第一怪 返名箱(かえしなばこ)
ネットに残された怪談には、元になった土地がある。
そう考える女性ライターが、都市伝説の舞台を巡っていく現代ホラーです。
『姉なんていない』
そう書き込まれた七分前まで、投稿者は確かに姉の話をしていた。
久世真琴はマウスのホイールを上へ回した。
薄暗い編集室のモニターに、十八年前の書き込みが流れていく。
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【祖母の遺品から、宛名だけの箱が出てきた】
1:名無しの迷い人:2008/08/12(火) 21:04:17
スレ立て初めてだから変なところあったらごめん。
先月ばあちゃんが死んだんだけど、遺品を整理してたら変な木箱が出てきた。
小さい。弁当箱くらい。
釘も蝶番もないのに、どこが蓋なのかは分かる。
表に母さんの名前が書いてある。
でも名字が違う。
ばあちゃんの旧姓らしい。
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「十八年前か」
背後から声がして、真琴は肩越しに振り返った。
編集長の橋本が、紙コップのコーヒーを片手に立っている。
四十を少し過ぎた、小柄で猫背の男だ。髪は伸び放題で、今日も一日中同じパーカーを着ている。
「まだいたのか」
「橋本さんこそ」
「俺は編集長だからな。帰れないのが仕事だ」
「私は契約ライターなので、帰っても原稿料は増えません」
「じゃあ帰れよ」
「帰るところでした」
言いながら、真琴はスレッドの続きを表示した。
橋本はモニターをのぞき込み、鼻を鳴らした。
「また怖い話か」
「怖い話じゃありません。怖い話の元ネタを探してるんです」
「それを世間では怖い話っていうんだよ」
真琴が働いているのは、地方文化や廃墟、奇妙な風習を扱う小さなウェブメディアだった。
名前は『地層』。
大手ニュースサイトほどの知名度はなく、記事の半分は自治体や観光施設からの依頼で成り立っている。
真琴の担当企画は、その中でも数字の読めない連載だった。
『怪談の住所を探しています』
十年、二十年前に匿名掲示板へ書き込まれた都市伝説を調べ、題材となった土地や事件を探す。
怪異を証明するための企画ではない。
むしろ逆だ。
奇妙な地名。
廃村になった集落。
忘れられた災害。
地域に残る禁忌。
ネット怪談の裏側には、実在した何かが混ざっている。
それを一つずつ拾い上げるのが、真琴の仕事だった。
「で、今回は何箱?」
「何箱って?」
「ネットの怪談って箱が好きだろ。開けたら死ぬ箱。触ったら死ぬ箱。女が死ぬ箱。長男が死ぬ箱」
「雑ですね」
「だいたい合ってる」
「今回は死にません」
真琴が答えると、橋本は眉を上げた。
「死なないのか?」
「人が消えます」
「もっと悪いじゃねえか」
スレッドの投稿者は、ハンドルネームを使っていなかった。
一貫して匿名。
文章も特別うまいわけではない。
句読点は少なく、誤字もあり、写真の画質は荒かった。
だからこそ、作り話には見えなかった。
投稿者の家族は四人。
父親と母親。
三歳上の姉。
そして投稿者本人。
祖母の遺品から見つかった箱には、母親の名前が書かれていた。ただし、母親が結婚する前の名字で。
箱を持ち帰った日の夜から、家の中で奇妙なことが起き始める。
最初は、家族写真だった。
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34:名無しの迷い人:2008/08/13(水) 00:41:08
写真撮った。
箱はこれ。
あと関係あるか分からないけど、家族写真が変。
姉ちゃんが半分くらい透けてる。
母さんは湿気で写真が傷んだだけって言ってる。
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添付された画像は、既にリンク切れしていた。
しかし、別の利用者が保存した縮小画像だけは残っている。
海辺で撮られた家族写真。
父親と母親。
中学生くらいの少年。
その隣に、輪郭の薄い女性が立っている。
顔は白く潰れ、背後の海が透けて見えた。
「画像加工じゃないのか?」
橋本が言った。
「可能性はあります。でも、保存された時刻が投稿より前なんです」
「時計がずれてたんだろ」
「それもあり得ます」
「何でもあり得るな」
「調べる前は、だいたいそうです」
その後、姉に関する異変は増えていった。
家族写真から姉の姿が消える。
姉の部屋の表札から名前が消える。
姉が卒業した高校の卒業アルバムから、姉だけがいなくなる。
姉の婚約者に電話すると、
『そんな女性は知らない』
と言われた。
その翌日。
投稿者は、自分には姉などいないと書き込んだ。
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109:名無しの迷い人:2008/08/14(木) 02:11:26
さっきから姉姉って何の話してるんだ?
俺一人っ子なんだけど。
家族は父さん母さん俺の三人。
写真に女なんて写ってない。
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「ここが面白いんです」
真琴は言った。
「怖がるところじゃなくて?」
「投稿者本人が、過去に自分で書いた内容を否定している。作り話なら、かなり手が込んでいます」
「途中で設定忘れたんじゃないか?」
「それにしては、他の人の反応が妙なんです」
スレッドの中盤。
箱の写真を見たという人物が現れていた。
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127:名伏せ:2008/08/14(木) 02:38:50
画像消せ。
それは箱じゃない。
名札だ。
今、家に何人いる。
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132:名無しの迷い人:2008/08/14(木) 02:42:19
三人。
父さんと母さんと俺。
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135:名伏せ:2008/08/14(木) 02:44:03
数えるなと言いたかったが遅かった。
これ以降、箱の前で家族の名前を呼ぶな。
本名を書き込むな。
箱を燃やすな。
川に流すな。
送り返すな。
名字が変わった人間には触らせるな。
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「事情を知っている人物が現れる。定番だな」
橋本があくびをかみ殺した。
「この人物は、箱を“返名箱”と呼んでいます」
「へんめいばこ?」
「かえしなばこ」
真琴は検索欄に文字を入力した。
返名箱。
検索結果は、ほとんどが例のスレッドを転載したまとめ記事だった。
個別の由来を説明した資料は見つからない。
漢字だけを見れば、人の名を返す箱。
だが、スレッドの人物は一度だけ、奇妙な説明を書いていた。
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161:名伏せ:2008/08/14(木) 03:20:44
名前を返す箱じゃない。
人間を名前へ返す箱だ。
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「名前へ返す?」
橋本が首をかしげた。
「意味は分かりません」
「じゃあ、現地に行っても分からないかもしれないな」
「その可能性もあります」
「お前、都合が悪いとき全部“可能性はあります”で逃げるよな」
「便利なので」
真琴はスレッドの最後を開いた。
箱の写真を見た人物は、投稿者に箱の由来を尋ねた。
誰の遺品だったのか。
祖母はどこで生まれたのか。
箱に書かれている名字は何か。
投稿者は、母親の実家があったという山間の集落名を書き込んだ。
ただし、その部分は文字化けしていた。
読めるのは、最後の一文字だけ。
《越》。
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283:名無しの迷い人:2008/08/15(金) 05:13:01
母さんの実家があった村が分かった。
箱を返しに行ってくる。
ここから車で二時間くらい。
明るくなったら出る。
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それが最後の書き込みだった。
投稿者が戻ってきた形跡はない。
スレッドに現れた《名伏せ》という人物も、それ以降一度も書き込んでいなかった。
「場所、分かったのか?」
橋本が尋ねた。
真琴は、デスクに広げていたコピー用紙を一枚取り上げた。
そこには、拡大した宅配伝票の画像が印刷されている。
箱の写真の隅に写り込んでいたものだ。
宛名と住所は黒く塗り潰されている。
しかし、伝票右上の数字だけが薄く残っていた。
「郵便番号?」
「旧郵便番号です。五桁だったころのもの」
真琴は別の紙を差し出した。
昭和五十年代に発行された郵便区分表。
現在は使われていない番号が、ある地域に割り当てられている。
中部地方北部。
県境に近い山間部。
旧・千枝町。
そのさらに奥に、昭和四十年代の地形図にだけ記載された小さな集落があった。
名越。
読みは、なごし。
「文字化けしていた集落名の最後とも一致します」
「似た郵便番号の地域は?」
「三か所ありました。そのうち、昭和三十年代から五十年代の間に集団移転した集落があるのは一か所だけです」
「集団移転?」
「昭和四十一年、大規模な地滑りが起きています。その後、住民のほとんどが麓の町へ移転した」
「ほとんど?」
「町史では、四十六世帯が移転したと書かれています」
真琴はスレッドの一文を指した。
投稿者は、祖母から聞いた話として、名越には四十七軒の家があったと書いている。
一軒、合わない。
「行くのか?」
「そのつもりです」
「一人で?」
「林道の入口までは車で行けます。衛星通信機も借りました。位置情報は共有します」
「そういう準備だけはいいよな」
橋本は紙コップのコーヒーを飲み干した。
「現地で箱を見つけても、触るなよ」
「橋本さん、信じてるんですか?」
「信じてない。ただ、お前が何か壊すと経費で弁償することになる」
「箱を見つける前提なんですね」
「見つけるんだろ?」
真琴は答えず、ノートパソコンを閉じた。
閉じる直前。
モニターに表示されていた古いスレッドの下部で、小さな文字が点滅した。
《新着レス:1件》
真琴が再び画面を見る。
表示は消えていた。
更新ボタンを押しても、新しい書き込みはない。
「どうした?」
「いえ」
十八年前に途切れたスレッドだ。
今さら新着があるはずがない。
真琴はブラウザを閉じた。
翌朝、午前六時。
東京を出発した。
◇
名越集落へ続く道は、カーナビに表示されなかった。
現在の地図では、県道から分岐した林道が途中で途切れている。
スマートフォンの地図アプリには、灰色の山肌が広がるだけだった。
真琴は助手席に古い地形図を置き、何度も現在地を確認しながら車を走らせた。
麓の町を過ぎると、民家は急に減った。
コンビニもガソリンスタンドもない。
道の両側には杉林が迫り、昼前だというのに車内は薄暗かった。
一時間ほど走ったところで、錆びた通行止めの標識が現れた。
《この先、路肩崩落につき車両通行禁止》
標識の奥には、細い舗装路が続いている。
真琴は道路脇の空き地に車を停めた。
位置情報を橋本へ送信。
予備バッテリーを確認。
熊鈴とスプレー。
救急用品。
飲料水。
小型の録音機。
カメラ。
必要なものをリュックへ入れ、車を降りた。
真琴はオカルトを信じていない。
だが、山を軽く見るほど無謀でもなかった。
林道を歩き始めて十分ほど。
右手の杉林が途切れ、古い石垣が見えた。
その上に、一軒の家が建っていた。
周囲の荒れ方に似合わない、比較的新しい平屋だった。
屋根には苔がなく、軒下には洗濯物が干されている。
庭先で、白髪の老女が草をむしっていた。
真琴の足音に気づいたのか、老女が顔を上げる。
目が合った。
老女は驚かなかった。
初めから真琴が来ると知っていたような顔で、ゆっくりと立ち上がった。
「こんにちは」
真琴が声をかける。
「少し、お話を伺いたいんですが」
老女は真琴の顔をじっと見つめた。
額。
目。
鼻。
口。
顔の部品を一つずつ確かめているようだった。
やがて、しわの深い口元がわずかに動いた。
「今は、久世さんかい」
真琴の背中に、冷たい汗が浮かんだ。
まだ名乗っていない。
首から下げた社員証も、上着の内側に入れている。
「どうして、私の名前を?」
「名前じゃないよ」
老女は言った。
「名字を聞いたんだ」
「同じことでは?」
「違うよ」
老女は汚れた手を作業着で拭いた。
「名前は一人のものだ。名字は家のものだ」
「私は久世真琴といいます。ウェブメディアの取材で――」
老女の表情が変わった。
目尻が引きつり、口がわずかに開く。
真琴は言葉を止めた。
老女は素早く辺りを見回した。
林道。
杉林。
自分の家。
そして真琴のリュック。
「ここで名前を言うもんじゃない」
低い声だった。
「どうしてですか?」
「聞いてるから」
「誰が?」
老女は答えなかった。
庭先に転がっていた鎌を拾い、家へ戻ろうとする。
「待ってください」
真琴は一歩近づいた。
「名越集落について調べています。昔、この辺りに四十七軒の家があったと――」
老女が振り返った。
「四十六だよ」
「町史にはそう書かれています。でも、集落の出身者が四十七軒だったと」
「四十六だ」
先ほどより強い口調だった。
「四十七軒目なんて、なかった」
「では、返名箱というものをご存じありませんか?」
老女の手から鎌が落ちた。
土に触れ、鈍い音を立てる。
老女の顔から血の気が引いていた。
「どこで、その名前を聞いた」
「十八年前の掲示板です。名越出身の女性の遺品から箱が見つかって――」
「帰りな」
「箱について知っているんですね?」
「帰れ」
「危険なものなら、なおさら情報が必要です」
「帰れ!」
老女の声が山へ響いた。
その直後。
林の奥から、何かが返事をした。
遠く、小さく。
老女と同じ声で。
――かえれ。
真琴は杉林へ顔を向けた。
風はない。
鳥の鳴き声も聞こえない。
静まり返った木々の間を、暗い影だけが伸びている。
「今のは?」
「山彦だよ」
「この地形で?」
「帰りな」
老女は鎌を拾った。
震える手で柄を握り、家の引き戸に手をかける。
閉める寸前、真琴へ言った。
「この先で、誰かに名前を聞かれても答えるな」
「誰かとは?」
「知ってる声でもだ」
引き戸が閉まる。
「それから、家の数を数えるな。中に何人いるかも数えるな」
「箱を見つけた場合は?」
戸の隙間から、老女の片目がのぞいた。
「箱だと思うな」
「どういう意味ですか?」
「あれは、家の入口だ」
引き戸が閉じた。
鍵のかかる音がする。
それ以上、呼びかけても返事はなかった。
真琴は録音機を確認した。
会話は記録されている。
今の林からの声も、入っているはずだ。
イヤホンを片耳に差し、最後の十秒を再生する。
老女の声。
《帰りな》
真琴の質問。
《今のは?》
そこまでは正常だった。
だが、その間に聞こえたはずの山彦だけが録音されていない。
代わりに、別の音が入っていた。
小さな子どもの声。
耳元でささやくように。
《くぜ、まこと》
真琴は再生を止めた。
自分の名前だった。
老女へ名乗った声が、偶然混ざったのかもしれない。
そう考えようとした。
だが、録音された声は真琴のものではない。
老女のものでもなかった。
息を吸う音が近い。
録音機を持つ真琴のすぐ隣で、誰かが話した距離だった。
真琴はイヤホンを外した。
背後を振り返る。
林道には誰もいない。
老女の家の窓は、すべて閉じられていた。
真琴は迷った。
引き返すべきだ。
取材に必要な情報は、ある程度そろっている。
地元住民が返名箱の名前を知っていた。
それだけでも記事にはなる。
危険を冒して、廃集落まで行く必要はない。
理屈では、そう分かっていた。
しかし老女は、箱を「家の入口」と呼んだ。
あの言葉の意味を確認しなければ、結局は都市伝説をなぞるだけの記事になる。
真琴は橋本へメッセージを送った。
《現地住民と接触。集落跡まで確認して、午後三時までに戻ります》
送信済みの表示を確かめ、林道を進んだ。
◇
最初の廃屋が見えたのは、歩き始めて二十分後だった。
屋根の半分が崩れ、柱だけが残っている。
さらに進むと、石垣や井戸の跡が増えた。
雑草に埋もれた家。
土砂に押し潰された蔵。
幹に食い込むほど古い針金。
生活の痕跡が、森に飲み込まれながら残っている。
真琴は地形図に印を付けた。
一軒。
二軒。
三軒。
四軒。
そこまで数え、老女の言葉を思い出した。
――家の数を数えるな。
真琴はペンを止めた。
馬鹿らしい。
家屋の位置を確認するのは調査の基本だ。
老女の迷信に従う理由はない。
それでも、数字を書くことはやめた。
代わりに、地図上へ丸だけを付けていく。
集落の中央付近には、小さな分校跡があった。
木造平屋の建物。
玄関上部に《名越分校》と書かれた板が残っている。
扉は外れており、中へ自由に入れた。
真琴はヘッドライトを点けた。
床板は湿っていたが、廊下は歩ける状態だった。
教室には、錆びた机と椅子が積み上げられている。
壁には時間割が残り、黒板の隅には白いチョークで日付が書かれていた。
六月十八日。
年は分からない。
職員室らしき部屋には、帳簿類が散乱していた。
その多くは雨と湿気で読めなくなっている。
真琴は比較的状態のよい冊子を拾った。
《名越分校・児童名簿》
昭和三十八年度。
紙をめくる。
児童の名前。
保護者名。
住所。
集落の各家に割り当てられた番号。
一番から四十六番まで。
町史の記載と一致する。
四十七番はない。
だが、名簿の最後には、別の紙が貼り付けられていた。
紙質が違う。
古い名簿を切り取ったような、黄ばんだ紙だった。
児童名の欄は空白。
保護者名も空白。
住所欄にだけ、手書きの文字がある。
《四十七番》
その下に、さらに小さな字で書き足されていた。
《名を得るまで、戸を空けておくこと》
真琴はカメラを構えた。
シャッターを切る。
画面を確認する。
貼り付けられた紙は写っていた。
だが、そこに文字はなかった。
白紙だ。
真琴はもう一度撮影した。
結果は同じ。
肉眼では読める。
写真では消える。
「インクの反射?」
独り言が、教室へ響いた。
その瞬間。
廊下の奥で、床板が鳴った。
ぎい。
誰かが体重をかけたような音。
真琴は入口へライトを向けた。
誰もいない。
ぎい。
今度は少し近い。
古い建物だ。
気温や湿度で木材がきしむことはある。
真琴は名簿を机へ置き、廊下へ出た。
正面に、暗い廊下が伸びている。
左右に教室。
突き当たりに昇降口。
ぎい。
ぎい。
音は、廊下ではなかった。
真琴のいる職員室の中。
振り返る。
床の中央。
机の下から音がする。
ぎい。
ぎい。
真琴はライトを向けた。
床板の一枚が、わずかに浮いている。
誰かが下から押しているように。
ぎい。
板が持ち上がり、黒い隙間が見えた。
真琴は数歩下がった。
地滑りで床下が歪んでいるのかもしれない。
野生動物が入り込んでいる可能性もある。
そう考えながら、熊よけスプレーへ手を伸ばす。
床板は、ゆっくりと持ち上がった。
落ちた。
また持ち上がる。
一定の間隔。
まるで、内側から呼吸をしている。
真琴はカメラの録画を開始した。
机を避け、床板へ近づく。
板の端に指をかけようとして、手を止めた。
触る必要はない。
廊下から落ちていた定規を拾い、隙間へ差し込む。
床板を持ち上げた。
下には、浅い収納スペースがあった。
腐った教材。
古い新聞。
ひもで束ねられた帳面。
その中央に、黒いものが置かれている。
木箱だった。
弁当箱ほどの大きさ。
表面は黒ずんでいるが、塗装ではない。
細長い木片を何十本も組み合わせて作られている。
木片の一つ一つには、文字が彫られていた。
榊。
井川。
松代。
戸狩。
名字らしきもの。
削られて読めない文字も多い。
箱というより、無数の表札を細かく切り、組み直したものに見えた。
釘はない。
金具もない。
それでも、四角い形を保っている。
真琴は床下へ手を伸ばさなかった。
カメラのズームを使い、箱の表面を撮影する。
レンズ越しに文字を追う。
榊。
井川。
戸狩。
篠崎。
そして。
久世。
真琴はカメラを下ろした。
肉眼で確認する。
確かに書かれている。
久世。
自分の名字。
彫られたばかりのように、木の色が新しい。
耳障りな音がした。
かり。
かり。
かり。
箱の表面で、木の粉が落ちている。
真琴は動けなかった。
久世という文字の隣。
何もなかった木片に、細い溝が生まれていく。
目に見えない針が、木を削っている。
縦線。
横線。
曲線。
一画ずつ、文字になっていく。
真。
琴。
久世真琴。
フルネームが完成した。
録音機が、勝手に再生を始めた。
《くぜ、まこと》
林道で録音された子どもの声。
《くぜ、まこと》
二度目。
《くぜ、まこと》
三度目。
箱の継ぎ目が、わずかに動いた。
真琴は床板から離れた。
蓋ではない。
老女の言葉が脳裏によみがえる。
――あれは、家の入口だ。
箱の隙間から、冷たい風が吹き出した。
床下からではない。
もっと遠い場所。
湿った土。
煙。
古い畳。
煮物の匂い。
知らない家の生活臭が、細い隙間から流れ出してくる。
その向こうで、食器の触れ合う音がした。
子どもの笑い声。
男の咳払い。
女が誰かを呼ぶ声。
《真琴》
母の声だった。
十年前に亡くなった母。
久世夏子の声。
《そこにいるの?》
真琴の手から、カメラが落ちた。
床へぶつかり、映像が乱れる。
「お母さん?」
口に出した瞬間、箱の中の音が止まった。
しまった。
名前を呼んではいない。
だが、返事をしてしまった。
箱の継ぎ目が開く。
ほんの数ミリ。
隙間の向こうに、暗い廊下が見えた。
小さな箱の中に、人が立って歩けるほどの廊下が続いている。
裸電球が一つ、揺れていた。
その下に、女が立っている。
白いブラウス。
紺色のスカート。
真琴が子どものころ、母がよく着ていた服。
女は背中を向けている。
「お母さん」
今度は意識して呼んだ。
女の肩が動いた。
ゆっくりと振り返る。
顔が見える前に、真琴は床板を蹴り落とした。
箱が隠れる。
暗い隙間が閉じる。
床下から、激しく板を叩く音がした。
どん。
どん。
どん。
《真琴》
母の声。
《開けて》
どん。
どん。
《ここが、あなたの家でしょう》
真琴はカメラを拾い、職員室を飛び出した。
廊下を走る。
背後で床板の割れる音がした。
振り返らない。
分校を出る。
外は、来たときより暗くなっていた。
腕時計を見る。
午後一時十四分。
まだ一時間も経っていない。
それなのに、山の向こうへ日は沈みかけている。
真琴は林道を走った。
廃屋の間を抜ける。
石垣。
井戸。
崩れた蔵。
来た道を戻っているはずだった。
だが、景色が違う。
行きには見なかった家がある。
屋根も壁も新しい。
窓から明かりが漏れている。
中では家族が食卓を囲んでいた。
父親。
母親。
子どもが二人。
全員が真琴を見ている。
次の家にも明かりがついていた。
さらに次の家にも。
廃集落だったはずの名越に、生活が戻っている。
夕食の匂い。
風呂を沸かす煙。
テレビの音。
自転車で走る子ども。
道端で話す女たち。
真琴が通り過ぎるたび、全員が会話をやめた。
顔だけをこちらへ向ける。
「真琴ちゃん」
誰かが呼んだ。
「おかえり」
別の声。
「遅かったね」
「お母さんが待ってるよ」
「四十七番のおうちだよ」
真琴は答えなかった。
走り続けた。
家を数えるな。
老女の言葉を思い出す。
視界の端に家が並ぶ。
数えない。
数えてはいけない。
だが、頭の中で数字が浮かぶ。
四十三。
四十四。
四十五。
やめろ。
四十六。
その先。
林道の曲がり角に、一軒の家が建っていた。
真新しい家。
玄関脇に、表札がある。
《久世》
玄関の扉が開いた。
母が立っていた。
十年前に棺へ納めたときと同じ顔で。
「真琴」
母は優しく笑った。
「おかえりなさい」
真琴は目を閉じた。
母の横を走り抜ける。
背後で、母が叫んだ。
「待ちなさい!」
声が変わる。
母ではない。
子ども。
男。
老女。
何十人もの声が重なっている。
「名前を置いていきなさい!」
真琴は走った。
肺が焼ける。
足がもつれる。
それでも止まらなかった。
気づくと、通行止めの標識が見えていた。
その向こうに、自分の車がある。
真琴は運転席へ飛び込み、ドアをロックした。
エンジンをかける。
バックミラー。
後部座席。
誰もいない。
林道の奥にも、人影はない。
名越の家々は消えていた。
杉林があるだけだった。
真琴は車を発進させた。
途中、老女の家の前を通った。
立ち寄らなかった。
窓の内側から、老女がこちらを見ていた。
その顔は、泣いているように見えた。
◇
麓のビジネスホテルへ着いたのは、午後六時を過ぎてからだった。
真琴はフロントで名前を告げた。
受付の若い女性がパソコンを操作する。
「久世真琴です。予約しているはずですが」
「少々お待ちください」
女性は画面を見つめ、首をかしげた。
「久世様では、ご予約が見当たりません」
「予約サイトから取りました。確認メールもあります」
スマートフォンを取り出す。
メールを表示する。
予約者名。
《名越真琴》
真琴は息を止めた。
「こちらのお名前でしたら、ご予約がございます」
受付の女性は言った。
「なごし・まこと様」
「違います」
「はい?」
「私は久世です。名越ではありません」
「ですが、身分証明書のご提示をお願いできますか?」
財布から運転免許証を取り出す。
顔写真。
生年月日。
住所。
そして氏名。
《名越真琴》
真琴は免許証を落としかけた。
昨日までは、間違いなく久世真琴と書かれていた。
社員証を確認する。
名越真琴。
クレジットカード。
名越真琴。
銀行口座。
名越真琴。
「お客様?」
「……すみません。少し、疲れているみたいです」
部屋のカードキーを受け取り、エレベーターへ向かった。
扉が閉じた瞬間、橋本へ電話をかけた。
三回目の呼び出しでつながる。
『はい、地層編集部です』
「橋本さん、私です」
『どちら様でしょうか』
「久世です。久世真琴」
沈黙。
『申し訳ありません。久世という者は、うちには在籍していませんが』
「何言ってるんですか。今日、位置情報も送ったでしょう」
『今日?』
「名越集落の取材です。十八年前の掲示板。返名箱」
電話の向こうで、キーボードを叩く音がした。
『返名箱の記事なら、来月から始める予定ですが』
「私が企画書を書いたんですよ」
『企画書を書いたのは……名越さんですね』
真琴は言葉を失った。
『あの、名越さんご本人ですか?』
電話を切った。
エレベーターの壁にもたれかかる。
スマートフォンの連絡先を開く。
登録されている名前が、いくつも変わっていた。
橋本編集長。
高校の友人。
大学の同期。
そして、連絡先の一番上。
《母》
削除したはずの番号だった。
母が亡くなってから、十年。
解約され、別の利用者へ割り当てられているはずの番号。
未読メッセージが七件届いている。
《真琴、今どこ?》
《夕飯できてるよ》
《今日は煮物にしたから》
《山は暗くなるのが早いよ》
《迷ったら名前を呼んで》
《お母さんが迎えに行くから》
最後の一件は、音声メッセージだった。
再生する。
ノイズ。
食器の音。
遠くで鳴る古いテレビ。
母の声。
《真琴。箱を持って帰ってきたでしょう》
真琴はリュックを見た。
分校で箱には触れていない。
床下から取り出してもいない。
カメラと録音機以外、何も持ち帰っていない。
音声は続いた。
《四十七番の家を、空けたままにしないで》
エレベーターが到着した。
扉が開く。
真琴はリュックを抱え、部屋へ急いだ。
鍵をかける。
チェーンもかける。
カーテンを閉じる。
リュックをベッドの上へ置いた。
すぐには開けなかった。
まず録画を確認する。
分校。
児童名簿。
床板。
返名箱。
映像には、確かに箱が写っている。
久世真琴と刻まれていく文字も残っていた。
だが、箱の蓋が開いた場面。
そこに母はいなかった。
箱の中には、暗い廊下だけが映っている。
そして映像の中の真琴が、誰もいない廊下へ向かって何度も呼びかけていた。
「お母さん」
「お母さん」
「お母さん」
映像の真琴は、笑っている。
現地で自分が笑った記憶はない。
真琴は動画を閉じた。
古いスレッドを開く。
十八年前の最後の書き込み。
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283:名無しの迷い人:2008/08/15(金) 05:13:01
母さんの実家があった村が分かった。
箱を返しに行ってくる。
ここから車で二時間くらい。
明るくなったら出る。
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画面下部に、見覚えのない表示が出ている。
《新着レス:1件》
真琴は更新ボタンを押した。
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284:名無しの迷い人:2026/07/19(日) 23:48:11
久世真琴が返名箱を見つけた。
まだ蓋は開けていない。
明日は開ける。
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真琴は画面右下の時計を見た。
午後十一時四十七分。
書き込み時刻まで、まだ一分ある。
その瞬間。
ベッドの上で、音がした。
かり。
かり。
かり。
リュックの中で、硬いものが布を引っかいている。
真琴は動けなかった。
かり。
かり。
音が止まる。
代わりに、木の蓋がずれる音がした。
こと。
母の声が、リュックの中から呼んだ。
「真琴」
スマートフォンの時計が、午後十一時四十八分に変わる。
「ただいまって、言いなさい」
――第一怪「返名箱」第一話・了
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
『怪談の住所を探しています。』第一怪「返名箱」でした。
ネット上に残された怪談を手がかりに、その舞台と思われる土地を巡る現代ホラーです。掲示板怪談らしい空気を大切にしつつ、作中の怪異・土地・風習・人物はすべてフィクションとして制作しています。
箱には触れていないはずの真琴。
それでも、箱は彼女のもとへやって来ました。
果たして返名箱は、何を「返そう」としているのか。
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次話もよろしくお願いいたします。




