42 ベッドバス
ルヴィが起きたら取り調べを行うとFBI特別捜査官であるヒーカンは言った。しかし、依然としてルヴィは目を覚まさない。何かあれば連絡するように電話番号を渡された。ネムは昨日目が覚めたというのに。意識がなくなって今日で三日目となってしまう。この状態は、許容される範囲内のことなのだろうか?
「おはよう、キングサリさん。清拭しに来たわ」
いつもの小柄な看護婦フィリスが現れる。
彼女は、医者でなくとも診断や処方することが可能な上級看護師に該当する。
アクイレギアの正看護師であるRN(Registered Nurse)は、学歴による区分けで、短期大学卒業レベルであるADN(Associate Degree in Nursing)、大学卒業レベルであるBSN(Bachelor of Science in Nurse)の二種類がある。資格取得は各州毎にあり、難易度も専門性も異なっている。この正看護師のさらに高度な業務を行う上級看護師NP(Nurse Practitioner)だ。この上級職は正看護師としての実務を経験した後、大学院での修士号ないし博士号を取得し、試験に合格しなければならない。
つまり、フィリスは優秀な看護婦だということだ。
「おはようございます。お願いします」
何度か見に来てくれる時、医者とともに来ることもあれば、フィリス一人の時もある。
「朝食は食べた?」
「頂きました、温かい食事でありがたかったです」
朝食は何も伝えていなかったのだが、パンケーキ、スクランブルエッグ、フレーク、バナナ、牛乳が乗ったトレイを渡された。見た目は雑だったが、味は悪くなかった。
「それはよかったわ」
病床の傍らを譲ると、フィリスが清拭を始める。
邪魔にならないように付添人のカウチに腰かけると、フィリスが残念そうに言う。
「今日から四連休だというのに、災難ね」
「命があったので……幸いだったと思います」
昨日より今日、血の気のなかった顔色が良くなっている。
こうした変化を具に確認できるのが心の支えだ。
「ずっと病室にいて大変じゃない?」
「平気です。昨日出かけましたし」
昨日は着替えを調達しに出かけた。
それ以外は看護婦の言う通り病室に缶詰め状態だが、やることも多い。
予め用意してある、ルヴィの肌着を使って看護婦は着替えさせた。
「どこへ出かけたの?」
「街へ行って、入院に必要なものを揃えていました。この着替えとか」
今日のネムの服装は、黒いブラウスにグレーのノースリーブのワンピースだ。
昨日脱いだ服と着ていた服は、洗濯に出している。
「そう……用意がいいのね」
「はい。なので当分、付き添っていられます」
ネムが片時も離れない意志なのを感じ取ったのか、フィリスの表情がわずかに強張った。
「……たまには外に出て息抜きに散歩でもしてね」
「お気遣いありがとうございます」
病院の屋上にはちょっとした森のような庭があるらしい。
自分から外に出るような性格でもないので、ネムは礼だけ言っておく。
その間も、フィリスの手元を何とはなしに眺める。
誰かが働いているのに、自分が何もしないというのは気まずい。
「――キングサリさん、早く目が覚めるといいわね。昨日お見舞いに来てくれた彼は、ボーイフレンド? それもとこの子?」
昨日、パトリックはカレッジ帰りに見舞いに寄ってくれた。
カレッジからこの病院は地下鉄一本だったそうだ。
「どちらも答えはいいえ、です。ルヴは子どもの時から一緒にいてここではルームメイトで、お見舞いに来てくれたのはわたしたちの共通の友人です」
そのパトリックも帰省のため、今日の朝の飛行機で母国のエルムに飛び立ったが、ネムとルヴィが無断で欠席していた対応もしてくれたため、慌ただしい最終日になったことだろう。
「素敵なブーケとセットでフレッシュな紳士が来たものだから、下はちょっとした騒ぎだったわ」
「エルムではお見舞いに、洋菊とブドウが定番なのだそうです」
今も花瓶に黄色と白の菊の花が瑞々しく咲いている。
長持ちすることから好まれているらしい。
そうやって話をしていると、看護婦は作業を終え退室し、ネムは再びベッドの横を椅子に腰かけた。昨日より、今日はなんとなく顔色がよくみえる。その胸の上に耳を当てて目を閉じた。
「………早く起きて、ルヴ」
ベッドの脇に置かれた指がピクリと動く。
*****
カタン、カタン、と足音が上から聞こえてくる。
居住者たちは2階以上で生活している。
常駐している管理人の姿がいないと、明りが消えたように暗く感じる。
管理人室の窓口に不在札をかけていると、階段から軋む音がした。
「………マザーマリエは、まだ来ないの? ジャミラ」
視線を向けると、そこには2階に住む女学生が手すりから身を乗り出していた。
名前はエミだ。よくフィールド調査で部屋を空けていたが最近はそれもないようだった。
「……ああ」
「じゃあ、いつになったら戻ってくるの?」
わからない、そう正直に告げるのは、マリエの体面を傷つけてしまう。
「一連の協力が終わったら」
「……事故の取り調べていったいつまでかかるっていうの!?」
突然声を荒げたエミの声は、階段にいたために建物中に響き渡った。
「エミ?」
急激な変化に戸惑い、名前を呼ぶと、はっとしたような顔になる。
その顔は瞼が腫れていて、目の下には隈がくっきりとあった。
「何かあったのか、エミ」
「っなんでもない! ちょっと………ちょっと気が立ってただけ」
乾燥した唇を引きつらせて笑う。
両手を広げて上下に揺らしながら話す。
イクシオリリオン人は総じて動作がどこか幼い印象がある。
「ほらだって、ニュースでいろんな事件が発生しているせいで、まともに外に出られないじゃない?」
確かに、エミは活発な性格で、フィールド調査に励んでいる。
担当教員の教授と仲良くなったらしく、頻繁に数日から数週間にわたる現地調査に行っていた。
このレジデンスに居住している学生たち皆がそうであるように名門カレッジであるライムライト大学に通う学生だ。このレジデンスに来た当初は、異国での生活や思い通りにいかないことにぶつかり苛立ちながらも食らいついていた。時にはマリエに悩みを打ち明けながらも、慣れてからはレジデンスの催しにも積極的に雰囲気を盛り上げるムードメーカーになっていた。研究室に所属するようになってから表情が明るくなり、生き生きしながらフィールド調査に出かけていく姿を雑貨店から見かけたものだ。
そうした印象が最後だったので、今の悄然としたエミの姿には違和感があった。
しかし、本人が大丈夫だというのであれば、踏み込むことはできない。
「そう、か。足りないものや必要なものがあれば買ってくるが」
「食べ物も厨房の冷蔵庫に常備してもらっているんだから、不足なんてないよ。ありがとう」
部屋に戻るといってエミは駆け足で階段を上った。
――こうして時々、レジデンスに入居している学生に出くわすと、マリエの所在について聞かれる。そんな時、判で押したような回答しかできないでいる。
本当は、捜査協力はとっくに終わっている。
問題はマリエの心身の不調による。
そのことを入居者の学生たちには伝えられないでいる。
マリエは高齢のため、心配させるというのは表向きの理由だ。
「…………………私は行けないよ、アダム」
不在札に、返却してもらった携帯電話を記入したものを貼り付ける。
道端にはゴミが転がり、閑静な住宅地だったここも緊迫した空気が流れている。――エミが口にしていた通り、ニュースでは連日隣人や主婦同士のトラブルが報じられていて、ここも他人事ではない。雑貨店を開けられる状況ではないので店は鉄柵を下ろしている。
ジャミラは外に出られないレジデンスの入居者のため、今から車で食料を調達しに出かける。休日なのでこんな中、カレッジに通学する必要がないのが救いだろうか。今は天気が良いが、夕方から雲行きが怪しくなる予報だ。ガレージの止めた車に乗り込み、エンジンをかけると、庭木が目に入った。
古木のしだれ柳が風に揺れていた。
*****
様子をうかがいに来てくれるいつもの医者と小柄なフィリスは専属の看護婦らしく、昼頃にまたルヴィの容態を確認してきてくれるが、目を覚ます様子はない。点滴しているので生命維持には問題はないと説明を受けた。目が覚めた時は絶食後になるので、重湯のようなものから始める必要はあるらしい。
少しでも起きた後のことが聞けてほっとしていると、ふいに医者がじろりとこちらを見た。
「………ほとんど病室を出ていないと聞いた」
「? はい。快適で事足りています」
頷いてアクイレギアの病室の快適さを褒めると、医者が鼻に皴を寄せた。
なぜだろう、と首をかしげていると、重々しく言われた。
「目が覚めるまで一歩も動かないつもりか?」
目を瞬かせる。
手を動かしていた小柄な看護婦フィリスが顔を出して付け加えた。
「気分転換に少し外へ出かけるのはどうかと仰っているのよ」
なるほど。
しかしネムは首を横に振る。
「わたしはルヴを見ていないと。頼れる人もいないので」
沈黙する医者が俯く横で、フィリスが顔を出してくる。
「定期的に見回りもしているし、何かあれば起動しているAIナースが必ず気づくわ。起きたらすぐにあなたに連絡を入れるわ。だから安心して、ね?」
ルヴィにつながれた管は機材のAIナースに生体情報を逐一伝達している。
今もまた、心拍数や血圧など様々な情報が計測されている。
ネムの目が覚めて半日が経つけれども、起きる兆しはない。
どうしてここまで差があるのだろう……。
頭の怪我は問題ないと説明は受けたが。
「せっかくの休みを、こうして病院に付きっきりでは退屈でしょう?」
「そんなことは――」
一日中引きこもりでも不自由さは感じない。しかし、ネムはそうでも、ルヴィは、ネムがこうして病室に籠っている状態を喜びはしないだろう。
「……わかりました。出かけてみますね」
「ええ。それがいいわ、ねドクター」
フィリスはほっとしたように息をつき、無言でいる医者を振り返って微笑みかける。フィリスに電話番号を伝え、医者とともにルヴィの病床を離れる。始終どこか浮かない顔をしていた医者は去り際に、点滴の留め具を確認したのか、何かを調整するような仕草をする。その時――コポリ、と点滴から気泡が浮かび上がった音がしたように思った。
去っていく二人を見送り、ネムは病床の脇に戻る。
「でも、出かけられるところもないのよね」
アパートへは治安悪化のため、一人で戻るのは禁止だと言い含められている。
カレッジの図書館くらいだろうか。
バッグの中を整理していると、番号の書かれた紙片を見つけた。
「――あ」




