羅刹鬼、眼を醒ましおり候 (7)
卯の刻、明六つ。
悪夢としか形容のできない夜が明け、次第に陽光が辺りを照らし始めると、ようやく夢は醒める。
ただし、実際に起きたことを除いて。
紅卯と玄馬はその夜のことをほとんど記憶していない。
無理も無いことだ。有るはずの無いことは記憶も出来ない。
それでも、日常は少しずつ戻ってくる。
ある時、それはいつであったかも分からないが、英四朗は紅卯と玄馬に説明した。
あの時、それはいつであったかも思い出せないが、宗右衛門の使った剣技は、
『音斬』だと。
抜刀する動きも見えない。
剣を振るう動きも見えない。
鞘に収める動きも見えない。
そのあまりにも速すぎる動きのため、
光も、影も、音すらも、
感じることが出来ないのだと。
結局、世正番なる存在は抹殺され、闇に消えた。
今となっては本当にいたのかも判然とはしない。
とはいえ、起きた事実は残る。
上総屋彦六は身代をさらに大きくし、世の不景気とは逆行してすこぶる商売順調だ。
奥田清兵衛は月に一度、切り餅ひとつを置きに来る。
大場刑部少輔は今も南町奉行として辣腕を振るっているという。
関井玄馬は隠密廻りのまま、腕を磨くために大場道場に通っているらしい。
色宮英四朗は師範になってからやっと出来た教え子の玄馬に稽古をつけている。
大場宗右衛門は相変わらず道場の庭で花を育てている。
そして、
鈴置紅卯はやはり向両国で医者をやっている。
未だに宗右衛門の病を治す手立ては見当たらない。
それ以前に宗右衛門が病であるかも分からなくなってしまった。
正気か。狂気か。
病か。詐病か。
真実など探して簡単に見つかれば苦労も無い。
月日の移ろいが曖昧になり、どれだけの時間が経ったか知れない。
だとしても、
眠気と空腹感だけは現実的だ。
暖かい陽気でヨモギの成長は早いが、もう自分で食べたりはしていない。
患者には処方するが。
梅は咲いたか。
桜はまだかいな。
もう、どちらも見頃だ。
そういえば、
文机の上に知らぬ間、二本の枝が置いてあるが、何故だか分からないので今でもそのままにしている。
菜箸でも作ろうとしたんだろうか?
安定して薬料が入るようになったから、思い切って板間に窓をつけてみた。
やはり日の光が入ってくると気持ちが良い。
時の鐘が鳴る。
未の刻。まだ日が高い。
患者もいないし、薬の在庫を確認しようか。
棚を開けると揃いも揃いし生薬さん。
ウイキョウ。エンゴサク。オウゴン。
オウレン。ガジュツ。カンゾウ。
ケイヒ。コウブシ。コウボク。
サンシュユ。サンヤク。ジオウ。
シコン。シャクヤク。
ガイヨウ……は、呼び名は違うが、つまりはヨモギだ。
まだまだあるけど、一度に整理するのはやはりきつい。
また残りは今度にしよう。
などとやっていると、
外から唄が聞こえてくる。
耳障りだか、もうさすがに慣れた。
人間、慣れというのは怖い。
逆に日に一度は聞かないと落ち着かなくなる。
そんなこと思っている間に、ほら、
玄関から声がする。
「せんせえ、おはようございまぁすう。今日もお天気が良いでぇすよお」
玄関の戸は開いているといつも言っているのに、未だに言わないと入ってこない。
「窓を作ったから天気のいいのぐらい分かっている。いいからさっさと入れ。外で唄なぞ唄われたんじゃ近所迷惑だ」
言うと、ようやく板戸を開けて入ってくる。
ひょろりと長い白ごぼう。
「こっちに来る途中にぃ、ちょうど糖粽売さんがいたんでぇ、せんせえの分も買ってきたですよお。一緒に食べるませぇんかぁ?」
食べないなんて言わないと分かっていて聞いてくる。
こういうところがいちいち腹が立つ。
しかし、
確かにもう時分時。
憎まれ口は叩くが、いただくものはいただくとしようか。
腰に竹を差した白ごぼう。
「今日はお腹がぁ空いていたのでぇ、おひとりにつき、ふたつずつ食べましょお」
ああ、さすが変なところで気が利くな。
どうせ自分はひとつしか食わんくせに。
だけどな。
「ああ、いただくよ。ただし」
そうだよ。忘れてもらっては困るんだ。
うちは医者。あんたは患者。
置いているものは決まってる。色とりどりの薬の数々。
それと、
「うちには白湯しか無いぞ」