30 ツーリズム
ルヴィたちが近々やって来る秋休みの旅行計画を立てている一方、折り良く講義でもそうしたトピックが取り上げられていた。翌日、火曜の午前はジェンキンス教授の教養講義となっている。
教養科目は受講生に制限をかけない、広く開かれた講義なので様々な学生が参加する。
その分、内容は基本的なものがメインになりやすいが、学生によっては深い話もできる。
「地形を生かした経済効果もあります。最たるものは観光でしょう」
パトリックが取り上げるのは観光についてだ。
経営学科らしく、地理学に経済的な視点を絡めての発言は興味深い。
「観光が誕生するのは19世紀半ばです。エルムの場合ですが、アーリによれば、それ以前には、巡礼や貴族子弟の教養旅行であるグランドツアーといった旅だけが存在していました。しかしこれは、限られた階層の苦痛に満ちた行為とされていました」
パトリックが言うと、その限られた階層についての発言に重みが出る。
それらしい貴族的な容姿なのだ。
「産業革命によって『資本家―労働者』が誕生したのです。労働は成果物の良し悪しではなく、時間で管理されるようになりました。これは労働時間外の時間、つまり余暇が発生する契機となりました。都市化に伴う生活環境の悪化、ロマン主義的な自然賛美、生活時間の合理化、鉄道の敷設など、余暇の労働からの空間的な切り離しが観光の誕生だとしています」
新しい切り口から地形を見ることができる。
エルムの国の歴史すら知ることができ、知的好奇心を満たしてくれる。
「その観光にはタイプがあります。温泉や海岸、山岳とかで保養を目的とする、保養地型。寺社や歴史的町並み、地域固有の伝統文化などを見物・体験する歴史文化遺産型。農山漁村にで自然や文化、人々の交流を楽しむ滞在型の、自然保全型」
これはグリーンツーリズムとか、ルーラルツーリズムとか言われている。
「自然保護・環境保護を意識した生態系の自然環境や生活文化を損なわずに行う観光はエコツーリズムとされています。大都市に集積する多様な文化、豊富な品ぞろえの専門店、テーマパークを目的としたのが都市分化型。アーバンツーリズムと呼ばれてもいます」
パトリックの発言の後に、ザイガー教授の視線がルヴィに映る。
「別の視点での観光区分があります」
「発言を続けろ」
パトリックが座り、ルヴィが立ち上がる。
「別の区分で、自然や歴史、史跡、生活や文化とか、地域にもともと備わっている日常の環境や資源を利用した観光の形態をソフトツーリズム。リゾートホテルやリゾートマンション、テーマパーク、ショッピングモールとか、人工的に作り出された非日常的な施設や空間を中心に展開する観光の形態を、ハードツーリズムといいます」
区分が増えるにつけ、隣のネムの顔が死んでいく。
仕方ないのだ。
「人々の価値観やニーズが多様化したことにより、身の回りの日常的な環境や地域資源が見直されました。観光形態も人々のニーズに基づいて多様化するようになった結果といえます」
「――七十年前からだ。国際的な労働時間の漸次的な短縮が行われ、余暇が増大したのは」
つまり、百年もたたない最近だということだ。
本国ではそれに加え、祝日を増価させ、ハッピーマンデーの導入が行われた。………しかし祝日の多さに比較して有給休暇の取得日数が少なく、特定の時期に交通網。観光地に人が集中することにより、特に国内旅行においてはゆったりとすることはできなかったという難点もある。
ルヴィは席に座り、パトリックに発言権を戻した。
立ち上がったパトリックが、美しいクイーンズで再び語る。
「観光の必要性は資本家も推奨しました。酒場でのアルコール摂取が余暇の過ごし方として当時は一般的でしたが、健全で労働に資する娯楽が必要とされたのです。バプティスト派の巡回宣教師で禁酒運動のトマス・クックはパックツアーの考案をしました」
掲げる教理を守るためには、アルコール以外の娯楽が必要だったわけだ。
「これがマス・ツーリズムの幕開けとなりました。エルムで発達したのは、海浜リゾートです。工業都市とセットで海浜リゾートが発達しました。労働と余暇とを、空間的に分化したのです」
何事もメリハリが大事ということだ。
うんうんと頷いていると再び薄紫の瞳がこちらを向いた。
すると横から碧眼の視線も降ってきた。
………無言の圧がすごい。
仕方なく立ち上がる。
さし合わせたわけでもないのに、パトリックが着席する。
「イクシオリリオンにおいて、古代・中世では、中央の賦役の為の移動、信仰に根差した旅である参詣・巡礼が主流でした。ヘーアン時代末期のクマノ三山を巡る、熊野詣などが有名です。近世では、五街道をはじめとする街道の整備で、イセ参宮のように、全国規模で参詣・巡礼が盛んでした。各地で、門前町や鳥居前町が発達しました」
これも言ってしまえば、宗教と娯楽のセットといえるかもしれない。
「メージからショーワ初期にかけて、殖産興業のもとに都市が発達しました。中産階級の観光需要が高まり、観光地が発達した流れです」
ナリタ山新勝寺とナリタ鉄道、コンピラ宮、サヌキ鉄道、イコマ山遊園地などが有名だ。
「高度経済成長期では、国民所得が増えたので、観光ブームが到来しました。特に職場での慰安旅行が盛んで、温泉、スキー場、ゴルフ場が各地で開発されました」
ザイガー教授は薄く、冷ややかに笑む。
「観光は近代化の産物で、都市や資本主義、鉄道などだ。労働と対置されて、労働を保管・促進する作用があったということだ」
まあ、そういうことだけども……。
地質を専門とするザイガー教授にとっては、環境破壊を生み出す原因となった産業革命は諸悪の根源なのだろう。
首をすくめて席に座る。ディスカッションというより、ザイガー教授とパトリックとルヴィの三者でのおしゃべりのような奇妙な感じになってしまった。
息をひそめて暮らしているようなネムが講義終了の合図とともに息を吹き返したのが印象的だった。
帰るか、と立ち上がった時、ネムが思いつめた顔で待ったをかける。
「わたし、ちょっとザイガー教授に質問してくるわ」
このままではよくないと感じたのだろう。アクイレギアでは積極性が求められる。レポートだけなら問題ないけれども、講義中の発言もないのならば、こうした講義外での質問で積極性を見せて加点を狙うしかない。
「どうしたんだろう、ネム嬢」
ルヴィがそんな風に推測する横でパトリックが目を瞠っていた。
ネムがザイガー教授のことをどう思っているのか知っている人の感想だ。
「いい理解者でいてくれてうれしいぜ」
「どこでどう思ったのか、説明してくれるといいんだけど」
前後から推測できないものかと思ったが、結構な思考の飛躍からくる発言だと自分でも認めた。ただ説明することでもない。
「考えるんじゃなくて感じるんだ」
「これが噂のハイコンテクスト社会かな……」
首をかしげるパトリックの視線を感じながら、勇気を振り絞った様子のネムの後ろ姿を見守っていると、とん、と机を突く音を聞いて顔を向ける。パトリックがこちらを向いていた。その視線を廊下の外へと向けて、またこちらを向く。……まったく外つ国の人にあるまじき無言の伝達方法だ。席を立って、廊下に出る。未だ、ネムの様子がうかがえる位置に立つ。
「それで――どうしたんだ?」




