ国では、家系図で同じ枝先にいたとしても、違う血が混じっていることが少なくないが、イクシオリリオンではほとんどこの家系図を当てにしてよかった。但し、それがしばしば複雑怪奇だというだけの話。
いつもだったら朝の水やりで雫をのせている白い野ばらの花弁には水滴の代わりに虫がついていた。小さな黒い羽虫だ。ばらはとても手がかかる植物で、このアパートの管理人はいつも世話を欠かさなかった。朝日に照らされた芝生は青々しさを取り戻しているが、壁に穴のあいたガレージにモスグリーンの車はなかった。管理人は不在なのだ。
ネムはアパートの玄関扉を開いた。いつもの、花のように佇む老婦人の出迎える声はない――そう思っていた。
「やあ。もう動いても大丈夫なのか」
「…………あ…はい。わたしはかすり傷のようなものなので」
ハスキーな声に迎えられ、ネムはアパートの玄関の取っ手を掴んだまま、管理室の中の人物に目を向けて立ち止まる。思いもしなかった人物だった。
「それは良かった。彼も無事か」
「ええ、なんとか。おかげさまで……」
眼鏡の奥の、緑の瞳が気ぶるような灰色のまつげに翳った。ネムはアパートの芝生の庭に立つ、柳の古木を思い出して、玄関の取っ手から手を放した。はじめてこのアパートに来たときに管理人から言われたことがあった。
『実は、もうひとり管理人がいるのだけれど、彼女はこのアパートの管理業務とは他に、近くで雑貨店も営んでいるの』
ネムの背後で扉が閉まる音がした。
「……マザーが言っていました。このアパートには、マザーのほかにもう一人管理人がいるのだと」
管理人室に、マリエの代わりにいたのは、向かいの雑貨店で見かける人物だ。すっかり忘れていた。確かに、雑貨店も営んでいると言っていたし、グレーの髪に緑の瞳、カカオ色の肌をしているキュートな女性と言っていた。黒いタートルネックのセーターで肌を極力覆った中性的な容姿の女店主は眼鏡を外した。……どうして忘れていたのだろう。
「遅れまして。雑貨店も営んでいる、ジャミラ・ウィローという」
――このアパートの名前は、ウェービング・ウィロー。
建物の庭に、しだれ柳が植わっているからだと思っていた。
目の前の人物がそうなら、ではマリエ・アガタは――?
「こちらこそ。ネム・ズマといいます」
「良く雑貨店に買いに来てくれていたのに、互いに名前も名乗らなかったな」
女店主はおもむろに褐色の手をカウンターについて席を立つ。すると、長身の為に窓から体が見切れてしまう。顔が見えないまま、長い褐色の指先が横を示した。
「お茶でも入れて話そうか。管理室の中には入ったことがあるかな」
管理室の中の、本がぎっしり詰まった大きな棚を背に置かれたソファに腰掛ける。ネムが、具合の悪そうだったマリエを座らせた場所だ。ソファの前のローテーブルに、女店主――いやもう一人の管理人であるジャミラがミルクティーを置いた。しかし匂いが独特だった。
「好みを聞いてなかった。私が淹れられるのはこのバター茶だけなんだが、大丈夫だったかな」
「バター茶……初めて飲みます」
ネムはおっかなびっくりカップを持ち上げた。
「塩味もあるから気を付けて」
茶がしょっぱいのか。ネムはそろそろと口を付けた。
「……甘みとしょっぱさが同じくらいに感じます」
「飲みやすいように、砂糖も入れてみたんだ」
「美味しいです」
思っていたような塩味でもなかった。
逆に塩が入っていることで、甘味が強調されているぐらいだ。
味に深みが感じられて美味しい。
「マリエの茶葉に、ミルクと水、有塩バター……そしてさっきも言ったが、砂糖だね。これを入れないとここでは受けが悪いんだ。私は砂糖を入れずに飲むのが慣れているんだがね」
ジャミラは銀縁の眼鏡を掛けなおしながらバター茶に口を付ける。
本来は砂糖を入れないのだという言葉に、ネムはほほ笑んだ。
「抹茶や緑茶に砂糖を入れるのと同じですね。わたしたちもそれらには本来砂糖を入れないのでびっくりします」
「マリエも言っていた。緑茶に砂糖を入れるなんてとんでもないとね。どうかな、砂糖なしのバター茶を飲んでみるかい? 全くの別物だから、ちょっとだけだよ。慣れていないと強烈な味らしいから」
ネムは飲んでみたいですと告げて、一口飲ませてもらったが、確かにこれは全くの別物で、少なくともネムの考える『茶』というのが甘くないものだったのが、しょっぱくもないものというラベルを追加する必要がありそうな代物だった。
「どっちが好みかな」
「わたしは……砂糖入りが好みです」
正直にいうと、ジャミラは声を立てて笑った。そんな表情を初めて見たので、ネムは驚いた。エキゾチックな美人が笑うと破壊力が凄い。ネムはひそかに胸に手を当てて鼓動が跳ねるのを落ち着けようとした。眼鏡を取って褐色の指で目の涙を拭う。
「たくさん作ってあるから、何杯でも飲める。私の癖でね、カップが空だったらいくらでも注ぐから、要らない時は少し残しておいてくれ」
茶葉についてマリエに扱いが雑だと怒られた話を聞いたり、塩分が多すぎるから控えるように口やかましく言われる話を聞いた。眠り続けて会話する相手もいない病室から出てきたネムは、久々の人との会話にほっとした。
「彼はまだ病院から出てこれないのかい?」
「……昨日、朝に少し目を覚ましたんです。検査をして異常はなかったんですが、眠いと言って寝てから今朝まで一度も目が覚めていません。特に異常はないということなので、様子見を。ただ、ずっと寝た切りなので、今日予定していた退院は遠のきそうです」
今日からカレッジでは秋休みに突入する。唯一と言っていい友人のパトリックも一昨日の水曜の夜に帰省の為にエルム行の飛行機に乗っている。ネムのメンターであるキャロラインには、秋休み前なのに余計な心配を掛けたくなくて入院していることも話していない。ネムの交友関係はとても狭かった。
「起きない人の付き添いは大変だろう。病院側に起きたら連絡をするように伝えるといい」
「そうですね。ルヴのベッド横に携帯を置いて、わたしがいないときに起きたら電話をするようにメモをしているので大丈夫だとは思うのですけど」
顔色は悪くないのだ。呼吸が浅かったり、途切れたりすることもない。診断としては疲労だということなので、ただ本当に眠っているだけだ。
「あの、マザーはお元気ですか? 昨日連絡をしたのですが、つながらなくて」
「マリエは……ちょっと前から体調を崩していてね。寝込んでいて携帯の電源は切れていると思う。私は一旦店を閉めて、レジデンスに集中している状態だ。客が来れば、ここから防犯カメラで分かるし、電話をもらったら一時的に開ける形で営業もしている」
多忙だ。ネム達の病院に見舞いも行けなかったというが、首を振った。
ネムは悩んだ末に切り出した。
「あの……わたしがマザーのお見舞いに行くのはご迷惑でしょうか?」
ジャミラは口許にわかるか分からないかくらいの微笑を浮かべた。
「……その話をしようと思ってね。是非、そうしてくれると嬉しい。私はここから離れられないから、様子を見てきてほしいんだ。住所はここだよ」
携帯で住所を転送してくれた。
ここから歩いて30分ほどのところにある。
行って帰って来るのに1時間かかるが、今はまだ午前なので問題ない。
医者からは昨日、一時を除いてずっと寝た切りなので、ルヴィが例え午後に目が覚めたとしても退院はできるが、お勧めしないと言われていた。
「悪いね。何か用事があって戻って来たんじゃないかな」
「いえ。着替えを取りに来たんです。洗濯をしてくれるサービスはあるのですが、同じ服ばかりなのと、ルヴの入院がもう少し長くなりそうなので……」
ネムはバター茶を飲み干した。するとすかさずジャミラがお代わりを入れた。
「……おっと、お代わりでいいね? もう入れてしまったが」
「もう少し飲みたいと思ってました」
ネムは笑いながらカップを持った。管理人室の休憩スペースから出ると、まっすぐ三階に向かい、着替えを用意してから廊下に出る。すると階下から物音が聞こえた。居住者たちは2階以上で生活している。他の住人が出てきたのかもしれない。そう思って手すりを見下ろすと、姿は見えないものの話し声が聞こえた。
「………マザーマリエは、まだ来ないの? ジャミラ」
若い女性の声だ。
ネムは今までこのアパートの他の住人に出会ったためしがないので意外に思った。
返事は、低めの落ち着いた声だった。
「……ああ」
「じゃあ……じゃあ、いつになったら戻ってくるの?」
どこか落ち着かなげな口調だ。
「一連の協力が終わったら」
「……事故の取り調べていったいつまでかかるっていうの!?」
突然声を荒げた声は、階段にいたために建物中に響き渡った。
ネムは思わず手すりから体をひっこめた。
「エミ?」
怪訝そうなジャミラの声。
ついで、心配そうな口調になる。
「何かあったのか、エミ」
「っなんでもない! ちょっと………ちょっと気が立ってただけ」
いくら鈍いと言われるネムでも、何でもなくはないと分かった。
早口でつらつらと言葉が重ねれらていく。
「ほらだって、ニュースでいろんな事件が発生しているせいで、まともに外に出られないじゃない?」
閉じ込められる不安と言うのはみんなが感じるだろう。
それにしても、そんなに世の中の治安が悪いのだろうか。
「そう、か。足りないものや必要なものがあれば買ってくるが」
「食べ物も厨房の冷蔵庫に常備してもらっているんだから、不足なんてないよ。ありがとう」
階段を上げって来るのが聞こえてネムは慌ててどこに隠れようと焦ったが、足音はそのまま二階に向かい、ばたんという扉の閉まる音が聞こえてほっとした。
「…………安心するなんて、わたし、これじゃいつまでたっても友達を作れないわね」
ため息をついた。




