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黄金が降る  作者: 毎路
32/109

31 モラル

 ザイガー教授とのやり取りを終えて、待たせているネムの席まで戻ると、後ろの席に座っていた社会人の女性と話していた。彼女は正規の学生ではない。複数のカレッジの講義を見学し、自分の研究テーマにあった教授がいるカレッジを探して、来年の受ける大学院受験校を決めるために参加している聴講生だ。勤めている会社からはぜひ学んで来いと背中を押される形で、仕事を週三日セーブして、大学院選びをしている。


「もう11月ね。オルガはどのカレッジにするか決めたの?」


 彼女――オルガ・クィーニーの研究では、土壌の成分分析を行うが、そういった分析方法をこのカレッジで主に用いているのは、ルヴィが知る限り、地質に焦点を当てるザイガー教授と植生に特化したメールリ教授だ。だがメールリ教授は、その地の土壌を分析するというよりは、自然形態という意味での植生を調べるため、ザイガー教授の講義を受けるのがまだ妥当な線だ。しかし……。


「決めかねてる状況よ。私の研究テーマは自然科学系の視点で、その土地特有の成分が何かというのをメインにしたいから、調査の手法は重なる部分が多いけれど、方向性がまったく違うの。……消去法で、エリフエール大学かしらね」


 オルガはアグロバイト企業でもともと顧客への営業である、B to Cを担当していたが、人事異動により、農薬部門の研究者を随行し、法人営業であるB to Bの業務に携わることになった。うまく契約を取ることができたが更なる専門性を高めたいという意志から、大学院への入学を目指していると自己紹介を行っていた。


「でも迷ってるわ。確かにもう一つのカレッジの方が私に必要な内容にぴったりなのはなんだけど、その教授が問題を抱えているのが最近分かっちゃったのよね……」

「問題?」

「……まあ、ネムはそこの学生じゃないからいいわよね……?」


 オルガは声を潜めて、聴講している講義の担当教員が、どうやら自分の研究室に所属している学生と不純な関係を複数人結んでいるらしいと話した。……どぎつい内容だ。


「……どういうこと?」


 ネムは困惑顔を隠さずに聞き返した。ルヴィは話が長くなりそうだと帰るのは諦めて、タブレットに届いている次の講義で出された課題のファイルを開いて目を通すことにした。そんなに課題は多くはなかった。来週は、月火の講義の課題だけで済む。秋休みになるので、水木金土日の5連休になる。国際免許のほかに、州での許可証がないといけないために、ルヴィは水曜日に試験を受けて即日発行される許可証をもらう予定だった。もちろん、試験に合格すれば、だが。


「これは内緒なんだけどね。初めは、その教授の研究室には大学院生がひとりいると聞いていたの。私と同性の大学院生ね。でも私が行ったときは、学部生は全員いたのに、大学院生の彼女だけがいなかった。……どうしてかと思って教授に尋ねたら、教養科目が足りてないことが発覚して、今期に急いで受けているって私に説明したわ。……私は地元の商業系の学校しか通っていなかったから、これが不自然なことかは分からないんだけど」


 ネムは思案気に顔を傾けた。その動きに合わせて、色素の薄い柔らかい髪が顎先で揺れる。今日は耳に、水色の涙の様なイヤリングをしていた。ネムは本国での話だから、アクイレギアでも同じかわからないけれど、と前置きをして話した。


「わたしの知り合いにも、教養科目の単位が足りずに、半年卒業を遅れてしまった人がいたわ。その人は最終学年まで教養科目を残してしまっていて、うっかりその教養科目の単位を落としてしまったようなの」


 だから不自然ではないと思う、とネムが答えると、オルガはどこか表情を緩めて頷いた。


「この事情が不自然ではなかったということがわかって少しだけ、状況がマシだと分かったわ。研究室にいる学生の子たちが、みんなその教授の違和感のない言い訳を信じていただけということだもの……」


 声を潜めていると言っても、アクイレギアでの基準なので、静かな講義室の中にいる学生には皆耳に入っていることだろう。イヤホンでもしなければ、だ。もちろん、会話相手であるネムの隣にいるルヴィには、聞こうと思わなくても耳に入って来る。ここからどんな惨劇が始まるのか、とルヴィは恐々とする。


「その日は、いつものようにエリフエール大学の担当の教授の講義があったんだけど、私が仕事を切り上げるのが遅れてしまったことがあるの。ザイガー教授の講義は午前中だから、講義が終わってから出社すればいいけど、その講義は午後からなの。時間には退勤できるようにしてくれているけど、それも絶対とはいかなくて。どうしても抜けられない私宛の事案があってね。ただ……私はカレッジ側にお願いして聴講させてもらっている立場だから、何としてでも行かないとと思って仕事を巻いて行ったわけよ」


 仕事をしながら勉強するというのは、本当に難しいことだ。ただでさえ、課題が多いので、アクイレギアで大学院に行こうと思えば、二足草鞋は相当厳しいだろう。聞き耳を立てるようで気が引けたが、ルヴィは大人しく来週の課題の文献のファイルを開いて確認しながら待つことにした。オルガは徐々に感情的になり、いよいよ早口に捲し立てた。


「でも、もう講義が終わるところで諦めながら講義棟に向かっていたんだけど、その講義棟の中庭のベンチで、泣きながら誰かと電話している女学生がいたの。私は彼女とは何の面識もなかったから、最初は気づかず、そっと去るつもりだったけど、彼女の口からその大学の担当だった教授の名前が出てくるんだもの驚いたわ。そこ気づいたの。私は研究室に所属している学生は全員の顔を知っていた、たったひとりを除いてね。つまり、彼女がいつも欠席していた、大学院生の女の子だったの」


 はあ、とオルガはため息を吐く。


「彼女の電話が終わるなり声を掛けて、泣いている彼女の話を聞きだしたら、その内容も衝撃だった」


 曰く、教授とは周りに秘密にしたまま付き合っていて、その延長線で教授の研究にも協力していたが、なんと彼女が修士論文で仕上げるはずの研究成果を、教授一人の名義で学会に報告してしまったという。それまでも教授の研究に、彼女の名前が連なっていないのは、ちょっとした手伝いだからと彼女自身承知していたが、これでは修了することができなくなってしまったこと。それを教授に訴えたところ、取り合ってくれないどころか、なんと教授は、彼女とは別に、新しく研究室に入って来た学部生と付き合い始めていたというのだ。個人的に何度も連絡をしても、忙しいで取り合ってもらえず、直接赴こうにも、とてもそんな状態ではなかった。修士論文用の研究成果を教授に盗用されて修了の見込みが立たなくなって、担当教授からの支援も絶望的なことから、心理的ストレスにより、過呼吸などの症状が現れていたが、そのことがとどめとなってからの日々はまともに登校もできない地獄のようで、学業不振にも陥ってしまい、単位も危ない状況だという。


「彼女、毎回のごとく研究室に来ていないと思ったら、実はいつも努力して講義棟の前までは来ているようなんだけど、どうしても中に入れなくてずっと下のベンチで泣いていたらしいの。私はそんな事情があるとも知らず、彼女が行けなかった講義室に行き続けてたんだもの、心が苦しいったらなかったわ」


 ネムは薄くルージュが引かれた唇を噛んだ。ザイガー教授はルヴィとの質疑応答ののちすぐに講義室を出て行ったが、講義室には数名の学生が専門講義の課題の為に残っていた。この話は他の学生の耳にも入っていて、今日中に広まるだろう。この手の噂は、まさに一日で千里を駆ける勢いだ。


「彼女のために、この問題を解決する手段を何か取れないかしら?」

「私もそう思って、その内容が本当なら、学生相談課に行くことをお勧めするって言ったわ。難しければ、私も一緒に行くからってね。でも彼女は首を振ったの。……ああ、この後のことはとても言えないから伏せさせてちょうだいね。とにかく、当事者の彼女が、もう精神的に追い詰められてるの」


 言葉を詰まらせたオルガにより話は中途半端に切られてしまったが、どんなことがあったのかはとても聞けず、ネムは戸惑ったように頷くばかりだった。


「そんな……教授の下につくのはいくら何でも心もとないわ」

「その通りなのよ。一生懸命仕上げた論文が盗られるかもしれないってことならお断りよ。ただ、その大学院生の子の言うことが正しいかどうかは分からないわ。一方だけの言葉だけじゃね。でも疑念は残るわ」


 オルガは黒々としたくっきりとした眉を歪ませて、ため息をついた。

 リグナムバイタでの成功者を体現したような、自信にあふれ堂々としたいつものオルガらしくない困り切った様子だった。


「いつもは私、こんなんじゃないのよ。分からないことがあったら率直に尋ねるわ。ただ、これはとてもセンシティブな問題よ。私の独断で問い詰めるのも違うでしょう? 社会人になったからと、取れる手段を示しても、彼女はままだ社会の荒波にもさらされていないような、若くて純粋で繊細な心を持つ子なのよ。とりあえず、メンタルケアの予約だけ取らせることしかできなかった……」

「オルガが付いていなければ、ケアの予約だって取れなかったわ」

「ええ……こういったことがあるから、専門の内容は一番ピッタリなんだけど、決めかねているの。きっとこの話通りなら、あの教授の実績も学生を利用して自分の研究として発表してきたものなんじゃないかしらと思うわ」


 余罪はありそうだ。なんとなく手馴れている風でもあるからだ。ひとり大学院生の助手を失えば、新しく学部生の助手に乗り換える……ルヴィは首を傾げた。どこかで何かがつながりそうな気がして深い思索に落ち掛けたとき、オルガの大きなため息が吐き出されて現実に引き戻される。


「恋愛についてはね。このリグナムバイタじゃ、何を言っても自由だと言って認められるから諦めるしかないんだけど。……とはいえ、私も自分の足で立った人生の大半はここリグナムバイタで過ごしてきたわ。それまでいろいろ経験してきているから、自由恋愛の過程で、二股どころか、同時に七人付き合って日替わりでっていうのが流行ってた時代も知ってる。それも個人の自由ってことで、第三者としてわざわざ首を突っ込んで目くじらを立てるようなことはしないわ。ただ――四十も半ばの大学教員が、独身であることを盾に、純粋で何も知らない若い教え子と不純な交際をしているのはモラルに反するわよ。胸糞が悪いったら」

「本当に……」


 ネムは白くほっそりとした両手を組んで口許の前に置き、オルガはきっちりと後ろで一つに結い上げた髪をひと撫でして立ち上がる。


「はあ。吐きだせてすっきりしたわ。最近はバーに行って憂さを晴らそうとしてたけど、知り合いばっかりで言えなくて……聞いてくれてありがとう、ネム。あなたとっても聞き上手だから、つい話してしまったわ。おかげで私がやるべきことを思い出せた。ここでもう少し課題をするから、私は飲み物を買ってくるわ。ルヴィ、あなたのネムを借りちゃってごめんなさいね」


 ルヴィは首を振って問題ないと伝えた。


「オルガ、また来週会いましょう」

「ええ、ネムもルヴィもまた会いましょう」


 すっきりとした様子で、まさに肩で風を切るように颯爽と動く。光によって陰影を作る堀の深い造作は目鼻立ちをはっきりとさせており、端麗な容貌がより際立つメイクは、見るからに仕事ができる女性といった風貌だ。年が離れているせいか、ネムとも相性が悪くないようで、よく話をしている。今回は、他のカレッジの教授のスキャンダルだったが。


「お待たせ、ルヴ」

「いんや……なんか、大変なんだな、研究って。本国でもさ、教授が学生の論文を盗用したっていうのは聞いたことはあったけど、どこでもあるんだな。オレはゾッとしたね……」


 善人と悪人はどこにでもおり、善事と悪事もどこにでもあり得るということか。本国以上のモラルを期待していたわけではないものの、実際耳にするとがっかりした。ネムは嫌悪のポイントが違ったらしく、冷たい口調で唾棄している。


「教授が学生と付き合っているのが、鳥肌ものよ。大学院修了のための業績をもみ消されるどころか、教授のものとして取られるなんて、職権の乱用どころじゃないわ。訴訟大国のこの国ではすぐに訴えられて終わりなのは目に見えているはずよ。まったく迂闊な人ね。でも訴えていないのには……オルガが言っていたように、自由恋愛っていうリグナムバイタの文化が関係しているのかしら? 一体どうなっているの?」


 こういうところをオルガに見えたらまた違った話の展開なっていただろう。ものすごく盛り上がって今日は帰れなかったか、ネムの静かな怒りに触れてびっくりして気持ちが落ち着いたかもしれない。ルヴィは羊が鳴くように哀れっぽくした。


「ネムさんや……オレもネムさんと同じ、イクシオリリオン人だから、ここでの常識には自信ないかな」

「わたしが怒ってもどうしようもないわ。それに」


 どうせ、考えたところで現実は何も変わらない、とネムは呟いて首を振ると、話を変えてきた。


「ねえ、ルヴ。ザイガー教授のいきなりの問いかけによく答えられたわね。わたしひやっとしたんだから。……津波の被害の大きさなんて調べてなかったわ。せいぜい、起きた地震のマグニチュードの大きさのランキングぐらいよ。……当たらなくてよかった」

「案外、ザイガー教授は学生を見てるから、わからん人には当てないと思うぞ」


 ネムは目を瞠ってから、頬を少し膨らませた。


「………ルヴったら、いつのまにかザイガー教授のお気に入りにまでなっているのだから」


 どうかな、とルヴィは笑った。他の残っている学生に声を掛けてから講義室をネムと連れ立って出た。窓の外から見える、カレッジの敷地にあった樹木の葉はすっかり落ちている。しかし空は高く、晴れていた。胸が悪くなるような話だったが、世界はこんなにも奇麗なのだった。

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