104 薄命
さらさらと流れる川面を眺めていると――思い浮かぶのは、人生のうちで都合よく用意される知らせや人のことだ。鬱屈としていたり、立ち直れないようなことが起こった時、いつも何かが、誰かがネムのところにやって来る。
都合の悪いことがやって来るのも突然だけれども。
「………そろそろ講義が終わった頃かしら」
リバーサイドの硝子張りのカフェは、時の流れがゆるやかになったよう。
ネムは待つのが苦手だ。いつもであれば。
コーヒーを持ってきてくれたウェイトレスに礼を言う。
にこやかに微笑んでくれるのが、チップのおかげだと知った。
余計な気を遣わなくて済む。余計な期待もせずに済む。
ネムは待ち人を待っている。
マリエの家を出た足で、カレッジ近くのカフェに来た。
本当は、待つのは好きではない。待つ時間を何かしている方が好きで、ルドラという知人をルヴィと一緒に図書館で待つときもそうだった。
「………………」
タマリンド占星術で占ってくれた礼をするために図書館内に併設されたカフェテリアで待ち合わせたが、彼は三十分以上も遅刻した。
「ネム。オレ、ここで待ってるから、課題の本を集めるの頼まれてくれね?」
「……行ってくる」
見かねた幼馴染に、送り出してもらい、ネムは水を得た魚のように、本棚の間を縫うように歩き回った。
書物にとって、最適な湿度、温度を保つようになっている館内は、暑くも寒くもない。ただ空気は停滞している。奥まった場所にある書庫は、古びた紙や埃の匂いがする。課題本を見つけ次第、腕の中に積み上げていく。
リストと一致する題目を見つけ、行儀は悪いが、曲げた左膝を棚に当てて心持ち体重をかけ、背表紙に右手を伸ばす。その本は、試す前から無理だろうなと思っていたので、実際わずかに届かない結果にはあっさり諦めた時だった。背後から腕が伸び、影が被さった――反射的に体が竦んだ。
「――これを?」
頭上から降って来たのは知った声だった。
顎を上げた拍子に、背後の人物に後頭部が当たってしまう。
「わ、ごめんなさい」
「いや………」
片腕で支えていた数冊の本を両手で抱え直しながら、振り返る。
彼はネムの頭上から本を引き抜き、差し出してきた。
ネムの目当ての本だった。
「ありがとう」
手を伸ばすと、彼の手から本が離れない。
伺い見ると、彼が険しい顔をしてネムの腕を見下ろしていた。
「どうかした?」
「その痣は」
積み上げた本でセーターがほつれるのを嫌って、袖をまくっていた。
むき出しの腕には、本の角や側面で出来た痕が残っている。それだけだ。
「ああ、本が重かったからかしら?」
「運ぼう」
何かを言う隙もなかった。流れるような動作でネムの両腕から彼の片腕に移動する。もしかすると、ネムの言動は相手に持ってくれるよう催促したものになってしまったのだろうか。……そうかもしれない。
結局付き合ってくれた彼と共に一冊ずつ本を集めた。
最後の本を集め終わり、ほっとしたネムは下ろした袖に隠れた腕を撫でていた。軽く鬱血しているが、数日したら消える程度なのに、この痕の見た時の彼の顔は、まるで手の施しようのない重症患者を見るようなものだった。
「ねえ、レド。あそこで休みましょう?」
近くに壁際に半円状のソファがあったのは幸運だった。
本を探して歩き回るうちに奥まったところまで来てしまっていた。
貸出カウンターまではかなり距離があった。
何故か立ち止まる彼の腕を、少々強引に引っ張って座らせる。
彼の腕から積みあがった本をソファに下ろし、その横に座った。
「重たかったでしょう? 付き合ってくれてありがとう」
「問題ない。……探していたのはこれで全部か」
ネムは頷く。全部で八冊だ。
彼は微妙な顔をしていた。
「あ、わたしがこれを全部読むと思った?」
ネムは思わず笑った。
「そう言えたならよかったのだけれど、これはルームメイトとの二人分なの」
一人四冊ずつということになる。
ちなみに、これはメールリ教授の講義1回分の課題だ。
「何故、そのルームメイトは付いてこない」
責める響きを感じて、ネムは慌てた。
彼の中でルヴィの印象が悪くなってしまう。
「あなたのおかげで楽に探せたわ。ありがとう。でも、本当によかったの? あなたもあそこにいたのなら、何か探していたのではない?」
ネムが歩き回った書架は環境分野で、経済を専攻する彼にはあまり縁がないだろう区画だ。そんな疑問を最初に口にしたのだが、彼はその時も黙って目を伏せ、本を抱えていない方の手で持っていた携帯を仕舞うだけだった。
「? あなたのところの講義はどう? 大変?」
大変、という言葉を噛み砕くように繰り返した彼は少し考え、首を横に振った。
「…………特には。市場データをさらって、起きている事象を記述するだけだ」
「そうなの? でもそれってとても難しそうだわ」
横を見ると、彼の戸惑ったような顔があった。
何か忘れていることがあっただろうか。
「そういえば、あの……誰だったかしら? ええっと赤い髪の、彼女との問題は何とかなりそう?」
そういった途端、彼はネムの手をきつく掴んで体を折った。
慌てたネムはその肩に手を置いて背中をさすった。
ひどく震えている。
「どっどうしたの? 大丈夫?」
小声で呼びかけ、流れる絹のような黒髪にそっと指を通して顔をのぞき込むを苦しそうに顔をゆがめているのが見えて大慌てする。とりあえず横にさせようと彼の肩を押して、ソファに横にさせる。本も下ろしてネムもどけば、スペースが取れた。硬直している彼の顔からそっと髪を払い、首をもとを緩めようとするが、タートルネックなので脱がすしか緩めようがない。
「えっと、あとは……きゅ、救急車? あら、番号何番だったかしら? そもそもイクシオリリオンと一緒だったかしら」
床に膝をつき、携帯片手にパニックになっていると、そのネムの手を横たわった状態で彼が掴んだ。
「…………問題ない」
「そ、んなはずは」
ないのではないかという言葉が出かかかりそうになったが、困惑したような表情にネムが大騒ぎしすぎただけなのかもしれないと赤面する。
彼が体を起こし、ネムに座るよう促すので、再び腰を下ろし、そのまま沈黙が流れる。良くも悪くも奥まった場所にあるせいか、図書館ということでネムも小声で騒いでいたせいか、人が寄って来ることもなかった。
「何か、持病があるの?」
「………発作のようなものだ」
美人薄命という単語が思い浮かぶ。まるで天女のように美しいこの友人のためのような言葉だ。雑草のようといわれたネムの生命力とは比べるべくもない業を背負っているのかもしれない。その横顔をのぞきみて、また痛ましくなった。
「時々、記憶が途切れる」
………想像以上に大変だ。
言葉もなく聞いていると、彼が長い沈黙の後にようやく口を開いた。
「………ハワード元中将の娘のことだが」
「ええ。どこのご令嬢なのかしら? わたしの知っている人?」
やっと話してくれたので、思い切り相槌を打つと、彼が閉口する。
食いつき過ぎただろうか。
「…………赤髪の」
「ああ、顔をぶってきた人ね」
印象に残っているので覚えている。
「――ぶった?」
「ええ。誤解だったのだけれど。でも、あなたのことを思うと、思い込みの激しい人だったのかしら。レドも恋人だって付きまとわれて大変だったわね。リグナムバイタでは一度に何人とも付き合うのはごく普通のことだって聞いたけれど、恋人になるのは境界が曖昧なのよね」
少し呼吸が乱れかけて来た彼の背中をトントンと叩いた。
ルヴィにしてもらったことだ。
「彼女の言い分を信じて、レドとは距離を置かなければと思っていたのだけれど、わたしたちの誤解が解けてよかったわ。それを彼女にメールで送ったのだけれど返信がないの。きっとわたしのことを怒っているのね。またどこかで会ったら、ぶたれてしまうかも。でももう譲らないわ。あなたに今、恋人はいないし、わたしたちは友達だものね」
にっこり笑いかけると、口元を押さえていた彼が、手を下した。
不安定だった視線が定まり、純黒の美しい瞳にネムが鏡のように映った。
それから彼は、図書館の一般的な学生の利用方法を教えてくれた。
「今度から本を探すときは、司書を使うといい。彼らはそれが職務だ」
リストアップした貸し出し可能な本をまとめて学生証に登録されている住所宛に送ってくれるのだという。カウンターに付いてからは、彼に手伝ってもらいながら司書にリストで残っていた本を集めてもらった。それをそのまま持ち帰る労力を想像して、憂鬱になっていると、司書から住所を確認された。
変更がなければ、学生証に登録されている住所に郵送してくれるという。希望の日時に届けてくれ、返却時は、梱包されているバッグに入れて投函すればよいのだと説明を受ける。
あれが、初めてレクチャーされた画期的な方法で、今まで負わなくていい苦労を負っていたと判明したのと、持つべきものはやはり友人だと再確認した瞬間になる。
特定の人に、依存すべきではない。
これを再確認したのは今日のこと。
――そういえば、彼は痣を気にしていた。
ネムの両手首の痣も目にすれば気にしてしまうかもしれない。
セーターの袖を伸ばして、エミの手形を隠せたのを確認する。
「向いていないのかしら」
同性の友人が欲しくて、こだわっていると、うまくいかない。
異性の友人はルヴィのおかげもあって割とスムーズにできる。
「友人には変わらないもの」
それも、ネムが自分から作った友人だ。
ことりとカップに注いだ、ハーブティーの入ったポットを置いたところで、隣にさした影に、ネムは振り向いて微笑んだ。
「講義、お疲れ様。急だったのに来てもらってありがとう」
「いや」
辺りをざっと見回した彼が、こちらを見て首を横に振った。
「前は、窓際の席に座れなかったでしょう? 今日はちゃんと予約できたのよ」
隣の席をネムはすすめた。
どこか警戒したようにもう一度見回した彼は、隣の席に腰かけた。




