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最初の朝

目が覚めたとき、天井のひび割れがいつもよりくっきりと見えた。異世界での800年が、この世界の一晩に凝縮されているのだろうか。ベッドの感触が妙に柔らかく感じられ、窓から差し込む朝日が眩しすぎた。もうあの異世界ではない。ここは、私の世界だ。剣と魔法の世界でもあるが。


「おはよう、遅かったね」


母がキッチンで卵を焼いている音が聞こえる。父親は新聞を広げ、コーヒーの香りが漂っている。あまりにも平凡で、あまりにも普通の光景が、胸を締め付けるほど懐かしかった。


「ああ、ただ…少し疲れてたんだ」


私は椅子に腰を下ろし、温かいトーストを口に運んだ。バターの甘い香り。母の特製ジャム。この味を、どれだけ思い出していただろう。異世界では、どんなに豪華な料理も、この家庭の味には敵わなかった。


「今日はどこか行くのか?」


父が新聞の上から視線を上げて尋ねた。


「うん、冒険者ギルドに行ってくる」


両親は一瞬、きょとんとした表情を見せたが、深くは追求しなかった。彼らには、私が異世界で過ごした日々のことは想像できないだろう。理解はできても。


***


冒険者ギルドの建物は、この街の中心部にそびえ立っていた。石造りの重厚な外観は、異世界のそれと驚くほど似ていた。昨日、ギルド長のシエラから聞いた話では、この世界でもギルドカードは身分証明として使えるらしい。


彼女は私が来ることを予期していたかのように、ギルドの入口で待っていた。


「おはようございます。よく眠れましたか?」


シエラは微笑みながら近づいてきた。彼女の銀髪は朝日に照らされて輝き、異世界のエルフのような優雅さを漂わせている。だが彼女は純粋な人間でもない。女神に仕える戦闘メイド。俺ならともかく、この世界の人間なら到底敵わない、まさに超越者だ。


「まあね。普通のベッドは久しぶりだったから」


「では、さっそくギルドカードをお渡ししましょう」


彼女に連れられて通されたギルド長室は、広々としていながらも居心地が良かった。大きな樫の机の上には、書類がきちんと整理されて積まれている。


シエラは机の引き出しから一枚のカードを取り出し、私に手渡した。


「これがあなたのギルドカードです。この世界での正式な身分証明となります」


カードを手に取って眺めた。プラスチック製ではなく、何か特別な金属でできているようだ。軽いが、しっかりとした手触りがある。


名前の欄には、私の本名が記されている。その下に、英数字コード——A-000001。


「A-000001?」


「はい」


シエラがうなずいた。


「ギルド専属の執行者は、あなたが初めてですから。特別なカテゴリーとして分類されました」


さらに下を見ると、ランクの欄があった。


Z。


「ランクはZ?」


「超越者クラスは皆、Zランクとなります」


シエラの表情が少し曇った。


「あなたのように、異世界で神に等しい力を得られたお方には…通常の評価基準が適用できません」


カードをポケットにしまいながら、俺はため息をついた。


「ギルド御用達証明書については、後ほど私とギルドの上層部が直接御届けに上がります」


シエラは付け加えた。


「行政手続きは少々複雑ですので、私たちがすべて処理いたします」


「ありがとう」


部屋を出ようとしたとき、ふとある考えが頭をよぎった。異世界では金銭など気にしたこともなかった。勇者だった俺は必要なものはすべて手に入り、欲しいものはすぐに手元に届いた。だが、この世界は違う。


「シエラ」


「はい?」


「金が欲しい」


あまりにも直截な言葉に、シエラは一瞬目を丸くしたが、すぐに理解したようにうなずいた。


「もちろんです。実はすでに手配を進めていました」


「手配?」


「あなたのような超越者の方々が、この世界で必要とされる資金を調達する方法として、私たちはオークションを開催することにしています」


オークション。その言葉に、私は眉をひそめた。


「オークション?」


「はい」


シエラは熱心に説明し始めた。


「異世界から持ち帰った品々——魔法の道具、珍しい素材、あるいはあなたの知識や技術の一部を提供していただき、それを希望者に競っていただくのです」


彼女は机の上にあるファイルを開き、中から一枚の紙を取り出した。


「すでにいくつかのアイテムがリストアップされています。例えば…」


彼女の指がリストの上を滑る。


「『永遠に枯れない花』——異世界の妖精の森で採れたもの。『闇を照らす水晶』——地下迷宮の最深部で発見された鉱石。そして…あなたの『剣術の個人指導権』」


私は目を見開いた。


「俺の何?」


「あなたの剣術を学びたいという希望者は、すでに数十名も名乗りを上げています」


シエラはいたって真剣な表情だ。


「もちろん、すべて秘密厳守で、選ばれた者だけがその機会を得られます」


「それって…面倒なことにならないか?」


私の問いかけに、シエラは少し困ったように笑った。


「確かに、注目を集めることは間違いありません。ですが、これが最も効率的な方法なのです。一度のオークションで、あなたがこの世界で悠々自適に暮らせるだけの資金が調達できます」


悠々自適。


その言葉が、私の胸に妙に響いた。異世界では、常に何かから逃げ、何かと戦い、何かを守る日々だった。ただ静かに、平和に暮らす——そんな時間が欲しかった。


だが同時に、疑念が湧いてきた。こんなことで、本当に平穏な日々が送れるだろうか?オークションが招く注目は、かえって面倒事を呼び寄せはしないか?


「考えさせてくれ」


「もちろんです」


シエラは深くうなずいた。


「決定はいつでも結構です。ただ、一つお伝えしておかなければならないことがあります」


彼女の声が少し沈んだ。


「あなたのような強者がこの世界に適応するには、ある程度の経済的基盤が必要です。そして…あなたの力を必要とする人々が、すでに動き始めています」


「どういう意味だ?」


「この世界にも、異世界の影響を受けた事象が発生し始めているのです」


シエラの目が真剣な輝きを帯びた。


「魔物の出現報告。次元の歪み。そして…超越者を確保しようとする勢力」


窓の外を見やると、街は平和に朝を迎えている。人々は行き交い、車が走り、子供たちの笑い声が聞こえる。


その平穏の裏側で、何かが動き始めている。


「オークションの件、詳しく教えてくれ」


最終的に、私はそう言った。逃げることはできない。異世界で学んだことの一つだ——問題から目を背けても、それは消えない。むしろ、大きくなって襲いかかってくる。


シエラの顔に笑みが広がった。


「承知いたしました。では、詳細をご説明しましょう」


彼女が再びファイルを開き、説明を始める。オークションの日程、出品物の選定方法、セキュリティ対策…


窓から差し込む朝日が、机の上を照らしている。この世界での、新たな冒険が始まろうとしていた。


だが、それも悪くないかもしれない。800年の戦いの後では、少し違う種類の挑戦も新鮮に感じられる。


「一つだけ条件がある」


シエラの説明が一段落したところで、私は口を開いた。


「何でしょうか?」


「私の家族には関わらせない。絶対にだ」


私の声には、異世界で培った威圧感が少し混じっていた。シエラは一瞬たじろいだが、すぐに深くうなずいた。


「約束します。あなたのご家族の安全は、最優先で守ります」


それで良かった。私は椅子から立ち上がり、窓辺に歩み寄った。下の通りでは、人々がそれぞれの一日を始めている。


異世界の英雄でも、神に等しい存在でもなく、ただの一人の冒険者として——この世界で、新たな生活を築いていかなければならない。


「では、オークションの準備を始めよう。まずは目録の作成だな。」


背中を向けた私に、シエラが答えた。


「かしこまりました。すぐに準備に取りかかります。」


「少し出てくるが、すぐ戻る。」


「かしこまりました。」


ドアを開け、廊下へと歩き出す。ギルドカードがポケットの中で、ほんのり温かく感じられた。


A-000001。Zランク。


この記号が意味するものは、単なるコードやランクではない。異世界で得たすべて——苦しみ、喜び、喪失、勝利——が凝縮された、私という存在の証明なのだ。


階段を下り、ギルドの玄関を出る。朝の光がまぶしく、私は目を細めた。


どこからか、パンの焼ける良い香りが漂ってくる。


目録作り終わったら、パン買って帰ろうかな。


そう思うと、なぜか少し楽しみになってきた。オークションも、新たな生活も、すべてがこれから始まる冒険の一部なのだから。

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