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 タイトルの花子ちゃんとは、三十年前の僕が小学一年生の頃、同じクラスで席が隣になったことのある女の子のことである。まずは、その花子ちゃんの事を思い出した経緯から書く。


 一年半ほど前、僕は勤めていた会社で派遣切りに遭った。すっかりまいった僕は、仕事も探そうとせず、投げやりにその日その日をやり過ごしていた。だが、貯金もすぐに底をついたため、結局、それまで独り暮らしをしていたアパートを引払って実家に戻ることにした。現在は実家で両親と三人で暮らしている。父は既に定年退職をしており、両親は年金暮らしである。ただ、母は趣味の延長で、近所にある着付け教室を少し手伝っている。小遣い程度の稼ぎはあるようだ。僕は、実家に戻ってからは、ホームヘルパーの資格を取って、地元の通所介護施設で働くようになった。何故介護の仕事に就こうかと考えたのかと言えば、特に大した理由は無い。それまでだらだら適当に生きてきて、もう若くもないのに何のキャリアも専門性も無い僕を、ちゃんと雇ってくれそうな職種など他に無いように思えたからである。特に介護に関心があったわけでも、困っている人の役に立ちたいなどという立派な考えがあったわけでもない。むしろ、出来ることなら、一番就きたくない職種と考えていたくらいだ。仕方なしに……。それが正直な所である。誇りを持ってこの仕事をしている方たちには、実に申し訳ない限りである。

 そんないい加減な気持で臨んだ罰が当たったのか、仕事に就いてしばらくは死ぬほど辛かった。初めての慣れない介護の現場では、まさに戸惑いの連続だった。利用者への声掛けのタイミング、その際の声の大きさ、トイレ介助、入浴介助、送迎時の運転等々、全ての業務に関して、やることなすこといちいち要領を得ず怒られてばかりなのだ。想像を超える己の余りのポンコツ振りに、これはいよいよ自殺しかないのではと、本格的に思い詰めたこともあった。しかし、何とかクビにもならずに続いている。最近、ようやく仕事にも少しずつ慣れ始め、何とかしばらくはこのまま頑張れそうかな、といったところなのである。

 基本的に、介護関連の仕事は祝日や土日などは関係ないが、通所系の介護施設は、日曜日が休みのところが多いようである。僕の勤めている施設も、日曜日が休みで、一週間の内で休みを取れるのは、日曜日と平日の一日という具合になる。そして、花子ちゃんのことを思い出したのも、そんな平日の休みの日だった。


 その日、僕は母と一緒にある店へ出かけた。その店は僕が住んでいる市の中心街にあり、コーヒー豆を中心に売っている小さな店である。そこでは、世界各国のコーヒー豆の産地から、様々な種類のコーヒー豆を取り寄せていて、コーヒー豆を客の好みに応じて、色々な組み合わせや配分でブレンドし、注文してからすぐにその場で焙煎してくれる。購入を決めると、コーヒー豆を焙煎している間、店内に設置されているカウンターで、挽き立てのコーヒーを無料で飲ませてもらえる。コーヒーだけでなく、ちょっとしたお茶菓子も食べられて、なかなか豊かな気分を味わえるのだ。店内はよくあるコンビニエンスストアの半分くらいの広さだろうか。大きな棚が、真ん中と両端に設けられ、コーヒー豆以外にも、紅茶、ココア、クッキーやスコーンなどの菓子類が、所狭しとばかりに、天井近くまで積み上げられるようにして陳列されている。店の片隅には、数名ほどが座れるカウンターのある小さなスペースが設けられていて、コーヒーがそこで飲めるようになっている。

 店は市の中心街の大通りから少し外れた所にある。民家が密集する路地の入り組んだ所で、向かい側には小学校のグランドがある。店構えは少々地味で、周辺には一方通行の路地も多く、車で初めて行く場合は、店に辿り着くまでに少し苦労するかもしれない。店の専用の駐車場はあるにはあるのだが、三台しか停められない上に、スペースがぎりぎりで、車で行くには決して便利とは言えない。しかし、なかなか評判の店らしく、同県内に、他にも数店舗ほど展開しているそうだし、わざわざ遠方から車で来る客も少なくないようである。

 僕の両親は二人とも質素倹約が趣味のような慎ましい人である。普段飲むコーヒーも基本的にはインスタントである。しかし、最近は歳のせいか、少しはぜいたくして良い物も口にしたいと思うようになったらしい。時々は家で本格的なコーヒーの味も楽しもうということで、数年前から、その店にコーヒー豆を買い求めに行くようになったのだ。

 実家は市の中心街から大分外れた地域にあり、その店までは車で三十分ほどかかる。普段は父と母が一緒に車で買いに行くことが多く、偶に僕がそれに付いていくという感じだろうか。車の運転は主に父がしている。しかし、その日は父が大学時代の同窓会の集まりがあるとかで、朝から家を空けていた。たまたま仕事が休みだった僕が、車の運転手として同行してほしいと母から頼まれたというわけである。一応母も車を運転出来るのだか、運転があまり得意でない母は、中心街の一方通行の多い路地が入り組む場所での運転は不安ということで、運転を僕に頼んだというわけである。


 余談だが、母だけでなく、父も僕も車の運転は決して得意ではない。まず、運転した時の乗り心地が最悪らしい。父の運転する車の乗り心地に関しては、僕もよく知っている。加減速がスムーズでなく動きがカックンカックンなのだ。母はあまり気にしないようだが、僕は三十分も揺られていれば、体調次第では確実に車酔いをする。エンジンブレーキをやたら効かせたがるせいか、特に減速時のカックンカックンした動きがひどく、そのリズムの不規則さが絶妙な不快さで僕の三半規管を刺激する。そんな運転でも、当の本人は省エネを心掛けた運転をしているとかで得意満面だから、それがまた余計に腹が立つ。

 しかし、僕もそんなに人の事は言っていられない。父の様には絶対になるまいと思い、運転の際はカックンカックンを出来る限り避け、スムーズな加減速を心掛けているつもりのだが、どういうわけか、かなりの確率で同乗者が車酔いするのだ。通所介護施設での仕事では、施設の利用者を車で送迎する業務もあるのだが、僕の運転は施設の利用者からも職員からも不評のようだ。乗り心地が悪い上に、どこか頼り無さ気でまどろっこしくて苛々するそうだ。そのため、運転する人手が間に合っているときは、送迎の添乗や施設の清掃などの業務に回されることが多い。

 駐車も下手くそである。父も母も僕も、一度で駐車スペースにきれいに車を停められた例が、ほとんどないのではないだろうか。縦列駐車などはまず不可能だろう。

 数年前、家族で初詣に出かけた時もこんな事があった。神社の駐車場の少し入り込んだ狭いスペースにバックで停めようと、父と僕が交代でハンドルを握って悪戦苦闘していたのだが、どうしても上手く行かず、結局、業を煮やした駐車場の誘導員が代わりにハンドルを握るという事態になったのだ。

 ようするに、一家揃って車の運転が下手なのである。それでも、大した事故も起こさず、父と僕などは、一応はゴールド免許証の所持者として無事にカーライフを送っているのだから、何も特別に恥ずかしがることもないのかもしれない。まあ、安全が第一ですから。

 ところで、車の運転な下手な男性はセックスも下手だと戯れによく言われる。父や自身を顧みる限り、それはあながち間違いではないように思える。父はともかく、少なくとも僕がセックスを含む色事全般に関して不器用なのは確かだろう。女性に対してマメで気の利くようなタイプでは全くない。車の運転から察するに、おそらく僕という男は、女性にとって極めて安全で無害ではあるが、セックスが下手くそで気の利かない、何の色気も面白味も無い存在と言ったところだろうか。とはいえ、こんな僕でも、最近になって、多少はましになったと自負している。職場を通じて、時々メールのやり取りをしたり、偶に食事や飲みに行ったり出来るような女友達も二、三出来たのだ。残念ながら、僕はほとんど異性としては見られていないようなのだが、それでもこんなことは人生で初めてである。これは僕としては世間に喧伝して回りたい程の大快挙なのである。まあ、実感としては、女性とも以前ほど気負わずに自然に関われるようになってきたというのはある。それは、この一年足らずの間、女性の多い職場で揉まれたせいでもあるのかもしれない。

 何故こんなことを言いだしたかというと、これから語る花子ちゃんの話に、多少関係すると思われたからである。


 運転が下手でおまけに色事に疎い僕であるが、母から運転手に指名されるという名誉に与っても、さして有難くはなかった。普段の仕事で疲れ果てている上に、出不精な僕は、何もない日は出来れば部屋に引きこもっていたい方なので、とにかく面倒で仕方なかったのだ。加えて、そろそろ四十も間近になろうという大の男が、未だ結婚もせず、恋人もおらず、このように母と二人でお出かけする事が少々気恥ずかしいとの思いもあった。日を改めて父の運転で行けば良いのではないかと、母にも提案してみたのだが、その日だけの割引があるとかで、どうしてもその日でなければならなかったようだ。僕は全く気が進まなかったが、断る理由も特に見つからず、ぶつくさ文句を並べながらも、母と一緒にコーヒー豆を買いに行くはめになったわけである。

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