庵を後に—戻る日常、変わる気配
山裾の小道に、朝の白い靄が薄く漂っていた。
庵を出るとき、戸口のところでルシアンが言った言葉が、まだ胸の内側に残っている。
――忘れ物を、取りに来い。
何を、とは言われなかった。けれど、分かる気がした。肩書きでも、拍手でもない。もっと手の内側で掴むものだ。
アルトは息をひとつ吐き、外套の衿を正す。軋む木橋を渡り、石段を下りるたびに、茶の匂いと静けさは背中のほうへ遠ざかっていく。代わりに、王都の喧騒が少しずつ輪郭を取り戻した。
学園の尖塔が見えた頃には、日差しはもう高い。城門で衛兵に軽く会釈し、石畳の中庭へ足を踏み入れる。そこには、いつもの日常がもう始まっていた。
「ジーク、そこは勢いで振るなって。角度! 角度が荒い!」
「細けえ! 当たればいい!」
「当たれば“たまたま”だよ。再現性ゼロ!」
「効率は正義〜!」
「ミナ、それは今は違う! 危ないからその筒、上に向けるな!」
訓練場の端で、ジークが木剣を振るたび砂埃が立ち、カイルが眉間に皺を寄せて走り回る。ミナは新作らしい金属筒を抱えて、にやにやと角度調整をしていた。
その輪の手前、アマネが汗を拭きながら、みんなの動きを目で追っている。髪の先が陽に透け、黒が少し茶色に見えた。
アルトが近づくと、アマネがいち早く気づいた。ぱっと顔が明るくなる。
「アルト様――あ、帰ってきたんですね!」
「うん。……もう“殿下”も“様”もいいよ。ここでは呼び捨てで頼む」
「えぇっ!? そ、それは……! さすがにできません!」
アマネは慌てて両手を振った。
「どうして」
「だって……王子様ですし、勇者候補ですし、えっと……」
「だからこそ、だよ。仲間の中で肩書きに縛られたら、歩調が合わなくなる」
「う、うぅ……」アマネは視線を泳がせ、もじもじと指を絡める。
「……そ、その……少しずつ、頑張ってみます」
「はは。なら、いつかでいい」
アルトが笑うと、アマネの目尻がさらにほどけた。
「……なんだか、少し顔つきが変わりました?」
「そう見える?」
「はい。なんか、肩が軽い感じ」
アマネの言い方はいつも、装飾がない。それが心地良い。
アルトは小さく頷き、言うべきことを選ぶ。ここで濁せば、また濁る。
「庵に、行ったんだ」
「――えっ」
アマネの瞳が、丸くなる。ほんの一瞬、体が硬直した。
(実家に、王子が……来た……!?)
そう心の中で叫んだ顔を、すぐに整える。彼女は呼吸をひとつ挟んで、うっすら笑った。
「そっか。セレス――えっと、王妃さま、よく来てくれてましたし。……うん、そっか」
驚きと納得が混ざった声。アルトは少し間を置き、ためらいがちに口を開く。
「……昔、庵で会ってたんだね。小さかった頃、水辺で……」
アマネの目がさらに丸くなる。
「え、覚えてるんですか!? ――じゃあ、やっぱりあのとき……」
言葉はそれ以上続かない。けれど二人のあいだで、幼い日の影が重なった。
「おーいアルト! 帰ったなら一本つきあえ!」
ジークが木剣を肩に、にやりと笑って近づいてくる。
「復帰祝いスパーだ!」
「ねえ、その前にこの新型の噴気筒、試運転していい? 沸かした湯を遠距離に――」
「ミナ、それは“後にして”。今、ジークが暴走するから」
「暴走とは失礼だな、灰色メガネ」
いつもの調子が、戻ってくる。
アルトは木剣を受け取り、軽く振って握りを確かめた。手のひらに、庵の茶の温度が一瞬戻る。
「よろしく」
「おう!」
木剣が交わる。打ち合うたび、視界の端でアマネが拍子を取ってくれているのが分かる。ミナは筒を抱えてぴょんぴょん跳ね、カイルはため息をつきながらも距離と足運びを指示する。
数合、打ち合ったところで、アルトは意図的に一歩引いた。
「ジーク、その踏み込み、俺が受けるより、アマネの“風”で補助したほうが速い」
「お?」
「アマネ、頼める?」
「やってみます!」
アマネの指先が小さく回り、足元の砂がふっと軽くなる。ジークの踏み込みが、明らかに鋭くなった。
「おおっ、これいい!」
「効率は正義!」
「ミナ、それは今は正義」
笑いの中で、アルトは確信する。
(俺は、前に独りで立つんじゃない。並んで、前に出る)
喉の奥で、庵の言葉が静かに固まっていく。
ひと区切りついたところで、カイルがメモ帳を閉じた。
「ところで、リュシア様は?」
「明日戻るって。王妃さまの“お手伝い”だって」ミナが答える。
アマネは「うん」とだけ頷いた。彼女だけが、“お手伝い”の内側を知っている。
その目は、少し誇らしげだった。大切な友だちが、自分の言葉を探しに行っていることを、知っている人の目。
「……そっか。なら、俺たちも足並み揃えておかないとな」
アルトが言うと、ジークが鼻を鳴らした。
「当たり前だ。次が来る」
「来るよ。危機は、いつも“段取り無視”で来るからね」
「そういう言い方やめて、怖いから」アマネが肩をすくめる。
「大丈夫。怖いままでも、動けるから」
自分の口から出た言葉に、アルトは内心で小さく驚いた。庵で拾ってきたものが、もう地面に根を伸ばし始めている。
夕方。訓練が終わると、それぞれが寮へ散っていく。
「風呂!」
「効率は正義!」
「ミナ、それは……まあ、正義」
アマネが小走りで駆け寄ってきた。
「アルト様――あの、さっきの“並びたい”の話、良かったです。私、嬉しかった」
言いながら、ぱっと笑う。陽に濡れた石畳みたいに、きらっと光る笑顔。
心臓が、また跳ねた。解剖図にも、戦術論にも載っていない感覚。
喉が少し乾いて、アルトは慌てて笑い返す。
「ありがとう。……俺も、嬉しい」
「じゃあ、また明日」
「また明日」
アマネが寮の角を曲がって消えるまで、アルトはその場を動けなかった。
(今の、なんだろう)
名付けなくてもいい、と庵で学んだばかりなのに、名を探してしまう。
けれど結局、名の代わりに浮かんだのは、短い言葉だけだった。
――忘れ物、見つけたかもしれない。
夜。男子寮の窓枠にもたれ、星をひとつ数える。
遠くで、鐘が静かに鳴った。明日は、リュシアが戻る。
彼女はきっと、少しだけ違う。自分の言葉を、ほんの少し、手の内側に持って。
アルトは目を閉じた。
拍手ではなく、隣に並ぶ足音の数を、数える。
ひとつ、ふたつ、みっつ――。
(俺は、勇者である前に、仲間として選ぶ)
その芽は、小さくても確かに、胸の真ん中に根を下ろしていた。
庵編一区切り。次は学園サイドへ。ブクマ&感想が励みです。




