光は、いつも東京から生まれるわけじゃない
6月1日。
名古屋駅前は朝から蒸し暑かった。高層ビルの隙間を吹き抜ける風さえ生ぬるい。
通勤ラッシュの人波の中を、野坂通は静かに歩いていた。
白いワイシャツ。紺色のスーツ。
片手にはコンビニで買った水。
信号待ちをしながら、スマートフォンの画面を見下ろした。画面には一通のメッセージ。
『おはようございます。これまで本当にお世話になりました。本日より担当変更となりますが、これからも通さんの御活躍を応援しています!私も精一杯がんばります!』
数年間担当してきた女性タレントから送られてきたものだった。思わず苦笑する。
「応援するのは僕の方なんだけどな」
そう小さく呟いてからスマホをポケットへしまった。
誰に聞かせるでもない独り言だった。
スターライトエンターテインメント。
名古屋市中区にある小さな芸能事務所。
野坂通が勤める会社だ。
設立から25年。
大手芸能事務所とは比べ物にならない。
所属タレントも20名程度。それでも通はこの会社が好きだった。夢を追う人たちがいる。それだけで十分だった。
エレベーターに乗り、四階へ向かう。事務所のドアを開くと、いつもの朝の光景が広がっていた。
「おはようございます」
「おはようございます」
社員たちが挨拶を返す。
通も軽く頭を下げた。
自分のデスクへ向かい、パソコンを立ち上げる。メールを確認する。スケジュールを整理する。慣れた作業だ。
ふと机の端を見る。そこには写真立てが置いてある。昨日まで担当していた女性タレントとの記念写真。テレビ出演が決まった日の一枚だ。嬉しそうに笑う彼女。その隣で少し照れ臭そうに立つ自分。通は苦笑した。
「頑張ったなぁ」
そのタレントは今日付で新人マネージャーへ引き継がれた。会社の判断だ。不満はない。4月に入社したばかりの彼に、2ヶ月間をかけて彼女のことや業務のことを教えこんだ。
もちろん寂しくないと言えば嘘になる。
だが芸能界ではよくある話だ。人気が出れば担当も増える。新人の経験を積むために引き継ぐこともある。むしろ彼女は今が伸び盛りだ。若い感性を持つ新人の方が、彼女をさらに上へ連れて行けるかもしれない。そう思って納得した。しかしそれでも、どこか心に穴が空いたような感覚があった。
その時だった。スマホが震えた。画面に表示された名前を見て姿勢が少し伸びた。社長。会社の代表取締役だった。通話ボタンを押す。
「はい、野坂です」
『しもしも⭐︎お疲れ様だよ~!』
いつも通り軽い声。
『通くん、今日の昼空いてる?
ちょっち話したいことがあるんだよね~』
「話……ですか?」
『うんうん!だもんで、この後ランチでもどう?』
そして、正午。
待ち合わせ場所は名古屋駅周辺にあるイタリアンレストラン『タヴェルナ グイダ』だった。店内は落ち着いた雰囲気で、平日の昼にもかかわらず賑わっている。窓際の席に、社長はすでに座っていた。
「こっち、こっち!遅いじゃないか〜」
「5分前ですよ?」
「そうだった?」
穏やかな笑顔。いつもの調子だ。
通は席につきながら尋ねた。
「珍しいですね。社長からランチなんて」
「たまにはいいじゃない」
社長は笑った。
「それに君、今フリーでしょ?」
その言葉に通は曖昧な笑みを浮かべた。
図星だった。
スターライトエンターテインメント代表取締役。56歳。温厚だが行動力の塊みたいな人で、通は昔からこの社長が好きだった。
無茶を言う。失敗もする。
でも夢を語る時だけは少年みたいな顔になる。
ランチが運ばれてくる。
しばらくは他愛もない会話だった。
最近の業界の話。
テレビ番組の話。
所属タレントの近況。
新しく入った社員の話。
動画配信市場の話。
そして、食後のコーヒーが運ばれてきた時だった。社長が突然言った。
「通くん」
「はい」
「男性アイドルやってみない?」
通は一瞬固まった。
カップを持つ手が止まる。
「……はい?」
「男性アイドル」
社長はさらりと繰り返した。
聞き間違いではなかった。
「僕にアイドルになれと仰るのですか?何を今更…。」
31歳でアイドルなど務まるのだろうか?社長の意図が全く分からない。しかし社長は目を大きく見開いた後、身体を揺らしながら笑った。
「違う!違う~!君がなるんじゃなくて、うちで育てるのさ。……いいや、《《君が》》育てるのさ!」
「えっ?」
数秒、思考が止まった。
スターライトエンターテインメント。
うちは女性タレント中心の芸能事務所だ。
モデル。
タレント。
女優…。
そういった人材は抱えている。
だが男性アイドルなど聞いたことがない。
「いや……待ってください」
通はカップを置いた。
「うちにノウハウなんてありませんよ」
「ないね」
「育成経験も」
「ない」
「男性タレント部門も」
「ない」
「じゃあ無理じゃないですか」
社長は吹き出した。
「だから君に頼みたいんだよ」
「意味が分かりません」
「君ならできると思うから」
あまりにも無責任な理由だった。
通は頭を抱えたくなる。
「社長」
「うん」
「僕、男性アイドルのマネジメントなんて一度もやったことありません」
「僕もない」
「社長ご自身でやるつもりはないですよね?」
「僕が?ないない」
「はぁ……ですよね…」
社長は楽しそうに笑った。
「でも、サポートは精一杯するつもりだよ」
そして少しだけ真面目な表情になる。
「あのね、」窓の外を見ながら言った。
「最近思うんだよ…。」通もつられて外を見る。
名古屋の街並み。人々が行き交う。
大勢の人々。大都市だ。だが、芸能の中心ではない。
この街に、男性アイドルというイメージも湧かない。
けれど、流行、文化、時代。
全部が少しずつ変わっている。
「東京には男性アイドルがたくさんいる」
社長が言う。
「大阪にだって」
そして少し笑った。
「でも愛知はどうだろうか」
通も頷いた。確かにそうだった。アイドル文化はある。
だが男性アイドルとなると東京ほど根付いてはいない。
「だから面白い」
社長の目が輝く。
通はその顔を知っていた。
無茶を思いついた時の顔だ。
「東京には何でもある」
社長は続ける。
「大阪も強い」
「……はい」
「でも愛知にだって才能はいると思うんだ」
通は黙って聞いていた。
「夢を持ってる男の子もいる」
社長は真剣な目を通に向けた。
「その受け皿がないだけで」
その言葉がなぜか胸に残った。
「愛知からスターを作る」
「男性アイドルを」
「俺たちの手で」
熱い言葉が続いた。
だが現実的な問題もある…。
通は苦笑する。
「予算は?」
「ない」
即答だった。
「ですよね…」
「ない」
もう一度言った。
通は頭を抱えた。
社長は笑っている。
しかし本当に楽しそうだった。
「どう?」
社長が聞く。
「やる?」
通は少し考えた。男性アイドルのプロデュースなど経験したことがない。成功する保証もない。むしろ失敗する可能性の方が高い。それでも、胸の奥が少しだけ熱くなっている気がした。
昔。自分も夢を見ていた。
歌手。俳優。
スポットライトを浴びる人間になりたかった。
でも、叶わなかった夢。
だから今は誰かの背中を押す側にいる。
それで満足しているはずだった。それなのに。
「失敗しても知りませんよ」
その言葉を聞いた社長は満面の笑みを浮かべた。
「交渉成立だねっ☆」
その日の夕方、通は自席でパソコンを見つめていた。画面には真っ白な募集ページに、タイトルだけが入力されている。
『男性アイドルオーディション開催』
予算、ほぼなし。
専用スタジオ、なし。
有名講師、なし。
知名度、なし。
あるのは勢いだけ。
本当にやるんだ。改めて実感すると同時に「本当に始まるのか?これ。」と笑ってしまいそうにもなる。
だが立ち止まっても仕方ない。
まずは人を集めなければ。
通は無料のウェブページ作成サービスを開いた。簡単な募集要項を書く。
年齢。
応募条件。
活動内容。
夢を持っている人歓迎。
未経験可。
そして最後に一文。
愛知から全国を目指す男性アイドルメンバー募集。
続いて事務所の公式SNSでも告知をする。
募集告知画像を添付する。
投稿文を打ち込む。
指先が止まる。
本当に応募なんて来るのだろうか…。
10人……いや、5人かもしれない。
5人も来ないかもしれないから、オーディション会場は社内の会議室で十分だろう。そんなことを考えながらキーボードを叩く。画面の中で文字が並んでいく。窓の外では夕陽が街をオレンジ色に染めていた。
誰も知らない。
まだ名前もないプロジェクト。
成功する保証もない。
メンバーもいない。
ユニット名もない。
夢を見る少年たちの顔すら知らない。
でも、なぜかワクワクしていた。
投稿ボタンへカーソルを合わせる。
指先に少しだけ力が入る。
「さてと…」
小さく笑う。
そしてクリックした。
画面に表示される。
『投稿しました。』
その瞬間。
何かが動き始めた気がした。
通は静かに息を吐いた。




