99 セルフィ―
そこにはすべてが揃っていた。
雨風をしのぐ天井と壁も、横たわるベッドも、喉の渇きを潤すミネラルウォーターも、冷蔵庫に空腹を癒す食料も、シャワーも、服もあった。どこからか換気孔があるのか風も感じる。チェックポイントと言われたが、何不自由しない、素晴らしい場所だ。しばらくここに滞在しよう。
久しぶりの人間らしい環境に、涙が無精ひげの間を伝っていった。
******
「――あ、兄貴!」
『ルヴィはいつも元気そうだな』
つながった画面越しの兄へ、おはようもこんばんはもなく畳みかけた。
「兄貴さ、パラレルワールドって信じる?」
『……藪から棒にどうした』
ぐだっと椅子に背中を預けた兄が、首の後ろをかいた。
「やっぱ信じられんよな? そうなんだよな、実は今日」
『なくはないだろうが』
「なくは、ない?」
それはつまり、あるってこと?
『並行世界から来たっていう人間にでもあったか? アクイレギアだもんな』
「アクイレギアだからなんですって……?」
兄は画面の端に手を伸ばした。
その手はエナジードリンクを掴んで、プルタブを空けた。
いつもの缶だが、そのメーカーは兄とのテレビ通話でしか見たことがない。
『……ぬるいな』
「冷え冷えは体に悪いって」
はじめから経緯を聞いてもらうことになり、頭の中を整理する。
「それがさ、今住んでるアパートの住人で……」
今日の出来事を話し出す。
兄は真面目に耳を傾けて聞いてくれた。そして一言。
『それはアクイレギア陸軍が詳しいと思うぞ』
「も一回聞くけど、冗談とか思わねえの?」
実在をいくつか確認している例があるらしい。
めちゃくちゃ真面目に返されて、思わず突っ込む。
『宇宙系は空軍と海軍、異世界系は陸軍の専売特許って感じで研究されているからな』
「どういう棲み分けだよ……」
『一部は、だ。専門で研究している連中はマッドサイエンティストだな』
「やばいじゃん……その人知り合いなんだ。人体実験でもされたら困るんだけど」
エミはそれを恐れているようだった。
兄はあっさり頷いた。
『そっちに掛け合うのはやめた方がいいだろうな』
「……精神的なものっていう疑いは?」
『その線を考えると、それ一択だけどな』
ぬるくて気に入らなかったらしい。
エナドリを机に置いた兄は、椅子に身を預けた。
『今、アクイレギア陸軍が実証実験してる内容がそれ系だからな。条件に因っちゃあ、一般にそういう人が出てきてもおかしくない」
「やばい国じゃん……」
「アクイレギアの市民へのリスクヘッジなんてそんなものだ』
留学先に選んで、いい顔されないわけだ。
しかし、心身の病でなければ、それはそれで問題だ。
「じゃあさ、オレどうすれば? 当てなんて兄貴ぐらいしかいないんだけど」
『………こほん。もちろん、案がないわけじゃない。あいつらがいたろ、FBIの』
兄は咳払いして、声音を改めた。
かつて、兄はルヴィが入院した件で、FBIと連携を取ったことがある。
「ヒーカンとデイビッドさん?」
『あいつらには貸しがあるから、適当に俺の名前を出して脅して頼んどけ』
「……脅すにしても頼むにしても、オレだったらヒーカン相手しか無理だな」
本人不在のところで大変に失礼なことをいう。
腕を組んだ兄が視線を画角の端に向けて曖昧に頷く。
『銀髪の奴の方が、前の一件に関連することだから扱いやすいと思うが……まあ、そちらでも融通は聞くだろう』
「融通は利きまくりだぜ」
気になる一言があった。
「……前の一件に関連って?」
『医者ぐるみで成人男性をターゲットに昏睡状態にしてた一件が陸軍からの依頼だったていう……そういえば、極秘だったか?』
極秘と聞いて耳を塞ごうとしたが、すべて聞き終わっていると気づき、微妙な顔のまま両手を下した。一般市民を被検体にして実験していたのが、犯罪に手を染めた医者ではなく、軍が背後にいたと知って、この国が空恐ろしくなる。
「え、じゃあ、行方不明になったっていう前の担当医の先生って」
『テレンス・マードック医師だな。逃亡中だったのをFBIに保護されたが、陸軍管轄に身柄を移送された』
「……話してくれていいん?」
『お前のことだ。気に病むかもしれんだろ、生死不明の行方知れずなんて』
生きていると知って、ほっとしたのでその解釈は正しい。一般的な両親がどういうものか、ルヴィもネムも知らない。親代わりに一番上の兄が育ててくれた。
「じゃ、聞かれた時、知らんふりしたほうが良さそ?」
『まー内内で処理するといっていたからな』
「……知らんふりしとくな!」
『ルヴの大根役者っぷりをカメラに収めたい、ネムちゃんに頼んどくか』
「やめてくれ」
二十半ばも近い弟が、ついこの間まで歩きたての幼児に感じるらしい。
いくら童顔気味だからってこれほど猫可愛がりしてくるのはこの兄ぐらいだ。
『なんにせよ、今回も勝手に一人で行動するなよ。行動するときは?』
「ネムに相談してから!」
『そうだ。これは留学するにあたって、はじめに約束したことだからな』
真面目な顔で頷いて見せる。
「ありがと、兄貴。こんな危険な国への留学を許してくれて」
『俺は今でもお前たちを連れて帰りたいけどな』
「どこに? 実家にほとんど帰ってこないじゃん」
長く、一人っきりで自宅生をしていたのを思い出す。
数年に一回しか戻ってこないときもあった兄たちだ。
顎に手を遣った兄は疲れているらしく珍妙なことを口走った。
『ポケットの中とか?』
「オレはビスケットかよ? 割って増やそうって?」
『……弟、増えるか?』
「さあー」
肩を竦めた。
この家の、兄弟の増え方は一般とは違うので。
そういえば、あの両親はもうそろそろ世界一周旅行が終わりに差し掛かるころだろうか。豪華客船のチケットをプレゼントしたのはこの兄だった。
『ネムちゃんに礼を言っておいてくれ、とてもいい写真だったと。アイコンの写真を見るだけで癒される。かわいい×かわいいだな』
兄が開発した『写真日記』のツールで、幼馴染のネムも参加した。ネムのアイコンは、ルヴィとのツーショット写真だ。せっかく自撮り写真にするのなら、ネム一人がいいと思うのだが、ネムはこれがいいと言ってプロフィール写真に使った。
「……オレの投稿も見てくれてる? 素人もプロ並みに取れる奇跡の被写体を映してるんだけど」
『三十路のおっさんが見てたら絵面が危険だと理解してくれ』
口をとがらせていると、兄が話題を変えた。
『――そうだ。このツールだが、正式にリリースした』
「開発段階だったもんな」
『そのアカウントを引き継いでいる。俺たちは最古参ユーザーだな』
実は、携帯のツール『写真日記』の一般利用が始まったというのは、ルドラからすでに聞いていた。サービス開始から既に数時間で1万人が利用し、その後も急速に伸び続けている。
『この収益がまたお前たちへの課金源になるから期待していろ。俺の弟たちには何不自由なく贅沢に暮らしてほしい。それが俺の仕事のモチベーションだからな』
「もういっぱいいっぱいだって……」
あぶく銭の消費が間に合わなかったのを、開発費に回して莫大な収益が約束されている。減らすどころか、指数関数的に増加させている。金食い虫といわれる道に進んだ次兄が、数億から数十億の買い物をぽんぽんしても逆に喜びの悲鳴を上げるのが長兄だ。……恵まれている。
自室から出て明かりがついているリビングへ向かう。ダイニングテーブルに、こちらへ背中を向けて座るネムは、ヘッドフォンをしている。大きな出窓の方の席に腰かけると、ネムが顔を上げた。今まで課題を熟していたようだ。細い首にヘッドフォンをかける。
「お話は終わったのね」
「うん。それでさ、ヒーカンに協力してもらうのどうかって。もちろん、マザーマリエとエミさんを説得してからっていうのが前提だけど」
「ヒーカンに?」
ネムは大きな薄青の瞳を縁取る睫毛を上下させた。
そして考え込んでから口を開いた。
「メンタルケアで? それとも……別の世界から来ましたって?」
「とりあえず、どっちと決めつけずはじめっから聞いてもらおうと思ってさ」
どちらの可能性も、ルヴィたちが勝手に考えたことだ。兄からの言葉で、前者の可能性も有り得ると知ってからは、どちらと見るかはFBIの特別捜査官として培ってきたヒーカンの直感と判断に任せたい。
「まともに取り合ってもらえるかしら」
「SFはアクイレギアのお家芸だろ?」
兄からの受け売りを披露する。
「……ルヴはどう思っているの?」
「正直、三、四回ぐらいしか話したことないエミさんとの印象の中で、今回のエミさんはほんとに別人って感じなんだよな。わからんっていうのが正直なところ」
「……そう」
「どうかしたか?」
俯いたネムに、妙なことを言っただろうかと首をかしげる。
するとネムは顔を上げた。
「………………わたしも、この問題をわたしたちだけで何とかすることはできないと思ったわ」
ということは、だ。
「ネムは、誰に相談しようと考えたんだ?」
「………ジャミラに」
「まあ、な」
ジャミラが管理人室に立つようになったのは、マリエが別の入居者の学生に問題があったので手が離せなくて、というもの。その学生がエミのことだと今ならわかる。
「でも、マザーが打ち明けていないわけはないと思うの」
「…………そだな」
その意見には、反対だ。マリエはジャミラが必要以上にエミの件に関わらせないようにしている気がした。ジャミラもまさか、エミがこんな状態にあるということは知らないのではないか。
「ジャミラは今、本業も多忙だしな」
「………そう、ね」
お互い鉛を飲み込んだような顔をして静まり返る。ぽん、ポットのお湯が沸く音がして、視線をそちらにやると、同じ動作をしたネムと目が合う。思わず笑い、美少女だなと頭の隅で声がする。ルヴィの声だ。
「あ、そういえばさ、兄貴が『写真日記』の件でネムにありがとうってさ」
「……ああ。鬼灯の花って白いのね。そうかと思ってフレンド追加したけれど、ルヴのどのお兄さんか確信はなかったの」
「………兄貴自身は何の投稿もしてないからな」
ネムが携帯を開いて、確認するようだ。
「ルヴ、アカウントだけれど、一般公開しない方がいいと通知が来ているわ」
鍵付きアカウントというものにするらしい。
「不特定多数の目に触れないように、だとか。今日も歩いていて、すれ違う人がこのツールの話をしているのも聞こえたものね」
「そういえば、ルドラもそんなことを言ってたな。我が兄貴ながら商才えぐすぎ」
「最近の流行りになっているようね」
「トレンドメーカーになってしまったか」
ため息をついていると、ネムが顔を上げた。
「――あのね」
「うん」
小声で話し出す。
「マザーからのお願いだけれど、できることはわたしに任せてほしいの」
「もうたくさん任せてるぞ」
ネムは首を振った。
「ルヴは、いくらでも寄り道ができる環境があるわ。でも、だからこそ、ルヴ自身のことに精一杯になって、今に集中してほしいの。ルヴが自分のことを優先するのは、間違っていない。たとえ、誰かに助けを求められても手を差し伸べられないことに、罪悪感を覚える必要はないわ。わたしが、ちゃんとお目付け役としてルヴにそうさせるの」
顔を上げたネムと目が合う。
「だからルヴは自分の道を歩んで」
「――うん、ありがとな、ネム」
そう、改めて言ってもらって、ようやくルヴィは自室に置きっぱなしにしていたパンフレットを思い出すことを自分に許した。




