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着替えを終え、エプロンを身につけた茅衣子は、裕樹の部屋を掃除するために家事部屋から掃除機を取り出し、それを持って二階へと上がろうと階段へと向かった。だがそこで、久しぶりに本邸へ帰ってきた武蔵川夫人――弘樹の母・百合子に呼び止められてしまった。
「茅衣子ちゃん、お茶をお願い」
彼女の少し後ろには、上品な雰囲気の老婦人がおり、にこにこと優しげな笑みを浮かべている。百合子の親戚の女性だろうかと思いながら、茅衣子は「畏まりました」と頷いて、階段の傍に掃除機を置くとキッチンへと急いだ。
メイド頭の木村が手早く二人分の紅茶を淹れ、常備してある有名洋菓子店のクッキーを菓子皿に入れると、茅衣子はワゴンにそれらを乗せてリビングへと運んだ。
「お待たせいたしました」
「ありがとう茅衣子ちゃん」
失礼しますと言ってから、茅衣子は客である老婦人から先にお茶をだす。
「茅衣子ちゃん、あなたも座ってちょうだい」
「は?」
百合子は自分のすぐ横をポンポンと軽く叩き、そこへ座るように茅衣子を促す。断る理由がないため、茅衣子は言われるまま百合子の横に浅く腰をかけた。
「彼女が小野 茅衣子さんです」
百合子がそう老婦人に紹介すると、彼女は茅衣子に向かって微笑んだ。茅衣子もつられて口端を上げる。
「茅衣子ちゃん、こちら岸田 茅代子さんとおっしゃって、あなたの亡くなったお母様のお母様……つまりあなたのお祖母様なのよ」
いきなりの爆弾発言に、茅衣子の思考回路は停止し、飛び出るのではないかと思うくらい目を見開いた。
「初めまして茅衣子ちゃん」
そう言って、茅代子はちょこんと首を傾けた。その仕草を見て、亡き母を思い出す。そして見れば見るほど目の前の老婦人は、亡母に良く似ているのだ。母が生きていて、年をとったらこんな感じになるだろうな――と思った。
「あ、あの……」
だが茅衣子は母に、身内は一人もいないと聞かされていた。天涯孤独なのだ――と。
「は、母は……母は誰もいないって……親も、親戚も、自分にはいないって……」
震える声で、絞り出すようにそう言えば、茅代子はぎゅっと眉根を寄せて、苦しげに顔を歪めて溜息をついた。
「麻衣子には許婚のような幼馴染みの男性がいたの。二人はとても仲が良かったわ。だからわたくし達……麻衣子と彼が結婚して岸田の家を継ぐことを、少しも疑ったりしなかった。でもあの子は……小野さんと出会ってしまった。おそらく初めての恋だったのでしょうね……小野さんのことがわたくし達に知られたら、反対されると判っていたから、あの子は必死になって彼のことを隠していたわ。わたくしだって母親ですもの、あの子の様子がおかしいことぐらい気が付いたの。だから興信所を使って調べさせたわ。そうしたら小野さんと交際しているのが判って……」
そこで茅代子は、深く深く息を吐きだした。
「幼馴染みの彼と結婚させてしまえば、麻衣子も小野さんのことは忘れるだろうと思ったの。だからお式を急がせたわ。でもそれが裏目に出てしまったのかしらね……麻衣子を追いつめてしまった」
ハンカチで目もとを押さえ、茅代子は自分を落ち着かせる為か、天井を仰いで深呼吸を一度した。それから視線を茅衣子へと戻す。
「結納の日に、小野さんと駆け落ちしてしまったの……」
その後はあなたの方が詳しいでしょう――と、茅代子は悲しそうに笑った。
「怒った夫は、麻衣子など自分の娘じゃないと言って、勘当してしまったのよ。調べれば居場所なんてすぐに判るけれど、夫はそれをしなかったし……させようともしなかったし……させないようにしたわ。だからこんなにも遅くなってしまった……」
うっすらと涙を溜めた茅代子は、か細い声でもう一度「ごめんなさいね」と茅衣子に謝った。どうしてそんなことを言うのか、茅衣子には理解できず、助けを求めるように百合子を見る。百合子は複雑そうな顔をしていた。
「ごめんなさいね茅衣子ちゃん。わたくし、裕樹があんな嘘をついていたなんて知らなくて……」
「嘘?」
「ええ。小野さんね、武蔵川の関連会社で働いているの。寮に入っているから衣食住には困っていないし、特別に副業も認めているから、毎月の収入の殆どを返済にあてているのよ。お父様、頑張っているわよ」
「……」
蒸発して行方不明の父親が、まさかそんな事になっていたとは……茅衣子は真実を知り愕然となった。
「二ヶ月ほど前に夫が亡くなったの……。麻衣子のことをあんなに怒っていたのに、あの人ったら、遺言書に“もしも麻衣子の家族が困っていたら、絶対に助けてやってくれ”って書いていたのよ。あの人もあの人で、ずっと、悔やんでいたの……」
それから調査会社に依頼し、茅衣子達の現状を知ったのだ――と、茅代子は目もとをハンカチでそっと押さえた。
「借金はこちらで払うと申し出たのだけれど、小野さん、これは自分の所為だからと言って首を縦には振って下さらなかったわ。自分の力で、何年かかっても必ず返すと仰って……。でもね、あなたの事をとても心配していらしたの。だからね茅衣子ちゃん。あなたさえ良かったら、岸田の家に来て欲しいのよ。わたくし達と一緒に暮しましょう」
麻衣子には四歳年下の妹・由衣子がおり、駆け落ちした姉に代わり、彼女が婿を迎え岸田の家を継いだ。だが、彼女の夫は外交官で、現在フランスに赴任している。妻である由衣子も一緒に行っており、岸田の家には由衣子の息子で、中学三年生の侑弥と茅代子の二人だけだった。
「由衣子もあなたを引き取る事に賛成してくれているし、早く会いたいって言っていたわ。それにね、女の子がいると、家の中も華やかになって嬉しいの。侑弥も従姉がいるって知って、とても喜んでいるのよ」
「わたくしは、悪い話じゃないと思うわ。小野さんも了承済みだし、あとは茅衣子ちゃんの気持ち次第よ」
どうかしら?――と、問う百合子に、茅衣子は眉根を寄せるだけで、答える事ができなかった。頭の中が真っ白だからだ。
「ゆっくり考えて、それでどうするか答えを出してくれればいいわ」
「あ、はい……」
茅衣子はおぼつかない足取りで応接間から出ると、置きっぱなしだった掃除機を持って、掃除をするために裕樹の部屋へと向かった。
寝る支度を終えた茅衣子は、ベッドに腰を掛けると、傍にあったスマホを手に取った。ジッと、手の中のそれを見つめ、一瞬躊躇ったものの電話をかけるために、画面を開いて相手を呼び出す。
「あ、遅くにごめんなさい」
『いいよ。どうした?』
「ん……あのね。ゆーくん実は……」
今日知った事の全てを、茅衣子は雄大に話した。そして、自分はどうしたらいいのか判らないと打ち明ける。
『俺は岸田の家に行った方が、ちぃのためだと思う』
「ゆーくん」
『武蔵川の家にいる必要なんて、最初からなかったんだから、今すぐ出るべきだ』
「ゆーくん?」
『ちぃ……そこに居たらいけない。このままじゃお前、武蔵川に好き勝手されるだけだぞ。それともお前、あいつが好きなのか?』
最後の方は、どこか感情を抑えたような言い方だった。茅衣子は目を瞠り、スマホを持っていない反対側の手は、ベッドカバーをぎゅうっと強く握る。
「それ、は……」
好きか嫌いか……そのどちらか選べと問われれば、好きを選ぶ。でも、その好きの意味を問われたら、今の茅衣子には説明ができない。
『とにかく、お前がそこに居る必要はないんだよ。岸田の家に行くべきだ。そうすれば何か違うものが、茅衣子にも見えるかもしれない』
雄大の言葉に、茅衣子は「そうだね」と呟くように答えた。
茅衣子が武蔵川邸を出たのは、それから六日後の事だった。
裕樹に邪魔されるかと、最初はビクビクしていたものの、何事もなく岸田の家に行く事ができた。
「なんか、あっけなかったなぁ……」
あてがわれた部屋の、ふかふかで広いベッドの上に腰を下ろし、茅衣子はふっと息を吐く。持ち物は少ないので、片付けはすぐに終わってしまった。
ふと、机の上に置いたバックの、その中にはいっている物を思い出す。そこには裕樹から渡された、銀行の通帳と印鑑が入っていた。別れ際に見せられたそれは茅衣子の名義になっていて、そこには今まで借金返済分として引かれていた分が全て入っていた。裕樹は騙していた事を素直に詫び、印鑑と共にそれを茅衣子に渡したのだ。その際、ちょっとだけ強く手を握られたような気がするが、気のせいかもしれない。
今後、彼とどう向き合っていけばいいのか悩む所だ。
まあ、なるようにしかならないだろうとは思う。変に構えたりするよりも、自然に任せた方が良いような気がする。
「ちーこちゃ~ん、おばあ様がお茶にしましょうってさー」
ドアの向こうから声がかかり、茅衣子は考える事を止めた。
「はあい、今行きます」
立ち上がり、ドアの方へと向かう。ノブを掴み押し開けば、従弟の侑弥がニコニコ笑って待っていた。
「行こ、ちーこちゃん」
「うん」
侑弥の案内で、茅衣子は茅代子の待つテラスへと向かった。