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8.入り婿と不機嫌な奥方様

 朝。目を覚ましたら、抱き枕になっていた。


 いや。比喩ではなく、この状態はそう表現するのが正しいであろう。

 ユクシャはいつもの時間、いつものように起床しようとしていたのだ。

まあ、直ぐに起き出さないのはご愛嬌。

 寝汚いのではなく、この時間に起きるのに慣れていないユクシャは不明瞭な声を出しながら、夢現を抜け出そうとして――はたと気付く。

 身体が動かせないのだ。


 何故だろうか。


 違和感に知らず知らず眉根が寄って、瞼を閉じたままの顔が顰められる。

 金縛りの様にぴくりとも動かないのではない。手も、足も、動く。しかし、どこか動かし辛い。


 ユクシャは瞼を押し上げる。

 まず、目に入ったのが。踏めば、ずぶずぶと足が沈む毛足の長い絨毯。

 これは昨夜眠る直前まで見ていたのとほぼ同じ。つまり、寝台の端から位置は変わっていないらしい。


 さて、問題となるのが――掛け布の中。


 ユクシャは静かに掛け布を持ち上げ、ぎょっと目を剥いた。


「なっ、な、ななな、なんっ…!?」


 言葉にならない声を発する。


 いや。だって。


 腕が。背中から生えた腕が、お腹の前で手を組んでいるのだ。

 誰の目からも控えめに見て――すっぽりと掛け布に潜り込んでいるのでカナリーの姿は見えないのだが――も、これは後ろから抱き締められている。

 通りで背中がぽかぽかと暖かい訳だ――ではなくって。

 口元をひくつかせ、次の瞬間には大絶叫していた。


――カ、カ、カナリー様っっっあああ!!


 但し、心の中で。


 混乱ここに極まりたり、といった様子のユクシャの声にならない呼び掛けなど、夢の世界のカナリーに伝わる事はない。

 ユクシャからは見えないが、健やかな寝息をたてるカナリーは薄ら笑みすら浮かんだ寝顔だ。


 しかし、まあ、この状況は。

 背後から抱き締められているが、色気のあるものではない。寧ろ、抱き枕よろしく抱きつかれている、と言った方が正しいのだろう。


 状況を正しく理解するよりも状態の打破が何よりも先決である。


 ほら、心臓もバクバクと煩いし。


「申し訳ありません。…ほんの少しだけ、ですから」


 ユクシャは聞こえる事のない断りを入れてから、躊躇いがちに腹部の上のカナリーの手に触れる。

 このまま、そっとカナリーの手を外せばいいのに、何故かユクシャの手は何もせずに離れてしまった。

 そして、ユクシャの顔は茹だった蛸のように真っ赤に赤面していた。

 考えてみれば、妙齢の女性の手に触れる機会等ついぞなかったのだ。

 緊張のあまり覚えていない様だが、実は二度目の触れ合いでその事を意識してしまったユクシャなのであった。


 カナリーの手は。

 弟妹の小さく丸っこい、頼りない子供のそれとも違う。

 柔らかくて滑らかで、しかし、ユクシャよりも小さくて、子供とは違った意味でどこか頼りなくて――。


「…んー…」


 カナリーが唸って、何やら身体をもぞもぞと動き出す。これはもしかして、起き出してしまうのだろうか。

 今は色々考えている場合ではないとユクシャは慌てふためいて、カナリーの手を外しに掛かる。

それに躊躇いがない訳ではない。心臓の高鳴りもさっきよりも酷い。

 物理的にはさほど苦労する事なく、カナリーの拘束から抜け出すと、ユクシャは寝台から転がるかのように下りた。

 普段が抜き足差し足である事も忘れ、ユクシャだけの寝室にそれこそ飛び込む勢いで入って行った。


 遠慮なしの動作で派手な物音が多々あったというのに、掛け布の中の塊は小さく上下を繰り返すのみ。

 どうやら先程のは寝言であったらしい。

 そこにすら気を配る余裕のないユクシャは自身の寝室の扉に背を預けたまま、ずるずると座ってしまう。

 自然と下に落ちた視界に裸足の足が映る。あまりにも急ぎ過ぎていて、靴を履くのを忘れていた。とはいえ、今更、靴のために戻りたくない。


 今までで一番心臓に悪かった。まだ、十日も経っていないけど。

 一体なんで。何がどうしてこんな状況になったのか。

 カナリーだって寝ぼけて抱きついたのだろう。意識してやっていたなんて事はきっと無い――はず。そう思いたい。


 ユクシャは思わず、大きく息を吐き出した。


「はぁ~…」


 寝起きから体力を根こそぎ奪われてしまった。


 この時は分からなかった理由だが、日課を終わらせた後の朝食の席で判明した。

 領主夫婦は和やかな会話をし、若夫婦は時折ぼそぼそと言葉一つ二つと交わす。

 一体どちらが新婚なのやら。そんな中で。


「そういえば、夜半から今朝方は少し寒かったけど。しっかりと暖かくしていたかしら?」


 ニフリートがそう言ったものだから、ユクシャは口の中の物を吹き出し掛けた。寸前で止めたものの無理をして飲み込んだので、噎せる羽目になってしまった。

 ニフリートは悪くない。妻として、母として、家族の体調を気遣っただけ。

 朝の事件――最早ユクシャの中では事件である――を勝手に連想してしまったのはユクシャである。

 なかなか治まらない咳き込みに苦しむユクシャだったが、合点がいった。

カナリーは寒さに暖を求めた故の行動だったのだ。


「もう何をしてるのよ」


 耳まで赤く――苦しさからではないが――して、激しい咳を繰り返すユクシャを見兼ねたカナリーが背中をさする。

 優しい手付きに、次第に咳も落ち着いていった。


 噎せたのは苦しかったが、噴き出さなくて良かった。

 まあ、食事自体は終わって、食後のお茶を楽しんでいたのだが。

 見事な刺繍の施されたテーブルクロスに染みを作る事にならなくて、本当に良かった。


「ありがとうございます。もう、落ち着きました」

「そう。なら、良かった」


 ユクシャの礼にカナリーの手が離れていく。

 心配そうなロベルトとニフリートにも小さく頭を下げたユクシャは疑問を覚える。

 それを隣のカナリーにぶつける。


「どうしたのですか?」

「何が」

「いや、あの。お仕事、です。のんびりされてますが…?」


 いつものパターンなら、食後のお茶を一気飲みして早々に仕事の用意のために食堂を後にするのに。

 本日のカナリーは随分とのんびりとお茶を味わっている。


「休みなのよ!別にいいでしょっ」


 何故なのか、カナリーは耳障りな音を出しながら、ティーカップを置いて食堂を出て行ってしまった。扉の閉め方も些か乱暴であった。


「…あれ?」


 怒らせてしまったらしい。

 しかし、今の会話の何処にそんな要素があったのだろう。


「怒った?」


 思わず、漏れるユクシャの声に、反応を返したのはロベルトで。


「ユクシャ君、気にする事はないからね」


 そう言われても怒らせたのがユクシャなのは明白。

 気にするな、という方が無理である。


 午前の勉強の時間も、図書室で宿題を片付けていても、休憩中も昼食時も勿論。

 何をやっていても常に考えていた。上の空という訳でない。でも、どこか頭の片隅にはあった。

朝食後から、無言で執務室に籠もったままのカナリーの事が。

 家族揃っての昼食も摂らなくて、一度は顔だけは出したが、まだカナリーの様子は違った。

 口を引き結んで、ぴりぴりとした雰囲気を醸し出していた。ぴりぴりと怒っ――て。

 ユクシャは唐突に思い当たった。


「あ、そうか。あれは不機嫌なんだ」


 思わず、ぽんと手を叩いてしまう。

 すっきりしたのはいいが、茶会の真っ最中である唐突さに主催のニフリートは首を傾げている。


「すいません。考え事の答えが見付かったもので」


 気付いたユクシャは晴れやかだった表情を一変させ、居心地が悪そうに身を小さくした。 ニフリートはくすくすと笑って応じてくれる。


「カナリーの事、気に掛けてくれてたのね。そう、あの子ったら不機嫌なのよ」


 ニフリートと微笑み合おうとしたユクシャの様子がまた唐突に変わった。

 今度は顔色から血の気がさぁ、と引いて真っ青になってしまったのだ。


 カナリーの不機嫌な原因とは。まさか。


「朝の事件の、せい…?」


 起きた素振りはなかった、と思う。慌てふためいていたので、気が付けなかったのかもしれない。

 目を覚ましていて、あの状況に何を思ったのだろうか。しかし、ユクシャだって悪くない。あれは偶然なのだ。


「朝?事件?」


 呟くニフリートを余所にユクシャはあれやこれや思考を巡らす。

 僅か数分の間で見ている方が可哀想なくらいに思い詰めている。


「ユクシャさん」


 名を呼んで、ニフリートに意識を向かせる。

 ニフリートとしては事件とやらの事情を事細かに聞いてみたいが、この辺で誤解を招く事にする。


「カナリーの機嫌が悪いのは昨日の帰宅した時からよ」


 何となく一部とはいえ事情を察したらしい。


「…え?昨日?」

「そう、昨日から」


 繰り返して頷くニフリートにユクシャは安堵の溜め息を漏らす。

 今朝の事はカナリーの不機嫌とは関係ないらしい。良かった。


「…でも、なんで不機嫌なんでしょうか?」

「仕事の上であって、こちらが気にする事はない話わ」


 さあ、お茶のお代わりをどうぞ、と淹れ直したお茶の勧められたユクシャは安心して目の前の茶菓子を口に入れた。


 気温がぐんぐんと上がった午後はそよそよと流れる風が気持ちいいから、とテーブルを運び出した庭で茶会を楽しんだ。

 その後、ニフリートと別れたユクシャは珍しく散策してみようと気になった。

 小さな棘の様に突き刺さっていた懸念が杞憂であった事も後押しとなって、陽気に誘われるまま、庭を気儘に歩き回って見る事にしたのだ。

 緻密なまで整然とする、花々が咲く庭をいくらも進まない内にユクシャは足を止めた。


 他の花に隠れる様に風に揺れる小さな花。

一房に幾つも咲く白い花が控え目ながらも、どこか可愛らしい。

 小さなそれに惹かれたユクシャは庭師に鋏を借りて、手ずから数輪だけ切り取った。

 花を手に取って返すと茶会の後片付けをする使用人に頼み事をして屋敷に戻る。


 そのままユクシャが向かったのは、カナリーが籠もる執務室。

まあ、ご機嫌伺いという訳だ。

 許可を得て、初めての執務室に足を踏み入れる。

 余計な物が一切ない、仕事をするだけの部屋は重厚感を醸し出している。

 そんな中でカナリーは執務机で何か書付をしていたらしく、ペンを片手に訪問者に顔を向けている。


「何か用?」


 問うカナリーは不機嫌よりも不思議そう。

 ユクシャが来た事に対してだろうか。


「こちら、贈り物です。庭に咲いてた花なのですが、あまり綺麗だったので貰ってきたんです。見た時から貴女に似合うと思って」


――とは建て前で。

 花を見る事で籠もりっきりの気分転換になれるだろうし、苛々だって少しは落ち着くかもしれない。要は小細工である。


「あ、ありがとう」


 カナリーは差し出されたレースのリボンで茎を結んだ白い花をおっかなびっくり――何故だろう?――受け取ってくれた。

 因みにレースのリボンは執務室に来る途中ですれ違ったお針子に貰った物だ。端切れらしいが、纏めるのに丁度良かったし、ちょっとした飾りにもなった。

 用事も終わったユクシャはこれ以上邪魔をしないように出て行こうとしたが。


「ねえ、時間ある?」


 カナリーに呼び止められてしまった。


 結局、ユクシャは執務机手前の応接用のソファーに腰掛けてカナリーと向かい合っている。

 誘いを断ろうにも断れなかった。

 二人の間のテーブルには透かし彫りの入ったコップを即席の花瓶にした白い花が生けてある。何となく微笑ましい。

 花を見て笑みを浮かべるユクシャにカナリーは水を並々注いだコップをもう二つ持ってきて、話をし始める。


「あのね、今日の休みってね。周りが勝手に気を回した結果なの」


 お茶代わりなのだろうコップを手にしたユクシャは頷きで相槌を打って、先を促す。


「私達は違うんだけど。新婚って一分でも一秒でも一緒に居たいだろうからって、仕事を分担して今日一日の休みを捻出しちゃったよ。必要ないって言ってるのに、無理矢理、領主代行はお休み下さいって、よっ!」


 勝手よね、と同意を求めているカナリーだったが、ユクシャから言わせれば、それは。


「それって、好きだからじゃないですか?好きだから、気に掛けるんです。好きでもない人の事を気に掛けるなんてしませんから」


 カナリーの唯でさえ大きな目を更に大きく見開く。

 思いも寄らない事を言われた、そんな顔。


「す…好き?」

「はい。皆さんに愛されている領主代行様なんですね」


 にっこりと笑うユクシャにカナリーはこそばそうに視線をさ迷わせる。話す言葉も普段よりも早口だ。


「何にしても話してみるわ、明日。休みは必要ないって」

「それが良いと思います」


 絶妙なタイミングで使用人が頼んでおいたお茶と茶菓子を持って来てくれた。


「美味しかったですので、よければ食べて下さい」


 小細工その二として用意したが、今のカナリーに不機嫌さは見当たらない。折角なので食べて貰おう。


「色々とありがとう。それから、今朝はごめん」

「いいえ」


 こちらとしても朝の事件が関係ないのが何より。


あまり関係のない話ですが、出てくる白い花は霞草をイメージしてみました。


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