6.真の願い
耳に入った言葉は、七海にとって信じられないものだった。
(――嘘)
心の呟きが、胸の中に波紋を生み出す。ずいぶんと遠回しな言い方だったが、冬弥の言葉は紛れもなく、予知夢に関する話題。
「え? どういうこと?」
意味が汲み取れなかったらしく、理衣は聞き返した。
七海の視線では、右斜め前に二人がいて、木々の間から後ろ姿が見えている。
指定された公園に入り、ベンチに二人の姿を認め、呼び掛けようとした。なんだかカップル然とした雰囲気に、七海は僅かな嫉妬とそうした感情に対する苛立ちを覚え、先ほどの冬弥の質問を聞いた。
聞きたくなかった。本当に聞きたくなかった言葉。
「外部的な要因で決められた未来に突き進むことになったら、どうするかという話」
「……イマイチ話の趣旨がわからないけど、それがさっきの話と繋がるの?」
「ああ」
頷く冬弥に、理衣は短く唸った。
「そうね……自分にとってその未来が望むものかどうかで決まるけど」
「望まない方だ」
「即答するんだ。そうね、それは確実に訪れるものなの?」
「ああ」
沈黙が生じる。対する七海は呆然となったまま。会話の内容はどうでも良かった。ただ、冬弥が予知夢の話を切り出したことが、ショックだった。
「難しいな……でも二つしかないよね? 受け入れるか、受け入れないか」
「そうだな」
「うーん、色々あるけど私は仕方が無いと考えるかもしれないかな。受け入れてどうにかするという感じ」
理衣は、冬弥の顔を見た。二人の視線が交錯するのを、七海ははっきりと理解する。
「そういうことができなかったから、二人は色々と悩んでいるわけだ?」
「そうだ」
やめて――素直に頷く冬弥を見て、悲鳴を上げそうになった。なぜ、なぜ彼女に話をするのか。
身を乗り出し、割って入って会話を止めたかった。けれど、足が動かない。衝撃が全身を包んで、棒立ちのまま。
「ちなみに、どういう未来なの?」
「例えば、はっきり望んでいる大学進学はダメで、就職確定とか」
「うわ、確かにそれはキツイ」
例を上げた冬弥に、理衣は憮然とした声を出す。
「それは経済的な理由とかだったりする?」
「関係しているかもしれないけど……ひとまずそれは別で」
「そうかぁ。確かに答えがないかなぁ。けど、踏ん切りつけるのも大変だよね」
理衣は視線を逸らし、空を見上げた。またも沈黙が生まれ、七海の足もようやく動ける。
今すぐにでも止めないと――そう思い一歩踏み出そうとした時、冬弥が口を開いた。
「ずっと、抗ってきた。けど、駄目だった」
どこか、一人語るような口上。七海はぞくりと、背筋が凍った。
「それはとある人も同じで、協力して解決しようとした」
「えらく抽象的な物言いになったね」
「ここからは例え話だよ」
「そう」
短く答える理衣。
だが、彼女はわかっているのかもしれない。それを語る冬弥の言葉もまた、本物であると。
「だけど、ずっと解決できずにいた。二人は事あるごとに重要なイベントが生じると、どうしようか悩んだ。今も卒業において近づく受験に対し、どうしようか悩んでいる」
七海は聞くと、目頭が熱くなっているのを悟る。泣きそうになっている――慌てて堪えた。今ここで涙なんて流せば、顔を見られた時気付かれる。
「解決できない問題だけど、どうにかその波に流されないようにしている」
そこで、冬弥の言葉が止まった。彼もまた結論が出ていないのだろう。理衣は言葉を待つ気なのか、空から目を離し、冬弥を見る。
静寂が公園を支配する。その最中、七海は冬弥が話し始めた真意を考えようとした。どうして今まで話すのを拒否していた彼が、語り始めたのだろうか。
(――まさか)
胸に鋭い痛み。
至った想像は、予知夢を知られるよりも遥かに七海を恐怖させ、この場から逃げ出したくなるもの。もしかすると、この後に続くかもしれない冬弥の言葉。七海にとって悪い結論しか浮かばず、堪えた涙が零れそうになる。
「……ごめん、なんて表現すればいいのか」
均衡を破ったのは、冬弥の言葉。そこで理衣がはあと息をついた。
「そこまで引いておいて、それ?」
「こういう例え話をするのは初めてだからさ。戸惑っているんだ」
冬弥は頭を掻き、どう返答するか迷っている様子。
今しかない。七海はどうにか体を動かし、わざと足音を立てて歩き始める。
直後、二人が気付く。七海が姿を現し、二人へ声を掛ける。
「あ、二人でジュース飲んでるの?」
缶を握る二人を見て、七海は平常通り声を上げた。即座に、理衣がニヤリと笑う。
「奢って上げなよ、新城君」
「……わかったよ」
立ち上がり、自販機に向かおうとする。だが、七海は手でそれを制した。
「いいよ。喉は乾いていないから。代わりに、昼食でデザートでも奢ってもらえれば」
「高くなってんじゃんか」
冬弥は不満を告げた。ベンチに座る理衣は笑う。七海は冬弥に「よろしく」と告げ、理衣に近寄る。
「はい、これでしょ?」
「ありがとう」
七海が持っているのは片手でも持てる小さい紙袋。理衣は礼を告げ受け取ると、声を発する。
「じゃあ七海、昼食に行こうか?」
「うん。二人はお腹すいてるの?」
「喋ってたら少し減って来た。新城君は?」
「同じく」
七海は二人の反応に笑い――同時に、胸にドクンと嫌な鼓動を刻んだ。
こんな何でもない意思疎通ですら、僅かな引っ掛かりを覚えてしまう。そんな自分に嫌悪する。
「よし、店に案内しようかな」
理衣が先導し、二人を促す。冬弥が先に歩き出し、その隣を七海は歩き始めた。
前を歩く理衣を見て、七海はふと考える。なぜ、二人はあんな会話をしていたのか。
(だけど、それを追及するのは)
誤魔化してきた感情に、疑念を持たれるのではないか。
無論のこと、七海は長い付き合いである理衣が、七海と冬弥の関係に対し何かしら思いがあるのは承知していた。けれど、仮面の笑顔によって核心部分を触れずに来た。ある意味、自分から話をしないことが最終的なラインだった。もし話せば――最悪、予知夢に触れる必要が出てくる。それは、冬弥の本意ではない。
そして、それ以上に自分の気持ちを断定されるのが、怖かった。
(だけど……だけど)
涙が滲みそうだった。気付かれないようにぐっと堪え、仮面の微笑を振りまき歩く。
「買い物っていうのは、これで終わりなのか?」
隣を歩く冬弥が、理衣に問い掛ける。
「ん? うん。とりあえず今回買った物で商店街に行かなきゃいけないことはなくなるよ。後は足りないものを補充するくらいじゃない?」
「そうか」
「だからといって、ちゃんと準備は手伝いなよ」
「善処する」
話をする二人に対し、七海は無言だった。
何かを喋ろうとしても、先ほどの会話のことを訊いてしまいそうだった。しかし、無言に徹するのも怪しまれてしまう。
最後に残ったのは、仮面の笑みだけだ。
(最低だ……誤魔化すことしかできないなんて)
だが心の中で思う。冬弥が自らの意志で話し始めたとしたら、想いを隠し笑顔を見せる以外残されていなかった。七海は予知夢に対し、冬弥の意志に従ってきた。同調することが正しいと思っていたし、七海自身の考えは、あってないようなものだからだ。
「滝橋さん。ちなみに昼はどこで食べるんだ?」
「公園から少し行けば車の多い通りに出るでしょ? そこにファミレスがあるから」
「ま、無難だな」
続く会話に耳を傾け、七海は適当に相槌を打つ。二人に怪しまれている様子はない。
それから歩いて十五分程で、目的地に着いた。価格帯の安いファミレスチェーン店であり、店内に入ると十二時前のためか人はまだ少なかった。
席は窓際の四人掛けテーブル。七海と理衣が隣同士となり、向かい合うように冬弥が座る。奥側に座る理衣がメニューを手に取って広げ、
「先に決めよう」
と二人に言う。各々がメニューを見始め、やがて店員を呼んで注文をする。
後は待つだけという中で、理衣は小さく息をついた。
「そういえば、二人はこの後ご予定は?」
「無いな」
「無いよ」
二人揃って答えると、理衣は苦笑に近い笑みを漏らした。
「華の高校生なんだから、もうちょっと遊んだらどう? 二人を見ていると、青春していないように見えるんだよね」
「大きなお世話だ」
冬弥が面倒そうに返すと、理衣は口を尖らせた。
「なんかさ、新城君も七海も少し生活の仕方がしっかりしすぎているというか、羽目を外さないというか……もったいなくないかな?」
七海は何も答えなかった。正直現状の生活で満たされているというのが本意なのだが、冬弥の方は違うだろう。友人と深く関わらないようにするため、極力人を排して生活をしている。不満がないわけない。
無言となる七海と冬弥。すると、理衣はすぐに弁明した。
「あ、別にいけないと言っているわけじゃないよ」
「わかっているさ。自覚もあるからな」
冬弥に言われ、理衣は口をつぐんだ。
何か追及したい様子だったが、チラッと視線を七海に一瞬向け――話さなかった。
予知夢の件と関係しているのか――そういう風に問いたかったのだろう。
「なんだよ?」
所作が気になったのか、冬弥が尋ねる。理衣は「別に」と返しながら、背もたれに体を預けた。
「私からアドバイスできるのは、もうちょっとリラックスして生きろってことかな。個人的には、見ているこっちが緊張しちゃうくらいの時もあるし」
「……そうか」
冬弥は視線を窓にやった。横顔は、思いつめているようにも見える。
「ああ、ごめん。辛気臭くなった」
話を変えようと、理衣は笑いながら言う。
冬弥はふいに視線を戻した。瞳の色が、どこか決意を秘めたもので、七海は咄嗟に予感を覚えた。
思わず、叫びそうになる。けれど彼の言葉が先だった。
「――さっきの話の、続きだけど」
「え?」
理衣が、驚いた。まさか返されるとは思っていなかったのだろう。
「仮に誰かと親しくなって、その誰かまで巻き込んでしまうとしたら、どうする?」
(なぜ……なぜ?)
七海は心の中で繰り返した。二人の見えない所で拳に力が入り、会話を止めようか本気で迷う。
「……えっと」
理衣が困惑し、七海へ目をやった。
冬弥もまた七海を見た。理衣は戸惑い。対する冬弥の視線は、七海に窺うようなもの――話してもいいのかどうかを、問う視線。
(ずるいよ)
心の中で呟いた。心臓を握られたように胸が締め付けられて、それでも仮面によって、表情は変わらなかった。
(冬弥にそんな顔をされたら、何も言えない)
自分に指針が何もない以上、冬弥が話そうと決めたのなら従うまでだ。心はそれを拒絶しているが、彼の意志には逆らえない。
今までずっとそうしてきた。これからもそうなのだと、七海は思っていた――
「……話の内容はよくわからないけど」
七海は全てをひた隠し、前置きをする。
「それぞれ、したいようにすればいいんじゃない?」
肯定に近い言葉を、告げた。冬弥は小さく頷くと、理衣に話を向けた。
「滝橋さん。それで、答えとしてはどう?」
「え、うん、そうだね……」
理衣は躊躇いながらも短く応じ、七海を見る。
一方の七海はよくわからない話題という風に、我関せずと無言を貫いた。
そうした態度を、理衣はどう受け取ったかわからない。だが、彼女は冬弥に答えた。
「もし友人が困っているなら少しは協力したいかな。できるかどうかわからないけれど」
「そっか」
冬弥は納得したのか、それ以上言及しなかった。
会話が途切れる。そこで料理が来た。店員がそれぞれに注文した料理を置いている時、理衣は冬弥に、言った。
「私に何か協力できることは、ある?」
無いよ――即答したい衝動を、七海は必死に堪えた。
来ないでほしい。不可分の領域であるはずの予知夢の話に、踏み込まないでほしい。
身震いしそうな程怖い。目前で冬弥との関係に変化を与えてしまう状況が、この上なく怖い。さらに冬弥の真意がわからず、どうすればいいのかわからない。
盗み聞きしていた内容から、予知夢のことに直接触れているわけではなく、あくまで例え話の領域なのはわかった。けれど、だとしても冬弥から話すということ自体が凄まじいほど大きな一歩であり、そんな日は来ないだろうと思っていた。
けれど、目前に迫っている。それも、泣き出しそうになる予感を伴い。
(冬弥が――理衣を――)
悪い予感しか抱けない。話した以上、何かしら持ち合わせているようにしか感じられなかった。
もしそれが杞憂であったとしても、冬弥と理衣の間に大きなきっかけが生じた。紛れもなく、冬弥と七海の関係を変化させる呼び水となる。
「それが、新城君が人を避け続けてきた理由?」
「ああ」
頷く冬弥に、七海は胸の軋みを覚えた。
「もしそういう未来を呼び寄せるのだとしたら、あまり干渉しない方が良いだろうと思ってさ」
「なんというか、真面目過ぎない?」
呆れたように、理衣は応じる。
「そんなこと、新城君が黙っていればいいじゃない?」
「……黙る?」
「仮に誰かと接して、新城君が想定している事態に陥ったとする。けど、その人に黙ってさえすれば、別に問題は無いんじゃないの?」
「……それは、まずいだろう」
嘆息し、冬弥は箸を手に取った。彼の目の前にはから揚げ定食があり、味噌汁のお椀を開けつつ、理衣に言う。
「滝橋さん、仮に俺が滝橋さんの行き着く将来を知ったとする。で、それを回避するのは俺の判断しかできないとしたら、黙っているのはまずくないか?」
「それは私にとって? それとも新城君の罪悪感という意味で?」
「両方」
言うと冬弥は食べ始めた。
二人の会話を聞きながら、七海は無言でフォークを手に取った。目の前にはマカロニグラタン。会話を聞きながら、それを口に運ぶ。
今の七海にできるのは、仮面を被り現状に変化が無いよう祈り、耐えることだけ。
「……まあ、確かに誰かに未来を決められるというのは、不本意ね」
「だろ?」
「けど、だからといって新城君が抱え込む必要はないんじゃないの?」
理衣は問いつつ、ナイフとフォークを手に取った。彼女の目の前にはハンバーグステーキが置かれている。
「そりゃあ神経質になるかもしれないけど」
理衣は言って、ハンバーグを口に運ぼうとした時、手が止まった。
「……全容はわからないけれど、一つ疑問が。新城君の話が仮に本当だとしたら、なぜ私に話したの?」
「さあな」
食事を進めつつ、冬弥は答えた。
憂うような、それでいて迷うような表情。七海は不安になる。なぜそんな顔をしたまま、理衣に予知夢のことを話すのだろうか。
「そうだな。一つだけ言わせてもらうと」
心臓が跳ねる。自分がいる以上ここで予期する発言はないはず――だが、何か悟れてしまう言葉かもしれない。
「願い、みたいなものだ」
それだけ言った。理衣は首を傾げ、七海もまた意を介せなかった。
「話は終わり。以上」
冬弥は強引に話を切って、食事を続ける。
話題に触れなくなったため、七海はフォークを動かすしかない。
本当ならなぜ話したかったのか詰問したい。しかし、元来予知夢を忌避するフリをしている七海に、資格は無かった。冬弥が話した以上、受け入れるしかない。
横を見る。理衣が手を止め、冬弥を見ていた。彼女はしばし冬弥を眺め――小さな笑みを浮かべ、食事を再開した。
七海の胸に残ったのは、例えようもない不安感。自分が来る前にどんな会話をしていたのか。予知夢に関する話題に移ったのは自分が来た直後だろう。だが、その前に理衣が冬弥の真意を推し量る会話があったとすれば――
バレない程度の身震いをして、食事を再開した。それ以上考えれば、堪えきれないとわかっていたからだ。
それから冬弥と七海は電車に乗って帰った。理衣は「ごくろうさま」と残し、七海達とは反対の電車に乗り込んだ。
帰る間二人は無言だった。七海は沈黙が苦痛だったが、話す勇気がない。
何かのきっかけで冬弥が「実は、滝橋さんのことが――」とでも言われれば、耐えきれるものではなかったからだ。
やがて、家のある駅に到着する。そこからもしばらくは無言だった。
「……なあ」
家の寸前で、冬弥が沈黙を破る。七海は仮面を着け、必死に取り繕うように声を上げる。
「何?」
力が入り、少しだけ語気が強くなった。すると、冬弥は怒っていると感じたらしく、申し訳なさそうな顔をした。
「ごめん」
「謝られるようなことは、何もしてないよ」
次は自然と言葉が出た。今まで必死に押し隠してきた経験のせいか、心の内が表面には出ない。
「冬弥が話したかったから、そうしたんでしょ? 私は基本、予知夢に関するスタンスは冬弥と同じだし、もし話したかったら別に良いんだよ? ただ、私は自分から話さないと決めているだけ」
そう答えた。いや、そうとしか答えられなかった。
誰にも話さないというルールを互いに順守しているわけではない。むしろ話すことはできた。それを拒否してきたのはひとえに冬弥が恐怖していたからだ。だが、今日それが破られてしまった。もちろん理衣は全貌を理解しているわけではない。しかし、理衣が冬弥の心の奥に触れる機会が生まれたのは事実。
もしかするとそれが――七海は思考をシャットアウトした。
(馬鹿みたいな、考え方だ……)
胸中で呟くと、自分がどれだけ愚かで、卑怯で、嫉妬深いのか再認識する。
冬弥の気持ちを聞いたわけではない。だが、心の中でそうなのではないかという推測に行き着いた瞬間、理衣に対し深い嫉妬が芽生えた。
(卑怯だ……自分が冬弥に告白する勇気がないだけで……)
方法はいくらでもあったはずだ。それなのに、決心できなくて、現状を維持したくて逃げ続けた。
それが報いとして返って来た。ただそれだけだ。
考えていると、家に到着した。心が黒い嫉妬で蝕まれていく中で、それでもなお仮面は全てを誤魔化し続けた。
「ねえ、冬弥。家に戻って来たんだけど、何か予定とかなかったの?」
茶化すような声音で、七海は尋ねた。自分の中ではひどく乾いた声だと思ったのだが、冬弥は気付く素振りを見せなかった。
「そういう七海こそ」
「友達とかは朝から遊んでいると聞き及んでいるので、無理だよ」
「……彼氏とかは?」
興味本位で、なおかつ冗談交じりに冬弥は言った。七海は軽いため息をつく。
「わかって言っているんでしょ?」
「ごめん、そんなふくれ面にならないでくれよ」
苦笑で冬弥は応じた。七海は笑った。交友関係が狭いのはお互い様だ。けれど、七海のそれは――仮面だ。
(お願いだから、冗談でもそんなこと言わないで……)
嘆きが、胸の中で響いた。
(あなたが好きなんです。あなたの口から、そんな言葉は聞きたくない)
「それじゃあね」
道化のように、役を演じるように七海は手を振り、玄関へ歩く。玄関扉をくぐる時、振り返ると冬弥が小さく手を振っていた。七海は振り返して家に入った。
誰もいなかった。土曜日だというのに人の気配がない。七海の両親は共働きで、父親は休みだというのに接待のゴルフ。そして母親は見事な休日出勤である。
好都合だ――思った直後、ポロッと涙が零れた。それが玄関先に落ちて、七海は震えた唇で息を吐いた。
「う、くっ……!」
袖で拭い、靴を適当に脱いで二階へ上がる。
自分の部屋に入ると、扉を背にして座り込んだ。
もう止まらなかった。堰を切ったように涙が流れる。膝を抱え、七海はただ今日起こった出来事を頭の中でグルグルと回す。
「嫌だ……嫌だ……!」
恐怖、恋慕、嫉妬、悲哀、後悔。それらがぐちゃぐちゃに混ざって頭の中が掻き回される。一番は恐怖で、次に嫉妬だった。
絆が壊れるかもしれなかった。冬弥が自ら話し始めたのは、現状を打破するきっかけを生み出したかったかもしれない。泣きながら考えた時、さらなる恐慌が訪れた。それが理衣という存在――冬弥が、何かしら特殊な感情を抱いていてもおかしくない。
同時に、嫉妬が膨らんだ。わかっている。自分に想いを伝える勇気がないからこうなったのはわかっている。けど、思わずにいられなかった。
悪い想像が全身を支配する。冬弥は理衣が好きで、理衣も冬弥が好きで――もし二人が一緒になれば、きっと冬弥の隣にはいられないし、役割も無くなる。
胸が剣を突き立てられたかのように痛む。想像すらしたくなかった。並んで歩く二人の姿なんて、思うことすら嫌だった。
ふいに、七海は泣きながら自身の手のひらを見つめた。付き合い始めたら二人は手を繋いで登校するのだろうか――馬鹿なことを考えると、自分が冬弥の温もりを知らないことを悟った。隣にいながら手を繋ぐような関係ではない。ずっと一緒にいて、予知夢という事実を共有しながら手を繋ぐことすらできない。なんて――なんて空しい関係なのだろう。
「やだよ……やだ……」
駄々をこねる子供のように呟く。心が必死に理性を繋ぎとめようとする。
夢であってほしい。そして、願わくは昨日までの日常が帰ってきてほしい。
手を見つめながら、踏み出せなかった自責の念に駆られる。触れたかった冬弥の温もりを思い起こし、さらに涙を流す。
その中で、自分は何ができるのか――同時に、予知夢の恐怖が思い起こされる。もし、冬弥が何か抱いているのだとしたら、夢に出てくるかもしれない。
先ほどまでと異なる、凍えるような恐慌が襲う。見つめる手が震える。未来が――選択が生まれ、二人が結ばれる未来を選択したら、抗うことはできない。
(そうか……こういうことなのか)
予知夢の怖さを、七海は今更ながら理解した。
ただ身を任せるだけだったため、その本質を把握できていなかった。今になって、いずれ来るかもしれない予知夢にひたすら怯え、願うしかない。
(祈るしかない……そうならないように)
七海は最後に呟くと、両手で肩を抱くように震え、泣き続けた。枯れるまで、ただひたすらに――




