六
花子ちゃんのことについていろいろ思いを巡らしているうちに、多少時間も経過していたようである。下校する小学生の姿は未だちらほら見られた。ふと、店の出入り口付近で母がこちらに懸命に手を振っているのに気づいた。僕が母の方に視線を向けると、母は店の駐車場の方を指差し、それからこっちに来いと手招きするような身振りをした。車をさっさと駐車場にとめて店に入って来いと伝えていることは明白だった。幾分苛立っているのか、眉間には若干不機嫌の縦皺が寄っているのが分かる。幼い頃から実によく見慣れた母の表情である。こうなったらもう行くしかなかった。すでに駐車場が空いていたのには気づいていたのだが、僕は今そのことに気づきましたといわんばかりの大げさなリアクションを取り、ウォークマンのイアホンを耳から外し、車を駐車場に入れるべくエンジンをかけてハンドルを握った。母は車の方に寄ってきて、バックで駐車場に入れようとしている車のすぐ真後ろで誘導を始めた。こんな風に車のすぐ真後ろに来られると、轢いてしまいそうで余計にやりづらくてかなわないので、僕はブレーキをかけ窓を開けて少々声を荒げながら「危ないから真後ろに来ないで!」と叫んだが、母は若干距離を取りつつも、しきりに手を振り、構わず誘導を続けようとする。相変わらずその眉間には縦皺が寄っている。僕は仕方なしに再度ゆっくりゆっくり細心の注意を払い、アクセルとブレーキを小刻みに交互に踏みながら、やっとの思いで駐車場に車をとめた。
車から出るや否や、「すぐ真後ろに来られると危なくてかえってやりずらいから!」と怒り口調で母に言った。これは、車でぼんやりしていたことを咎められると思って、母の怒りを挫くべく先制攻撃を仕掛けておこうという姑息な意図もあった。母はそんな僕の先制攻撃をあっさり受け流した。
「あんた車で何してたの。駐車場が空いたらすぐにとめて来るって言ってたでしょう」
「いや、まあ、……駐車場が空いてるのに気づかなかったんだよ」
僕は早くもしどろもどろになりながらそう言い訳した。
「目の前なのに気づかないなんてないでしょう。もういいから早く入りなさい。コーヒー冷めちゃうから」
結局、僕は母に追い立てられるようにして、渋々店の中に入って行った。店の中に入るや否や、焙煎したての香ばしいコーヒー豆の匂いが嗅覚を大いに刺激した。店に入ってすぐ左側に会計カウンターがあり、店のマスターが立っていた。マスターは四十代くらいの眼鏡をかけた背の高い細身の男性で、僕が店に入ると心得顔で愛想良く「どうぞー。ゆっくり飲んでいってください」と声をかけてきた。会計は豆を焙煎する前に済まされていたようだ。僕は「どうも」と照れ笑いを浮かべてそれに応え、店の奥のカウンターへとそのまま進んでいった。店の中にいる客は僕と母だけになっていたので、少し安堵の心持ちで席に着いた。カウンターテーブルには、乳白色の小さなコーヒーカップに注がれたコーヒーと、数枚のクッキーが小さなお皿に並べられ用意されていた。
「もう冷めちゃってるよ」
母はカウンターの椅子に腰を下ろすと、僕に対しての当てつけのように不満げに言い、コーヒーをゆっくり啜った。
「美味しい。まだ暖かいわ。あんたも早く飲みなさい」
母に促されるままに僕はコーヒーを啜った。
「美味しいでしょう?」
僕の様子を見て母はそう言った。キャラメルコーヒーというフレーバーコーヒーの一つらしく、コクのある甘いキャラメルの香りが心地よく鼻を突きぬけて行く。とても美味しかった。僕は黙ってうなずいた。
「これ美味しい。今度来たときはこれ買おうかな」
母はそう言いながら、クッキーもつまんだ。その日は店の月一度の感謝デーということで、コーヒー豆に限って幾らか割引してくれたようだ。さらに、店のポイントカードもポイントで一杯になり、五百円の割引まで利いた。その日、母はポイントのことは頭に無かったらしく、思いがけない利得に幾らか機嫌良くなっていたようだった。
少し経つと「いらっしゃいませー」というマスターの美声が店内に響いた。何気なく出入り口の方を振り向くと、母娘と見られる二人の客が店に入ってきていた。母親と見られる女性の年齢は四十前後だろうか。ショートカットですらりとした少し品のあるきれいな人だった。娘と見られる女の子の方は高校生だろうか。制服姿で、学校帰りにそのまま来たような感じだった。純白のブラウスの上に紺のブレザーと、細かい襞のついた膝上くらいの丈のグレーのスカートを穿いていた。女の子は母親と背格好が似て、すらりとした佇まいで、髪型は黒のストレートのセミロングで、垢ぬけた癖のない端正な顔立ちをしていた。肌はほんのり健康的に日焼けもしており、いかにも若さあふれんばかりに瑞々しく張っていた。僕はふと花子ちゃんに似ていると思った。女の子は母親の後をぴったりくっつくようにして、店内をきょろきょろ見渡すようにして陳列された商品を眺めていた。僕は自分の身体が俄かに緊張で強張ってくるのを意識した。いつの間に自分が足を組み、テーブルに肘をつき、気取った体勢を取っていたのにも気付いた。女の子の方でも、ちらちら向けられる僕の視線に気づいたようで、何となく居心地悪そうなそわそわした様子になり、髪の毛をやたら撫でまわし、時折僕の方にもちらっと不審げに視線を送るようになり、二、三度目が合った。何だか僕はひどく不道徳なことをしてしまったような後ろ暗い気持ちになってきて、それ以後は無関心を装い、女の子の方を余りじろじろ眺めないように気をつけた。今や花子ちゃんも、あれくらいの年頃の娘が居てもおかしくないのだろう。そんなことを考えると、思わずため息が出てしまった。僕の母はそんな僕の様子に気づいたようである。
「まあ、あんたも頑張んなさいよ」
にやにやしながら慰めるような口調でそう言ってくるのだ。
「頑張るって何を?」
僕はむっとしながらも努めてとぼけた調子で返したが、母はにやにやしたままそれ以上何も言ってこなかった。
コーヒーを飲み終える頃、マスターとは別の若い男性店員が、会計カウンターの横の扉から出てきて、コーヒー豆の焙煎が済んだ旨を伝えてきた。すでに店内の客も数名に増えて、少し忙しげな雰囲気になってきていた。先ほどの母娘二人もコーヒー豆の注文を終え会計を済まし、僕と母の居るすぐそばの席に腰を下ろし、コーヒーが運ばれてくるのを待っていた。こうなってくると、僕は完全にいたたまれない気分になってきて、一刻も早く店から出たくなってきた。
「もうそろそろ行こうか」
ついに耐え切れなくなった僕はそう言って立ち上がり、カウンターテーブルに置いてあった引換券を手にして、足早に会計カウンターの方へと向かった。そして、焙煎したてのコーヒー豆を店のマスターから受け取った。とにかく早く店から出たくてたまらなかったが、母は僕のそんな気持ちとは裏腹に、仕方なさそうに悠々と身支度を整え、僕から大分遅れて来た。
僕と母はマスターに見送られながら店を出ると、車に乗り込み、そのまま帰宅の途に着いた。
「あんた、車の中でにやにやしてたわねえ。何か考えてたの?」
帰りの車の中で母はそう訊ねてきた。僕は店の前で母を待っていた時、花子ちゃんとのことを考えながらかなりにやにやしていたようである。
「まあ、いろいろね。……三十年くらい前かな。僕が学校帰ってきたら、隣の女の子が消えちゃったって言ってたことがあったでしょう。覚えてる?」
「そんなことあったっけ?」
「あったんだよ」
母はこの時のことを全く覚えていないようだった。僕は思い切って花子ちゃんとのエピソードを話すことにした。花子ちゃんに少し想いを寄せていたこと、ある時下校時に花子ちゃんの姿が消えるようにして無くなってしまったこと、そのことで花子ちゃんのことを魔法使いだと思ったこと、花子ちゃんが僕から逃げていたのがその真相だと気づいたこと等々話した。そして、最後にこう締めくくった。
「まったく謎なんて真相が分かってしまえばつまらないもんだね……」
どうやら母は、僕の話を異性と全く縁がないことの嘆きとでも捉えたようである。少し慰めるような口調でこう言った。
「まあ、あんたも頑張んなさいよ。これからしっかり仕事も続けて、早く良い人みつけなさい」
さらにこう続けるのである。
「あんた、今度お見合いパーティにでも参加してみたら?」
しんみり思い出話を語ったはずが、何だか急に現実的な方向に話題が転じてきた。最近事あるごとに、市主催のお見合いパーティの参加を母から勧められるのだ。花子ちゃんとの思い出の余韻にしばらく浸っていたかった僕は、今現在の自分が置かれた憂鬱な現実に不本意に引き戻された思いがした。僕はそれに抵抗するようにこう言った。
「絶対やだね。お見合いパーティなんて死んでも行かないから」
その後、僕は正面から容赦なく差しこんでくる西日に目を細めながら、努めて花子ちゃんのことを考えようとしていた。
花子ちゃんとはあれからどうなったのだろうか。僕が思い出せる限りでは、魔法使い疑惑の一件以来、花子ちゃんと一緒に下校することは無くなった。僕が花子ちゃんと一緒に帰ろうとしなくなったのだ。どういうわけか、あの一件以来、花子ちゃんと一緒に帰ろうという気が全く失せてしまったのだ。あの時なぜ突然いなくなったのかということを、花子ちゃんに直接訊くことも出来なかった。これは、もしかしたら、自分が避けられていることを、子どもながらに心のどこかで本能的に感じ取っていたからなのかもしれない。
あれから、僕は下校の際に花子ちゃんがまた消えてしまうのかどうかを確かめたこともあったが、花子ちゃんが消えることはもう無かった。それから間もなく花子ちゃんは父親の仕事の都合で転校していった。花子ちゃんとのことは、そのまま記憶の奥底に埋もれて行き、三十年後の今に至る。
至って月並みな見解ではあるが、えてして謎というものは、その真相が分かってしまえば案外つまらないものなのかもしれない。大人になっていくにつれ、なーんだ、そういうことだったのか、ということも増えてくる。実に味気ない思いでいっぱいである。ただ、謎が解けると共に意外な発見をすることもある。花子ちゃんとのエピソードでも、一つだけ僕にとって少し意外な発見があった。何のことは無いが、それは幼い頃は案外自分も色恋に積極的だったということである。それは、今の僕から見るとなかなか羨むべきことである。




