38 救命
何かが起こる日というのはその時が来るまでわからない。その日も、いつもと変わらない何でもない顔をしていて、何事もなく終わるのだネムは思っていた。今から三日前のことだ。
苦手意識が芽生えていたグループ発表もうまく終わらせることができ、帰りに買い物に寄ろうと街に出た。秋の旅行を計画したはいいものの、渡航する際に持ってきていた大きなスーツケースではなく、もっと小型で、丈夫なスーツケースが必要だったのだ。そして購入したのは、キャスターが車のタイヤと同じ強度を持ち、鍵付きで、ジッパーではなくプラスチック製の開閉口になっている。防犯にも耐久性にも特化していているので、フィールドワークという野外での活動の際に持って行っても耐えうる仕様だ。
「完璧だな!」
満足する品を購入できたことで、上機嫌に後ろ歩きする幼馴染は年上なのだが、こういう時はそんな感じがしない。
「前を見て、ルヴ。危ないわ」
指摘すると素直に直すので、ネムはやっていける。
そうでなくては、ネムはお目付け役にもなれなかっただろう。
枯れ葉も木々の枝から落ちる季節だ。
一目ぼれに近いスピード購入をしたために、最寄り駅を出た時の時計は十五時頃だ。
微妙な時間帯だったため、地下鉄も通りもほとんど無人だった。
キャスターの頑強さはアクイレギアの荒い舗装にも耐えている。
アクイレギアの標準的な道では問題ない性能だと確認はできた。
前を歩いていた、幼馴染の声に顔を上げる。
ネムはその横に並び、周囲の閑静な住宅街からは浮いた黄色の作業車があった。
それが思わぬ災難を運んできたとも知らず――
虫の知らせというもの察知できたら、とこの時ほど思ったことはない。
柳の木陰に佇んでいたマリエを支え、管理人室の奥にあるという休憩室のソファに横たわらせた。七十半ばの高齢であるマリエはすっかり体調を崩していた。ぐったりとしたマリエに水でも持ってこようと立ち上がった時、外でけたたましい金属音とともに何かを引きずる音、地面をえぐるような鈍く重い音がほんの束の間に一気に聞こえた。
床を蹴る勢いで廊下に出る。
玄関のロックを内側から開け、外に出る。
目に入ったのは、脚立に下敷きになった幼馴染の姿だった。
『ルヴ!?』
先ほどまではしゃいでいた幼馴染は、ぐったりとしてピクリとも動かない。純系のイクシオリリオン人としては明るい髪にひたひたと鮮血が滴っている。側頭部の位置に梯子が乗っており、そこから血が絶え間なく流れているのだ。
『頭部の傷は……えっと』
頭部の傷は、小さくとも派手に血が出るもの。すでに片頬がべったりと赤く塗れているが、見かけほどひどいものではない……はず。
「すまない、遅くなった」
ひざまずくネムに影が降る。
顔を上げると、向かいの雑貨店から女店主が駆けつけて来た。
「警察には通報している、救急車を呼ぶよう伝えてもいる」
「ありがとう、ございます」
――救急車。
そんなことにも思い至らなかった。
思った以上に気が動転していたらしい。
……話にならない。
ぱん、と両頬を叩く。
「――梯子」
ルヴィへと目を向け直す。
体の半分を圧迫する鋼鉄製の脚立の存在は忌々しい。
「ルヴを担架で運び出すとき邪魔になります」
「そうだな………ただ、頭を打っているかもしれない。動かすとしても慎重にいかなければ」
ネムは口を引き結んで頷いた。
自動制御付きの梯子は重量があり、女二人で動かせるかどうか――着信音が聞こえる。ネムではない。ジャミラの方からだ。濃緑のエプロンのポケットへいささか乱暴に手を突っ込んだジャミラは、画面の表示を見て顔をしかめると、携帯に出た。
「ええい、なんだ! 伝えることはすべて伝えたぞ、救急車はまだか!? 負傷者が一名いる! ………喧嘩? そいつらはまだここにいる、邪魔だから連れて行ってくれ!」
続けて悪態をつく。
「は? 住所は伝えた! ……近くに?」
尋常ではない怒号。
黒く血管を浮き上がらせながら、大柄な作業員が棍棒のような腕を振りかぶる。
未だ宙ずりで揺られている若い作業員へと振り下ろされれ――
立ち上がりながら、ショルダーバッグからスタンガンを出す。
護身用に持っていたものだ。
「ネム!」
制止する声が、聞こえた。
なんだか新鮮な気がした。
「うるさい、黙ってろ、今……! ネム!」
手を伸ばして引き留めるジャミラからすり抜け、巨体の男の振りかぶったがら空きの脇へスタンガンを押し付けた。振り上げた腕の重みの分だけ、後ろに痙攣して倒れる。ガレージの柱に当たって脆く木っ端と埃が巻き上がる。息を止め、目を細めてやり過ごす。
どこからか烏の声がしたのだと思った。
しかしそれは人間の者だった。笑っている――宙ずりの男。
でも命綱に絡まって動けないでいる。
問題はない。
すぐにスタンガンを放って、倒れている脚立の下へと手を入れた。
反対側にジャミラが回って、手を差し入れてくれる。
「………何をどう、」
困惑する声音に、視線を向けないまま頭を傾けて地面に転がるスタンガンを示す。
「護身用に持っていたので」
持ち上げようと顔を上げた時、膝をついたジャミラが驚愕の顔をしていた。その顔を見て、嫌な予感とともに振り返る。
後ろには何があった?
スタンガンで意識を刈り取った大男。
命綱で宙ずりになっている若い男――命綱は身を守るものだ。
自力で降りられないものか?
上から降って来るのは作業員の足だ。
「………っ」
ネムは咄嗟に、腕を掲げて防御姿勢を取る。ガレージの梁から落ちてくる作業員は安全靴を履いているのか、重たい衝撃にネムは、まともに逃げることもできず、地面に打ち付けられた。
「ネム!」
持っていた携帯を放り投げるジャミラ。
体の上に土くれが降ってくるのを感じた。
再び影がかかる。
地面に転がるネムの髪を掴み、馬乗りになる。
手には注射器があった。
「やめろ!」
ジャミラがこちらへ来ようとしてくれているのだろうが、間に脚立があるので迂回しなくてはならないはずだ。踏み越えてくるには、ルヴィが下敷きになっている。
気が触れたような哄笑が響き渡る。
髪を掴まれた痛みで動けない。
その注射器は良くない気がした。
離れられないなら、逆に近づくしかない。
ネムは額を相手の鼻目掛けてぶつけると、くぐもったうめき声をあげて若い男の手から注射器が放れる。咄嗟にその注射器を拳で割る。中身が割れて、零れる。
ぐわん、と視界が揺れた。
眩暈を堪えるため、芝を掴むと、男の方が先に回復した。
男の伸ばす手がネムの頬をかすめた。
「……………っ」
男が吹っ飛んだ――同時にネムも地面に倒れた。
金色の残像が見えた気がした。
「――おい、無事か!」
顔を上げると、地面から引き上げられた。
「クズ野郎が」
剣呑な顔をしていた金髪の男が横を向く。
視界が暗くなった。
教室の窓辺からは中庭が見える。
低木の植え込み、木々の影、花壇の彩り、ボール遊びをする生徒。
眺めすぎて、真新しいものはない。
ただ教室で机の角を削るように眺めるよりはずっとましだった。
『――変な髪色』
『ねえ、知ってる? あの子……』
黒髪に焦げ茶の瞳を持つ、新しい同級生たち。
異物は明らかにネムで、毛並みの違う子を揶揄するのに特別の悪意は必要ない。
『おい――』
教室の入り口から我が物顔でおとなう、上級生たち。
先頭とその顔ぶれは決まっていた。
名指しで呼ばれると無視するわけにもいかず振り返る――とその上級生の顔面に判で押したようにボールがぶつかり、バウンドした。咄嗟に両手で受け止めると、変化のない窓からの景色に、駆けつけて来た一人の男の子が窓枠に身を乗り出す。
『ごめんごめん! 大丈夫か!』
手を振って元気よく謝る。
尻もちをついた上級生は友人たちに助けられて立ち上がる。
むっすりとした顔で、泣くのを堪え溜まった涙を隠す。
友人たちを置いていく勢いで、教室から出て行った。
『あちゃー……』
友人たちが慌ててその背を追いかける。去り際に悪態を投げつけられ、首を竦めた男の子は困った顔で見送ったが、こちらをみると目を輝かせた――明るい色。
『あ、ボール!』
用があるのはこのボールらしい。
立ち上がり、ぎこちなく両手でボールを差し出す。
『ありがとな! なあ――』
日向の中で、薄茶色に輝く瞳がこちらを見た。
『ずっとここからオレらを見てただろ? 一緒に、テンカしねえ?』
周りと少しだけ毛色の違う男の子。その違いの分だけ自分と似ている。
戸惑っていると、太陽みたいに明るい笑顔で手を広げて差し伸べた――
『一緒に行こうぜ!』
でも、全然自分とは似ていない。
悲しい過去を夢見た気がする。
でも懐かしく、温かい記憶な気がする。
『スリープモードから解除します』
電子音声が聞こえた。
頭の芯がしびれるようで、瞼はぺったりとくっついている。
引きはがすのに苦労しながら目を開けた。
徐々に焦点を結ぶ天井は見覚えがない――ここは、どこだろう。
「丸一日だ」
声がして振りむくと、金髪の見知らぬ男がいて、懐から身分証を出す。
「連邦、捜査局?」
「通称FBIといった方が外国人には分かり易いか? ――目覚めて早々悪いが、捜査の協力を願おう」




