四
三十年前、僕は小学一年生だった。父は転勤が多く、僕は小学生時代に二度転校している。小学一年生の頃は、父の勤める会社の社宅が一家の住まいだった。社宅はアパートタイプの集合住宅で、A棟、B棟、C棟と三つの棟に分かれていた。建物は鉄筋コンクリートで、側壁はA棟が白色、B棟とC棟はクリーム色に塗られていた。規模は、A棟は四階建で戸数が二十四戸あり、B棟とC棟は三階建で戸数は十八戸で、A棟よりやや小さかった。僕の一家の住いはC棟の二階だった。勿論、社宅に住んでいる人達は皆同じ企業に勤めており、家族同士の付き合いもけっこう新密で、社宅内は一つの小さなコミュニティのようだった。社宅内の子ども達も皆同じ小学校に通っていた。小学校は社宅から近く、徒歩で三分程の距離だっただろうか。社宅の敷地内には広さが二十平方メートル程の公園も設けられていたのだが、そこから校舎を見ることも出来た。
一方、花子ちゃんの住いはというと、社宅から小学校を挟んで、さらに数百メートル程離れた場所にあり、緑と白がおしゃれに配色された七階建ての小綺麗な高級マンションだった。
花子ちゃんのことは小学校に入学してからすぐに意識するようになった。一目見て、クラスで一番可愛いと思ったからだ。目はやや切れ長で一重のきつね顔の美人だった。髪はセミロングで、前髪は眉の下あたりできれいに揃えられ、髪質は黒くサラサラで艶があった。肌は少し地黒だっただろうか。声は高めで、はきはきと話す印象で、笑い方に少し特徴があった。どことなくお嬢様っぽく、育ちの良さそうな身のこなしで、丈が長めの紺か黒のワンピーススカートを穿いていたというイメージがある。背丈は僕と同じくらいだっただろうか。その年代としては標準的で高くも低くもなかったと思う。
花子ちゃんと席が隣になったのは、二学期の初めに行われた席替えの時だった。席の位置は前から二番目の黒板に向かって少し右寄りの辺りだったと思う。席替えしてしばらくは、子どもながらにも緊張し、花子ちゃんとはすぐには打ち解けて話せなかった。
席替えをして間もない頃の、よく覚えている場面が一つある。花子ちゃんは僕の左側に座っていたのだが、ある時、休み時間が終わり、先生が教室にやって来るまでの間、花子ちゃんは僕の方に背を向けて、友人とおしゃべりしていた。僕は花子ちゃんの後ろ姿に見惚れていたのだが、不意に花子ちゃんは僕の方を振り向き、目が合った。僕はすぐに目をそむけ、何食わぬ顔を繕ったりしたのだが、子どもながらにドギマギしたものだ。
もう一つ、花子ちゃんに関してよく覚えている出来事がある。同じクラスに、遠藤さんという花子ちゃんと親友の女の子がいた。ちなみに、花子ちゃんは苗字よりも下の名前のイメージが強くそれで記憶しているのだが、遠藤さんは何故か苗字のイメージが強い。目がぱっちりと大きく、どちらかというと狸顔だった。声は花子ちゃんよりは低めで、髪型はいつもポニーテールで、服装は黄色などの明るい色のものが多かったというイメージがある。性格はおっとりとしたお人好しな感じの明るい女の子だったと思う。その遠藤さんと花子ちゃんは、休み時間など、いつも一緒に仲良くつるんでいたのだが、ある時大喧嘩をしたことがあった。原因は工作用の糊の容器の蓋だった。二人は仲良くお揃いの物を使っていた。図工の時間も、二人は遠藤さんの机で一緒に作業をすることが多かったのだが、ある時、糊の容器の蓋が一つ無くなってしまったのだ。その事に気づいた二人は、最初は一緒に無くなった蓋を探していたのだが、次第に無くなったのはどっちの方かで揉め出したのである。お互い無くなったのは相手の方だと主張してなかなか譲らなかったが、最終的には花子ちゃんが折れた。この時の光景は今でもはっきり思い出せるのだが、喧嘩の後、花子ちゃんは糊がこぼれないように容器の先をティッシュペーパーで覆うように被せて、外れないように輪ゴムで縛ったのを僕に見せ、「もう、いいの。絶交するから」と悲しそうに呟くようにして言ったものだ。
喧嘩の後、二人は少しの間冷戦状態だったが、すぐに仲直りをした。結局、無くなった蓋は遠藤さんが持っていたらしく、そのことを花子ちゃんに謝り、蓋を返してくれたというのだ。後日、花子ちゃんが「やっぱり持ってたんだって」と、嬉しそうに事の顛末を僕に語ってくれた。
糊の蓋事件があった頃には、僕もすっかり花子ちゃんと打ち解けて話すようになっていた。当時の僕は、まだ自分の気持ちを恋愛感情として自覚するには幼すぎたと思うが、花子ちゃんへの好意はある程度自覚はしていたと思う。花子ちゃんの事が気になって仕方なく、体育の時間なども、花子ちゃんばかり見ていた気がする。ただ、やはり、あまり異性に対しての好意をあからさまに見せると、クラスの悪ガキどもに見つかり、どれ程冷やかされるのか分からないので、子どもながらに誰にも気づかれないように努めていたと思う。
僕はとにかく花子ちゃんの傍に居られることが嬉しかった。いつも一緒に居たかった。学校が終わり、花子ちゃんと離れ離れになるのが寂しかった。そのうち、そういう気持ちが抑えられなくなり、僕は花子ちゃんと下校も共にするようになった。確かに僕は、今しがた車から見かけたあの男の子と同じように、花子ちゃんの住いであるマンションの近くまで行ってから、元来た道を引き返し、学校の傍を横切り、急いで家路につくということをしていたのだ。引き返すときは、どこか後ろめたさも感じていたのか、やたら急ぎ足になったことも覚えている。あるいは、こういうことはあからさまにやれば、とにかく悪ガキどもがうるさいから、僕なりに慎重になっていたのかもしれない。学校が終わると、少し離れて花子ちゃんの後を付いて行き、花子ちゃんが一人になるタイミングを見計らって近づくのである。大抵そんな風にして花子ちゃんと一緒に下校したのだ。
花子ちゃんと一緒に下校していた時の印象的な場面が一つある。その日、花子ちゃんはやけにはしゃいでいる様子だったのを覚えている。いつものように花子ちゃんの住いであるマンションの傍まで来たのだが、そのとき花子ちゃんは僕にこう言ってきたのだ。
「ねえ、今日花ちゃんちにおいでよ」
その誘いに、僕はこう突っ張って応じたものだ。
「えー、行かねーよ」
勿論、これは強がりである。花子ちゃんの誘いに小躍りして喜びたい気持ちだったのは言うまでもなかった。こんな僕でも、人並みに男の子らしく、男子たる者妄りに女子の誘いに乗ってはならぬという気持ちがあったのかもしれない。照れ隠しというのもあったであろう。あるいは、花子ちゃんの家に寄って帰るのが遅くなりでもすると、母から大目玉を食らうという恐れもあったのかもしれない。
こんなことがどれくらい続いたのだろうか。多分、そんなに長くはなかったと思う。せいぜい二週間くらいだったと思う。花子ちゃんと一緒に下校するのは毎日ではなかった。僕にも友達付き合いというものがあったし、そう毎日毎日花子ちゃんと一緒に帰っていると、いつかそのことが友達やクラスの悪ガキどもにもばれてしまい、まずい状況になるからだ。こういう事は、格好のからかいの対象、それどころかいじめの対象にすらなりかねず、それは当時の僕にとっては死活問題だったはずだ。それでも、僕はなるべく機会を窺い、人目を忍ぶようにして花子ちゃんと一緒に帰ろうとした。
しかし、そんな僕にとっては好きな人と二人きりになれる至福の時間も、ある出来事がきっかけで突然終止符が打たれた。そして、その出来事というのが、当時僕が、花子ちゃんは魔法使いなんじゃないかと思うようになった花子ちゃんのある行動だったのだ。




