9.入り婿と侍女の助言
畑と厩の間を走る簡素な土道でユクシャは頭を抱えていた。
深く意識せずに普段行っている行為の手順をいざ考えてみると一向に浮かんでこないのだ。
「駄目だ…。全然思い付かない」
公爵邸の中では裏寂れた、若旦那にとっては落ち着く長閑な場所で柵に頬杖をつくユクシャは溜め息を大きく吐き出した。
結婚以来どうしても増えた溜め息は癖になってしまいそう。
カナリーとの夫婦仲を改善というか、進歩というか、歩み寄って仲を深めたい、と思い至った訳で。
だって、流石に妻の機嫌が悪いのに翌日まで気付かないとは夫婦として、どうであろうか。
まあ、昨日のあれが関係しているのだ。
思い至った途端に手詰まりになるとは彼ですら想像が出来なかったが。
ユクシャは柵から反対側に腕を投げ出して、項垂れる。
どうすれば、カナリーと仲良くなれるのか分からなかったのだ。まさかのそこからである。
振り返ってみれば、他者と友人関係を築くのを深く考えた事などなかった。考えるまでもなく、自然に友人へと親しくなっていた。それ以前として夫婦間では仲良くなる方法として通用するのだろうか。
手詰まりなら、いっそのこと諦めてしまおうとならないのが、ユクシャの性格。結局のところ、それは問題の先送りでしない。
離縁されない限りカナリーとの夫婦関係は続いていく。
人並みの夫婦に、なんて贅沢は言わない。せめて、もう少しだけ。どぎまぎせずに円滑に会話が出来るくらいにはなりたい。
さて、そのためには何をしていけばいいのやら。
考え過ぎで頭と胃の奥が痛くなり始めたユクシャの下を向く視界に黒い動物の脚が映り込んだ。見えた脚と蹄の音でそれが何なのか、すぐに予想が付く。
顔を上げれば、予想通り。柵に囲まれた外を放牧されている幾頭かの馬の一頭がユクシャに近付いてきていた。
「ロイニ」
名を呼んで手を伸ばせば、馬は擦り寄ってくる。
厩のどの馬よりやや小柄の、やや脚が太い、青毛の馬はユクシャの愛馬である。
ヒュッセライン領からユクシャと共に入り婿に際してロンドルフ家にやって来た。というよりも無理やり付いてきた。
構って欲しいのか、と思ったが違うらしい。ロイニの瞳が気遣っている、そんな風にユクシャには感じられた。
「心配してくれてるのかい?平気だよ。少し考え事をしてるだけだから」
ロイニの首筋を撫でながら、ユクシャは答えの返ってこない問い掛けをした。
架空の物語ならともかく、馬は喋らない。なのに返事があった。
「そうそう。授業をサボって逃げて来たからその言い訳を考えてるだけ、ですもんね」
からかい混じりの声が後ろから聞こえた。
振り返れば、ユクシャとそう年の変わらない青年が鶏を両手で持って立っていた。
頭の形に添って整えられたレンガ色の短髪。鋭い目付きの灰色の瞳はどこか冷たくもある。が、今はその瞳を細めて不敵な笑みを浮かべている。
童顔と言う程ではないが、やや幼さも感じさせる顔をしている彼はオータ――オータウウィス。
ロンドルフ家の使用人のひとりで馬、家畜の世話を主の仕事にしている。
ユクシャとも毎朝顔を合わせている事もあってか、敬称と敬語付きではあるが、使用人というよりも友人のような関係を築いている。
ロンドルフ家の中では数少ない気安い間柄だ。
ユクシャは珍しくもあからさまにムッとした様子を隠さずに反論する。
「違います。サボってなんかいませんよ。今日は授業が一つ無くなったんです」
「本当ですかね」
くつくつと喉で笑うオータは信じていない様子だ。
失礼である。逃亡中なのは合っているが。
本日の授業は歴史と文学だった。
二教科目の授業である文学に精通する教師が自宅を出る際、教材一式を詰めた鞄を持ち上げた瞬間、ぎっくり腰になってしまったそうだ。
それで急遽、ニフリートが教師役を請うて教えてもらいながら、ベッドとお友達になってしまった文学の教師に見舞い状を書き上げた。
いつもの授業の時間の半分にも満たない時間で終わってしまい、思いがけず自由時間を得たユクシャは侍女が控える部屋の居心地が悪さから逃亡を謀ったのだった。主人であるはずなのだが。
侍女に部屋から下がってもらうように言えば、良いのだがそこまでは未だ考えが至らないユクシャなのである。
仕事も一段落していると言うオータに悩み事の相談相手になって貰う事にした。
私有地の端っこにある苔が生える倒木を椅子代わりに腰掛けるオータの横にユクシャはハンカチを敷いて座る。
多分、絹織物であろう服を万が一にも汚したり、解れさせたりしないための処置。
のんびりと草を食むロイニ――ユクシャ以外の人間に暴れるとは想像も出来ない姿である――を眺めながら、ユクシャは話し始める。
「あの、ですね。人と仲良くするのにどうしたらいいのか知ってますか?」
ユクシャは誰とだなんて名前を出していない。
しかし、オータには分かってしまったようだ。
「ああ、カナリー様か」
「…さあ。どうでしょうね」
ユクシャは肯定も否定もしないで応えを待つ。
「聞いてる、聞いてますよ。若夫婦は一線引いた関係だって」
聞いているとは屋敷内で噂にでもなっているのだろうか。
首を傾げるユクシャにオータは不敵な笑みを深くする。
「この話はマルタから聞いたんですよ」
思わぬ名が出てきてユクシャは目を丸くする。
話の出所があのマルタとは。真面目なカナリー付きの侍女と結び付かない。
「幼友達なんですよ、俺とマルタ」
ますます目を白黒させるユクシャにオータはそう説明した。
聞けば、屋敷で育った二人は小さい頃は一緒に遊び回ったのだとか。幼少期が無いのは可笑しいが、オータはともかくマルタは想像出来ない。失礼だろうが。
話の本筋とは別の事で驚いているユクシャを尻目にオータは吹き出す。
ユクシャの様子を笑った訳ではなく、思い出し笑い。オータは肩を震わせながら、笑いの合間に声を出した。
「つーか、さ。ユクシャ様といる時のカナリー様って。毛、逆立てた猫みたいですよね」
カナリーが猫。どこが。
というか、なんだ、それ。
オータの言葉をユクシャがすんなりと受け入れてられていないのは明白。
カナリーに睨まれて――彼女にその気はなくとも――蛇に睨まれた蛙のように固まるしかないユクシャからしたら、猫なんて可愛らしいものではない。決して。
残念な事にオータへの相談は世間話と言う形で終わってしまった。が、助言は得られた。
カナリーの事なら同性で普段からも何かと近しい侍女に聞くのはどうだろうか、と。
確かにその通り。ユクシャは午後には早速聞いてみる事にした。
ニフリートとの茶会の後は図書室に籠もって宿題をしている――今日が一科目少ないのもあるが――のだが、今日ばかりは若夫婦の居間でぴんしゃんと背筋を伸ばすユクシャはソファーで機会を伺う。
部屋の侍女がドニーひとりになった隙に問い掛ける。
その機会は故意に作り出したのだが。ポットの中身が空なのを知っていながら、お茶のお代わりをお願いしたのだ。
この場合、殆どマルタが用意のために部屋を出て行くので。今もそうであった。
一人ずつ相談しようとしたのだ。話しやすいドニーからだったのはユクシャが何か特別に意識しての事ではない。
「カナリー様の事を教えて欲しい、ですか?」
「はい。聞きたい事があって。で、それが――」
ユクシャが言い終わる前に初めはきょとんとしていたドニーの顔に理解の色が広がる。
何故だろう。頼もしく感じる所かそこはかとなくユクシャの頭には不安が過ぎる。
「アタシで良ければ、お話ししますっ!」
それからは立て板に水が流れる様に言葉が出てくる。
曰く、カナリーは大変素晴らしい人物である。
曰く、カナリーの流れる髪は美しく。朝晩梳くのが楽しい。
曰く、カナリーのその瞳は宝石みたいにきらきらしている。
曰く、カナリーの容姿は正にお姫様である。
曰く、カナリーは容姿ばかりではなく、人柄も優れている。 曰く、カナリーは貴族で偉い人なのに偉ぶらない。
曰く、カナリーは使用人も気に掛けてくれる。
曰く、カナリーは――。
兎に角ドニーは喋る喋る、喋りまくる。
止まる事を知らないそれにユクシャは手で顔を覆いたくなった。
そうだった。忘れていたが、ドニーはカナリーの事を深く尊敬しているのだった。
カナリーを語るのだったら、幾らでも出来ると豪語していたが、まさかこれ程までとは。
「失礼します」
そんな時であった。マルタが音も無く戻ってきたのは。
部屋に入って瞬時に理解したマルタからソファーで身の置き場無くしているユクシャに視線が送られる。
この時ばかりは彼女が言いたい事がユクシャにも伝わった。
カナリーの事を話したのか、目と目の会話に小さく頷く。
「はい。少し聞きたい事があったんですが…」
ちらっとドニーを見れば、自分の世界に入っている。マルタが戻って来たのにも気付いた様子もなく、語っている。
マルタは溜め息を吐き出して、ユクシャが所望したお茶を用意し始めた。
窘めたいところではあるが、こうなったら最後気が済むまで放っておくしかない。
「どうぞ。――で聞きたい事とは?私で良ければ、ドニーの代わりに答えますが」
あまり喉も乾いていなかったがユクシャが口実に使っただけのお茶を差し出すマルタから聞くはずだった話題を振られる。
ユクシャはこれ幸いに問い掛ける。
「なんと言いますか…。えーと、カナリー様と仲良くするのにどうすればいいのか、聞ければいいなって」
マルタに考える素振りを見せなかった。ポットを所定の位置に置いて、一連の動作を流れるように済ませ、ユクシャの傍に戻ってきた。
「僭越ながら申し上げますが。難しく考える必要はないかと」
淡々と話すマルタはまだまだ語るドニーを居ないものと見做しているかのよう。いっそ見事である。
「何にしてもお二人でお話ししてみるのがよろしいと思います」
背後で色々聞こえたり、ちらちらとよそ見をして集中してはいなかったユクシャであったが聞き逃しはしなかった。
マルタは話してみたら、言った。毎日話してもう会話もないのだが。他にどうしろと。
意味を問うべきか迷うユクシャであったが。
「ちょうどカナリー様もお帰りなりましたし。どうぞごゆっくりお話し合い下さい」
マルタの言葉の一拍後にカナリーが居間に入って来た。
本人の登場に我に返って慌てるドニーと一緒にユクシャも何故だか慌ててしまう。
なんという絶妙なタイミング。確かに外は薄暗いが。
「あ、あの…、お帰りなさい」
「今帰ったわ」
結局、為す術なくユクシャはカナリーと向き合うのだった。




