13 友人
「どれだけ論文を読んだか知らないが、実地に移った途端にこれだ」
多くの文献を読んできた。
博士を持つ教授のうちの一人、この教授のだってそうだ。
地質学を専門としているので、研究報告は現地で採取した新鮮なデータだ。
心躍らせるとともに嫉妬心があった。
ルヴィが、この調査をしたかったと。
「役に立ったか?」
紫の瞳から見下ろされる。
………隠しようもない蔑みの色があった。
体感にして一瞬のうちに情緒が乱高下した――体から火が出たかのように熱くなったかと思えば、冷や水をかぶったように寒々しく、独り雪原に放り出されたような心もとなさに襲われる。温度を感じさせない薄い色合いの瞳が興味を失ったかのように別の学生に向かった。周囲からのあからさまな嘲笑よりもなによりも、それが一番悔しかった。
鉱物を調べるための顕微鏡の取り扱いの見本に選ばれたのは、一番前の真ん中の席に座っていたからだろう。裏を返せば、ルヴィはこの教養科目に並々ならぬ期待感を持っていた。
このカレッジでは、大学院の講義が三つに分類される。初歩的でその方面の概要を学ぶ教養科目と研究のための基本的な諸手順を学ぶ選択必修科目、研究を含め深く取り扱う専門科目だ。教養科目は、分野外でも受けることができるため、基礎的なことに絞られる。つまり地理学の教授が担当する教養科目を受ければ、スタート地点の程度を知ることができるのだ。さて、この国のレベルはどの程度か――
「くそー! あいつら馬鹿にしやがって! ちょっと器材のバージョンが新しくて使い方に戸惑っただけだっつうの!」
………しかしどうなったかというと前述の通りだ。
お手並み拝見とばかりに臨んだ講義では、大失態を晒した。
何本の論文を読み漁った教授の目の前で、だ。
「………っ 次こそは! バージョン違いの器材だろうと何だろうと扱ってやる!」
年式が違うことには、近づいてから気づいた。
さすが研究大国ともいわれるアクイレギアでは、最新式の器材だった。
教授の、痛烈な皮肉は耳に残ってまだ離れない。
「も少し見てたら、調節のつまみが側面にあるって気づいたっつうの!」
よくよく観察してみれば、代わりの部品がどこかにある。
それは分かっていた。なので、気づくことはできたはずだ。
しかし、だ。
「なにが『返事だけは良いものだ、知性の足りていない学生がよくこのカレッジに顔を出せたものだ』だー!?」
あろうことか、こんなにも普段から知識の収集に余念がなく、粗を見つけるたびにリスト化して展望をまとめるまで精読するルヴィに対して、知性が足りていないなんて………!
「あら、たしかにルヴを嗤った彼らは、わたしたちとは並べられないくらい知的だったわ」
ネムが温度のない目をして微笑んだ。
「なんだったかしら、ここ、マグワート島が島ですって? ユーモアがあってとても素敵なジョークよね?」
「いや、島って書くけど半島……」
幼馴染の皮肉の内容に、思わず突っ込みを入れる。
「あら、あの教授も『……素晴らしい』と述べ照らしたわね。とても独特な感性の持ち主ですこと」
名前は何とかいっていたかしら、と薄暗い目をしている。
ネムは根に持つとなかなか厄介だ。
いつまでも引きずるし、一度できた壁は分厚くて崩すのが難しい。
「それも皮肉……」
「得意げなあの学生の顔が忘れられない……名前は、覚えてないけれど」
「名前覚えるの苦手だもんな、ネム」
そして初見で悪い印象を抱くとまず変わることがない。
どれほど後で親切を受けても、最初の裏切りを許さないタイプだ。
「あの顔は覚えたわ」
「えーと………」
今まで沈黙を保っていたのは、怒れる心を内に隠していただけらしい。
歩きながらぎゃーぎゃーと元気に喚き散らしていたルヴィはいくらか頭が冷えた。
「低俗で学のない――彼ら、本当に大学院生なのかしら?」
とうとうそこまで疑い出した。
いや、暮らしている場所の地形すら知らなかったのだ。
辺鄙な土地でもない、大都会の有名な都市の中心地にもかかわらず……。
「疑う気持ちもわからんでもないけどさ」
これ以上はネムの情操教育上に悪い。
一つ年下の幼馴染をこれ以上ダークサイドに落とさないために方向転換を図る。
「たしかにいい返事しといて、もたついたのはオレに非があるかな?」
やる気を買われて指名されたのに、ろくに手を動かせなかった。
「失望されても仕方ない」
「――そんなこと!」
ネムの眉が跳ね上がるが、ルヴィは続けた。
「だから見返してやるんだ。初回のガイダンスにもかかわらず、さらっと課題を出して来ただろ? A+でもSでもなんでもつけずにはいられないような出来にしてやるぜ!」
口をへの字に曲げて聞いていたネムは一つ息を吐き出すと頷いた。
「――ええそうね。わたしも頑張るわ」
「よし、来た! ザイガー教授め! オレの鼻っ柱を負った代償は高くつくぜ!」
そこへ――ため息がひとつ。
ルヴィたちはひたと呼吸を止めた。
このタイミングの、このため息……。
嫌な予感がして、目線だけで周囲を伺う。
廊下を歩いていたルヴィたちは講義棟の入り口前に来ていた。
前方には、両開きのガラスの入り口からは明るい陽光が差し込み、植物の鉢植えが温室の中のようにそこかしこに置かれているのを照らしている。背の高い遮蔽物はない。………では、残るは背後だ。
両手を掲げるように伸びる階段があり、その階段下には衝立が置かれている。
衝立の奥には、椅子の脚が見えた。
――革靴の先も。
瞬時にネムと視線を見交わす。
本人がいるところで、悪態をついてしまった――と青ざめる。
椅子から立ち上がる音がして、手と手を取り合うルヴィたちの前に――知らない学生が現れた。
「――悪いね、会話の邪魔をしてしまった」
「だ、おま………え?」
ネムが呼吸を再開しようとして失敗したらしい。
激しく咳き込んだ。
その背を反射的に撫でて落ち着かせつつ、目の前の学生から視線をそらさない。
どこまで口にしたっけ?
悪口をしていたわけではないが……いや普通に悪口か?
外で影口を叩いてはならないとはこういうことだ。
心臓を掴まれたような心労を覚えた。
「ごめん、驚かせたね」
見知らぬ学生は、金色の眉を下げてすまなそうに謝った。金髪碧眼、鼻梁が通った堀の深い整った顔立ちに、表情を乗せると、典型的な貴族的容姿が親しみやすい印象になる。そして、外つ国では非常に珍しいことに、「ごめん」と謝った。
「いやいや、後から来たのこっちだし」
「うるさくしてごめんなさい……」
慌てて謝り返すと、くすりと笑われた。
「そうかなって思ったけど、君たちイクシオリリオン人だね?」
そうだけど、とネムを背後に庇いながら頷くと、こちらの警戒を解くような柔らかな表情でこちらを見返す。
「さっきの講義は僕も出席してたんだ。……気の毒だったね」
見られていたのか。
自分がそれほどの失敗をしたとは思わないが、笑いものになったのは現実だ。
思わず恥ずかしさで頬にかっと熱が走った。
「僕もまさか、こんなカレッジの中に幼稚舎があるとは思わなかった」
「――うん?」
「見知らぬ世界に迷い込んだ者同士、共感できると思ってね」
日の光を受けてにこやかな笑顔で毒を吐く。
ネムは口元を押さえたままぽかんとしていた。
「あー、その……流れるような皮肉。もしや、紳士の国エルムのひとでは?」
作り物めいた表情だった金髪の青年は、その言葉を耳にした途端破顔した。
「正解だけど、根拠がそれかい?」
腹を抱えて笑うのが、とても似合わない。
――これが、この国に来て最初に友人になった人との出会い。
実は当たってるんだよ、と青年は唐突に話す。
「彼らがこのカレッジに入学しているのが不自然だという話さ」
青年は金の睫毛に縁どられた瞼を片方瞑って見せた。
「ずっとお仲間同士で喋っていただろう? 僕は至る所で見かけたけどね。人は違っても、やることなすこと同じ。同じ種類の人間、ということは――同じ穴の狢ってことだろう?」
同じ穴の狢、とはネガティブな表現だ。
カレッジ、入学、不自然、ネガティブときたら。
「つまり、裏口入学者同士、とか?」
「噂だけれどね、裏口団体入学と言われているよ?」
団体入学とは違和感甚だしい言葉の羅列だ。
「移民の受け入れ肯定派の大統領が作った政策で、カレッジの推薦入学の規制を大幅に緩和した影響だと聞くよ。おかげで、比較的難易度の低い教養の講義はさながら人語を忘れた動物が押し寄せて来ると専らの評判さ」
「偏差値が15以上違うと話が通じないって聞いたことはあるけどさ……」
「推薦入学……なるほどね」
ネムが得心したように頷いた。
目を向けると、肩を竦められる。
「本国でもきいたことがあるの。正規で入試を受けて合格した新入生と、AO入試の合格者とでは、学力の差が大きくて、AO入試の子たちは、授業のレベルについて行くのに苦労しているそうよ」
「んでもって、ここではついていく努力もしていないってことか?」
「裏口入学してまともに卒業したのは聞いたことないな」
何のために入学したのか。
「卒業しなきゃなんないんじゃ……」
そこで同じ気持ちだと思っていたネムが首を振った。
「ルヴ、入学して途中で退学しても、本国では卒業しましたって偽っている政治家は多いわ」
「げ、マジで?」
ネムが言うなら本当だ。
「だからなんかな、ザイガー教授がなんか最初から冷ややかだったのは」
「それは分からないわ」
「それは未知数だね」
ネムと青年が同時に答え、驚いたように顔を見合わせ、会釈する。
ふっと息をついたネムが首を振った。
「久々に苛立たしい人たちだと思ったら、そういう裏があるのね。教授までも? お手上げってことかしら?」
「勝手に手をあげられてもなー」
「証拠があるわけじゃないけど、僕はそう確信しているよ。……大学生の時から通っている僕としては、近年の、それも政策が導入された今年からは特に耐え難い質の低下だよ。講義の内容も、同席する学生もね」
「オレの声届いてるー?」
真剣に愚痴を言い出すふたりを茶化して見たが、効果はない。
それにしても、だ。
この結構な毒舌家の青年は大学からそのまま大学院に進学したタイプらしい。
情報を汲み取っていると、不穏な一言が続いた。
「それに、ザイガー教授にはよくない噂も聞くしね。君たちも気を付けたほうがいい」
人の言葉を鵜呑みにするのはよくない。
先入観は認識を歪める。
しかし、こうしてわざわざ関係もないルヴィたちへ注意を促す言葉を掛けてくれるのは、とても親切な行為に違いなかった。
たったさっき、講義を同じくしただけにもかかわらず。
ルヴィが受けた仕打ちに憤り、気休めの言葉や、こうした忠告めいた言葉もかけてくれる。
「あの、今更だけどさ」
頬を掻きながら、顔を上げた。
「オレ、ルヴィアス・キングサリって言うんだ。こっちの子も同じ国から来てて、」
「ネム・ズマです。ルヴの幼馴染で、イクシオリリオンから来たわ」
両手を重ねてネムが向き直った。
すると、金髪の青年が胸に手を当てて腰を折った。
「僕はパトリック・コールデン。エルム出身だ」
そして丁寧にネムに向けて尋ねた。
「ファーストネームであなたを呼ぶ栄誉に預かっても?」
「ええ」
ネムはにこ、と控えめな作り笑いをしたが、海外だとそれが妙に受けがいい。
そして今も、パトリックの頬が一瞬で薔薇色に染まった。
緑の瞳が、どこか挙動不審に泳ぐ。
「え、と……僕のことは、隙に呼んでくれて構わないよ」
「おっけー。オレのことはルヴィって呼んでくれな」
そして、顎に指を掛け、パトリックの顔を眺める。
外つ国の人の名前の愛称のレパートリーはだいたい頭に叩き込んである。
「ルヴィだね?」
少し引っかかった顔なのは、ネムが違う呼び方をしていたからだろう。
よし、決めた。
「じゃ、オレはパットって呼ぶ」
「いいよ」
「……なら、わたしはリックって呼ぶわ」
「光栄だな」
幸運にも受けることができた地理学の教養の講義。
その出だしは最悪に近かったが、なかなかどうして友達作りはうまく行っているような気がした。
「君たち次の授業はどこに行くんだい?」
「えーとだな……どこだっけ?」
横目でネムに尋ねると、すぐに応えてくれる。
「メールリ教授の専門講義よ。でもまだ2時間も先ね」
携帯の時間割ツールで、講義のコマ数を管理してくれているネムが画面を見せてくれた。覗き込みつつ、次の講義の内容を確認した。植生についての専門講義だ。
パトリックが首を傾げた。
「ネム嬢もルヴィも同じ専攻なのかい?」
「そんなところよ」
ルヴィが話す前に、ネムが先に答えた。
実際は、ルヴィにネムが付いてきてくれているだけだ。
そしてルヴィは専攻といいつつ、細かい部分は決まっていない。
俯きそうになったのに気づいて、顔を意識してあげる。
「パットはさっきのザイガー教授の講義受けてたけど、地質学に興味があるのか?」
ザイガー教授は地理学の中でも地質学者として研究している。
すると、それなりに、と肯定の言葉が返って来た。
「勿論、専攻は違うけれどね。男子は誰だって土に埋まっている化石にロマンを感じるものだろう? ウィリアム・スミスは小さいころから僕の憧れさ」
「わかるー」
ウィリアム・スミスといえば、三百年ほど前の、エルム国地質学の父とも称される人物だ。農民の出であったが、エルムの国土の地質を調査し、地質図を作成した。身分は低かったが、功績は大きかった。しかし、当時は階級制度が厳しい時代だった。発足したばかりの地質学協会は身分を理由に入会を認めなかったばかりか、彼のデータを盗用して別の新しい地質図を作る者まで現れ、終ぞ晩年まで不遇の扱いを受け続けた人物だ。
興味関心に共通点があると知り、ルヴィは心理的距離も縮まったのを感じた。
話は弾みに弾んだ。
「僕たちエルム人はこんなに人とすぐに仲良くなるってこと滅多にないんだけど、不思議だな」
「オレたちもそうだぜ」
「有名だよ」
パトリックがくすっと笑った。
「そうだ、よかったら今度博物館に行かないかい? きっとルヴィの興味がある展示物が見られるよ」
「いいな! 博物館だって、ネム!」
「そうね」
ネムは小さく苦笑している。
パトリックは意外におしゃべりで、ノリもよく馬が合った。
この出会いを逃したくないので、連絡先を交換する。
「トークツールにフレンド追加っと」
友だち第一号だ。
ネムも感慨深げに携帯の画面を眺めている。
「そうだ、なあパット、次の講義まで2時間あるんだけど、一緒に昼食でもどうだ?」
「いいね。僕は1時間ある。よければ僕がおすすめのカフェを紹介するよ。伊達にこのカレッジに4年も通っていないからね。二人とも、何かアレルギーはあるかな。食べられないものとか」
ちらっとネムの方を見る。
「わたしもルヴも特にないわ」
アレルギーや食べられないものを尋ねるのは海外の常識なのかもしれない。
ベジタリアンや宗教的に禁止されている物など、本国よりも気をつけなければならないことが多い。
「甘いものとしょっぱいものだったら?」
「今は、わたしはしょっぱいものがいいわ」
「オレもー」
自習室が隣接したカフェテリアに案内される。
食べながら、自習もできるということだ。
さすが、大学生時代からこのカレッジに通っているだけあって、穴場もご存じだ。
「そういえば、ルヴィたちはさっきの講義は受講するのかい?」
食後の紅茶を優雅に飲むパトリックが尋ねて来る。
散々な扱いを受けたけれども、それはルヴィにも責がある。
「受けるつもり。パットは?」
「ザイガー教授の研究が、僕の専門と被るところがあってね、その内容は面白いんだ。講義があの調子じゃなければ、興味があったんだけど。……でもそうだな、ルヴィたちに付き合ってもいいかな」
大学院は単位を取るのが大変だというがいいのだろうか。
「教養だし」
「心を読んだのか」
ぎょっとするとパトリックは笑った。分かりやすすぎる、とのことだ。
明朗に笑う、エルム紳士な友人をゲットした。
未熟な自分を自覚する機会にも恵まれ、良い一日になった。そう心から思えた。




