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たった二人の夢物語  作者: 陽山純樹
第二部

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22/23

22.答え

『話は、全部七海から聞いたよ』


 眠る寸前になって、冬弥の下に理衣から電話が来た。開口一番に言われ、無言で話を聞き続けるしかなかった。


『内容を聞いて理解できたよ。あれは、絶対に私には言えないね……』

「理衣、話を聞いてどう考えているんだ?」

『私は、間違ってはいないと思うよ』


 意外だと感じた。理衣であれば、七海の選択を真っ向から否定すると思っていた。


『事情を聞いた時、最初首を振ろうとしたよ。けど、七海の想いを聞いて……正直、それしかないんだろうなって』

「それしか、ない?」

『七海はそこまで踏み込まなかったけど、きっとこのまま今回の選択を回避しても、冬弥と一緒になれる未来は来ないんじゃないかって、考えているんだと思う』

「それは……誰にもわからないじゃないか」

『確かにそう。でも、七海は確信している。逆に言えば、そう感じられるくらい、七海の心が弱っているともいえる』


 理衣の言葉はその通りだろう。しかし、そうであれば現状から少しでも回復すれば、思い直す可能性もあるはず。


『けどね、冬弥。私はなんとなく、七海が言っていることは正解だと思うんだ』

「え?」


 冬弥が聞き返す。僅かな静寂の後、理衣は話し始めた。


『私ね、もしかすると七海は無意識の中で気付いているんじゃないかなって思うの。今回の事故の件は、自分のせいで生み出されたものなんだって』

「事故が……?」

『私と冬弥が付き合い始めて、七海は何度も人知れず泣いたって言ってた。きっとだけど、七海の悲しみが集積して、ああした悲劇が起きたんじゃないかって思うの。予知夢はきっと、二人が暗くなれば悪い方向に進み、明るくなれば良い方向に進む……そんな風に、私は思う』


 理衣の話に根拠は無い。けれど、冬弥はそうかもしれないと感じた。小学生の時、予知夢に対しどこまでも無邪気に接していた時は、楽しかった。けれど中学になって予知夢と戦い始め、それこそ呪いだと思った。高校に入学して以後は、あきらめにも似た心境であったため、大きな障害にはならなかった。


『だからね、七海は自分の想いを知られて、前のようにはなれないって嘆いている。そして間違いなく、予知夢を否定的に捉える。だとしたら、予知夢は七海にずっと牙を向け続ける。七海にとって、今回の事故はトラウマになっているだろうから、どこまでいっても予知夢は追いすがってくると思う』


 理衣の解説は、冬弥も納得できた。心の根底に恐怖を抱いているのなら、予知夢は二人へ襲い掛かる可能性がある。


『だからね、私は七海が本当の意味で冬弥と共に歩む気なら、この選択しかないのかもしれないって、話をしながら考えた』

「……七海は、話をしている時、どんな様子だった?」

『泣いてた。それこそボロボロに』


 冬弥は無念そうに目を伏せた。七海は今回の件や、二人に知られた事実を自身の責任だと認識しているはずだった。


(けど、違うんだ。これは、俺と七海二人の咎だ)


 自分も七海を傷つけた。今まで見えなかった罪が、こうして目の前に降りかかってきた。理不尽ではない。無知によって生じた、冷酷な断罪。


『冬弥、私も一つだけ言わせてもらう』

「ああ、何だ?」

『こんな状況で言うのもなんだけど……私は冬弥のことが好きだよ』


 悲しげな響きを持たせ、理衣は告げた。何が言いたいのかは、理解できた。


『けど、私は七海を犠牲にしてまで幸せになりたいとは思えない。七海が私を死なす選択をしなかったのだから、きっと七海だって同じ風に考えているはず』

「……ああ」


 答えながら、冬弥の目が無念そうに伏せられた。


『たかだか数ヶ月だから、そんなに気の利いた思い出とかもないけど、それでも楽しかった。実を言うと、予知夢をあーだこーだと相談されて考えるの、結構好きだったんだ。なんだか、物語の登場人物みたいでさ』

「……ああ」

『でも、私がいれば親友が泣き続ける。冬弥のことは好きだけど、親友を永遠に泣かせるような恋は、正直いらない』


 さっぱりとした、乾いた声。理衣らしい言葉に加え、七海の姿を頭に浮かべ話しているのが、はっきりとわかる。


『だからね、冬弥……別れよう』

「……わかった」


 ただそれだけのやり取り。胸の奥で悲しさが広がる。あのデートの時は、それこそ将来のことを話し、一緒になったかもしれないのに。

 だが同時に、冬弥は理衣の話を思い出した。自分が選択に困っていた時、彼女はどう言っていたか――


『冬弥、もう一つだけ。事故当日のデートの話、憶えてる?』

「ああ、憶えてる。今、はっきりと思い出した」


 冬弥は答え、理衣は納得したようだった。


『冬弥……七海を助けてあげて。こんなこと私が言えた義理じゃないかもしれないけど』

「いや、ありがとう。理衣」

『私も七海の親友として、できる限りサポートするつもりだから』


 辛くはないのか――言おうとして、押し留めた。言えば、理衣の決意を無為にする気がした。


「わかった。俺が、決着を付けるよ」

『……うん』


 理衣が承諾の声を発し、電話が切れた。冬弥は枕の傍らに携帯電話を置くと、理衣を想って、ほんの少しだけ、泣いた。


「ありがとう……理衣……」


 感謝と、謝罪を込めた言葉だった。最終的に理衣もまた予知夢に巻き込まれ、本来二人が受けるはずだった咎の一部を、その身に受けた。ならば、理衣の言ったように――あの時デートで言われたように、行動すべきだと固く決意した。






 退院の日は平日だったため、病院に赴いたのは冬弥一人だった。

 学校を午前中で早引けし、病院の外で待つ。友人達も来たがったのだが、結局ここに来れたのは冬弥一人だった。


 天気は良く、うららかな春の陽気。三年に進級して早一月。ゴールデンウィークが間近に迫る時になって、七海は退院することができた。


「怪我の具合からすれば、早いのか……?」


 一人呟きながら、冬弥は前日の電話を思い出す。退院する寸前となって知らされた一つの事実。冬弥の母親は悲しみ、七海の母親もまた嘆いていると聞き及んでいる。だが、冬弥は少し異なっていた。なぜなら、それは予知夢で現れていたことだからだ。


 冬弥は最後まで七海の言葉に従い、一度も見舞いに訪れなかった。予知夢を回避するやり方もあったが、しなかった。事故以降、冬弥は七海と決して会わないどころか、言伝一つ頼まなかった。その行為が今回の結果を呼ぶと知りながら、冬弥は七海に従った。


 正解なのかどうかは、わからない。けれど七海の母親が悲しんでいるように悲哀が満ちるのであれば、正しいものではないかもしれない。しかし表面上正しい選択でも、七海の心が破壊されれば意味が無い。情感が予知夢に影響するなら、今回の予知夢を回避したとしても、七海に良い未来を与えることはできない。


 病院入口に視線を送る。外から室内は大変見えにくかったが、やがて七海と、七海の母親の姿が見えた。同時に、冬弥は胸が痛む。


(そういう選択しか、与えてやれなかった……)


 冷酷な事実が、冬弥を悩ませる。

 七海の母親は入口に近づくと、冬弥に気付いた。彼女は小さく微笑み、七海を伴い入口を抜ける。一方の七海は冬弥を一瞥し、すぐに視線を逸らした。


「退院、おめでとう。七海」


 冬弥は微笑みながら、まずはそう告げた。しかし七海は俯いたまま。


「それとごめん。見舞いにも行けなかったし、手紙の一つも渡せなかった」


 これは予知夢の口上そのものだった。冬弥は七海に対し、この未来を選んだと告げるために、予知夢を再現することにしていた。

 七海も意を介したらしく、俯きながら口を堅く結び、両の拳に力を入れていた。


 冬弥は次に目を七海の母親に向けた。彼女はどこか寂しそうに、それでいて決然と視線を合わせている。


「母さんから連絡、聞きました」

「……そう」


 声を聞くと、七海の母親へ深く頭を下げた。


「すいません……謝っても、許されることではありませんが……」

「ううん、いいの。みんなの命が助かっただけでも、良かったじゃない」


 七海の母親は小さく笑った。その笑顔に冬弥は事故以降の苦悩を垣間見た気がした。そして慚愧の念を抱きながらも、話を進めるため七海を見た。


「それで、七海は……」


 言葉を失う。七海の母親は後に続く言葉を予想できても、話すのを待つ構え。


「七海の……七海の……足は……」


 七海の母親は首を左右に振った。やはりわかっていても――冬弥は、車椅子姿の七海を見て、奥歯を噛み締めた。


 ――事故により脊髄を損傷し、それに伴った下半身不随。それが予知夢の選択の代償。


 しかし事故直後の予知夢を鑑みれば、現状を回避できる可能性はあった。なぜこの選択では歩けなくなり、もう一方の未来は歩けたのだろうか――答えは、七海の中にあるような気がした。


(どちらが先かわからない……けど、七海自身が選択に迎合したとしか考えられない)


 予知夢を見たため、体がその未来へ進む準備をした。冬弥は二つの選択を取らなければ、歩くことができたのだろうかと思案した――けれど、その想像は無意味かもしれない。七海がこの選択をせざるを得ない程、自分が彼女の心を殺した。


 その責任は、自分自身にもある――それだけだと、冬弥は思った。


「一つ、いいですか?」


 冬弥は話を変え、本題を切り出す。


「少し七海と話がしたいんです。時間は……それほどかかりません」

「わかった。七海」


 七海の母親は優しく声を上げる。


「終わったら携帯で連絡して」

「……うん」


 七海は俯きながら承諾すると、冬弥は彼女の後ろに回る。七海の母親に代わって車椅子を引き始める。

 話のできる場所なら見当がついていた。病院の敷地内には木々に囲まれコンクリートで舗装された遊歩道があり、入口近くから見ると人影もない。そこへ向かって冬弥は移動を始めた。


「……っと、結構難しいな」


 車椅子の操作に手間取りながら、遊歩道に入る。しばらくはゆっくりと進む車輪の音だけ周囲に響く。


「そういえば、近況を話さないといけないな」


 やがて、冬弥は話し始めた。


「三年になってクラス替えがあって……理衣を含め知り合いが同じクラスだったよ。あと、七海もそうだ。結局、腐れ縁は高校最後まで続くみたいだ」


 できる限り陽気に、冬弥は笑いながら語る。しかし七海は俯き、一切言葉を発しない。


「クラスは相変わらずだよ。知り合いも多いし俺としては結構居心地がいい。あ、それとごめん。期末テストの結果とかは俺が代わりに受け取っていたから、把握してたりする。結果的に、俺は七海に完敗だったけどね。まさか全教科で上をいかれるとは思わなかったよ」


 はは、と笑う。反応は無い。


「三年の勉強はもう受験モードだからさ。七海にとっては大変かもしれないけど、十分追いつけると思うよ。あ、それともし良かったら勉強も付き合うよ。ただ、二年の期末全敗した俺が言うのもなんだけど――」

「ごめんなさい」


 七海の声が、冬弥の口を止めた。車椅子も停止する。風に流れ聞こえる葉擦れの音だけが、周囲を包む。

 冬弥は七海の背後から、彼女が俯き泣いているのを悟った。何が言いたいかは理解できる。冬弥は一度目を伏せ、告げようとする。


 しかし涙声の彼女の言葉が、それを制止させた。


「本当は、何度も言おうとした……最初の、みんなが大学に通うあの未来を、選ぶべきなんじゃないかって、何度も思って、伝えようとした……でも、できなかった」

「……七海」

「そうでなくても、方法はあった……理衣に伝えようとして……結局、できなかった……きっとこの未来を選ばなかったら、もう自分の願いが叶う未来は、ないって思って……」

「七海」


 名を呼ぶと、七海は口をつぐんだ。

 冬弥は車椅子から手を離すと、七海の正面に回る。俯き泣き始めた彼女を見ながら、目線が合うように屈む。そして膝立ちとなり、


 涙を零す七海を見て、心が軋む。


「もう、いいんだ」


 告げた言葉に、七海は冬弥を見た。仮面が全て剥がれ、くしゃくしゃの泣き顔。今まで見せてこなかった、彼女がそこにはいた。



 * * *



 求める未来を選択し、七海ははっきりと後悔を抱いていた。色んな人に迷惑を掛ける。それは間違いなく、目の前の人だってそうだ。


「もう、いいんだ」


 だから冬弥の言葉を聞いた時、七海は今からでも予知夢が回避できる方法がないか探した。手遅れであっても、まだ何か方法があるのではないか――彼が中学時代に通った道。しかし予知夢が大きく変わり始めている今、回避できる可能性もあるのではないか。


「……私」


 泣きながら考えたのは、嘘をつかず、全てを冬弥に話すことだった。嫌われてもいい、恨まれてもいい。予知夢を回避できる可能性があるなら、やるべきだ。これは自分が生み出した選択――尻拭いをするのも、また自分。


「私……ずっと……予知夢は、冬弥と一緒にいられる唯一の、絆だと思ってた……これがあるから冬弥と一緒にいられる。そう思って、このまま予知夢が消えなければいいのにって、ずっと思ってた……」


 冬弥には何一つ責任がない――自分がそう思っていたからこそ、予知夢は存在していたのかもしれない――


「だからね……私が、冬弥を縛っていたんだよ。私が、全部……」

「七海」


 優しい声音で、冬弥が言う。だが、七海は構わず話し続ける。


「予知夢はきっと私がそう望んでいたから、存在し続けて、冬弥を不幸にしていた……だからね、きっと私がいなくなれば、もう苦しまなくて済むと思う。理衣だって……」

「七海」


 またも名を告げられる。そこで沈黙した。冬弥が、訝しげな顔を見せていた。


「何も、聞いていないのか?」

「……え?」


 冬弥と目を合わせ――七海は凍りついた。まさか、そんな――

 様子を見て、冬弥は嘆息しつつも、納得した表情を浮かべた。


「そっか、そうだよな。理衣もわかっていたんだな。話したら七海がどう思うか、予想ついたんだろうな」

「待って、冬弥……まさか……」

「ああ、理衣とはもう別れたんだ。結構前だぞ? 七海の面会が許可された時だよ」


 淡々に語る冬弥に対し、七海は今度こそ自分が計り知れない過ちを犯したのだと知った。元に戻せると思っていた関係は、既に断ち切られていた。


「……とう、や……」

「後悔していないといえば、嘘になる。けど、七海に責任を押し付ける気は無い。これは、俺と理衣が決めたことだから」


 七海は冬弥を凝視し、否定しようと必死に言葉を探した。違う、これは私のせいなのだと、二人が気に留める必要はないのだと言いたくて――途端に、目の前にいる人を渇望して、心が止まらなくなる。


「七海がそういう未来を決めたからという理由には、俺はしたくない。だから、七海が気に病む必要は、どこにもない」


 そう言って冬弥は、手を伸ばそうとした。しかし七海は反射的に手で制し、小さく首を振る。


「七海?」


 問われて、七海は答えられなかった。もし、今優しくされれば戻れなくなる。自分の心が冬弥の全てを望み、離れられなくなる。


「駄目だよ……冬弥」


 全部自分の責任だから――言おうとした瞬間、今度は冬弥から声が上がった。


「俺達はそれぞれが自分の責任だと思い込んで、それぞれ互いの気持ちを理解せず突っ走った。結果的に俺は七海の感情を無視して中学暴走し、七海は全て自分の責任だと結論付けて心を押し殺すようになった……違うか?」


 七海は押し黙る。それは紛れもなく、肯定の沈黙だった。


「だから今回の件はどちらの責任でもない。言わば、俺達二人が互いを理解しようとせず歩んできた結果なんだ。七海が全て背負いこむ理由は無い。七海がこうなってしまったのには、俺の責任もある。だからこの選択を取ったことについて、七海が全て気負う必要はない」


 冬弥は七海の顔を見ながら、そっと左手を伸ばし右手に触れた。ずっと――ずっと求めていた、彼の温もり。


「理衣が言っていたよ。どんな選択をしてもそれを後悔せず、幸せになる気で過ごすと。俺は言われて気付かされた。中学入学の時から、俺にとって予知夢は亡霊だった。けど、思い出したんだ。小学生の時は、予知夢と上手く折り合いを付けていた。高校だって、半ばあきらめていたけど、平穏に過ごせた。だからさ、これからは予知夢を受け入れ、抗うのは止めようと思う」


 七海は俯き泣いた。冬弥は、選択した。自分と共に進む未来を幸せにしようと決意し、それを自分に伝えようと――


「七海は……この選択が欲しかったんだろ? 誰かに迷惑を掛けようとも……この未来を選択して一番つらいのは、七海だ。けど、それでも俺と一緒の未来を確定させたくて、選んだんだろ? 俺は事故の時からずっと、七海に従うと決意していた。だから、もういいんだ。気に病む必要はないんだ」


 冬弥は言い、右手を伸ばし泣き続ける七海の頬に触れた。対する七海は、彼に何かを告げたくて、口を動かそうとして、それでも声を発せられない。

 彼は無言のまま、肩に腕を回して七海を抱き寄せた。七海はなすがままで、ただ欲しかった温もりを感じて、涙を零す。


「……ごめん、なさい……」


 今度こそ、声が出た。自分が到底償いきれない過ちを犯したと思いながらも、それでも冬弥への想いが溢れ、言葉に出す。


「……ずっと、冬弥の傍にいたかった……それに私が気付いたのは中学三年の時で……でも、私はそれよりずっと前から、ずっと、ずっと……」

「……ああ」

「それが、高校に入って際限なく膨らんで、でも私の手には予知夢しか残っていなくて、怖かった……失うのが……だから、冬弥といられるように、ずっと行動してた」


 しゃくりを上げて、七海は冬弥の体に手を回す。手にできなくてずっと焦がれていた、温もりを享受するために。


「わかってた……この選択も、本当に手に入れたかったものはどうにもならないって……手を繋いで登校することも、腕を組んでデートすることもできない……けどもうこの未来しかないって思った……きっとこの予知夢が、私にとって冬弥と結ばれる、唯一の……」


 他にもっとあるはず――七海は何度も自問自答した。けれど、この未来を選択した。冬弥もそれに従った。その罪の責は、今自分の足にかかっている。


「色んな人を大変な目にあわせる……けど、けど……」

「わかった。もう泣くな」


 優しく、冬弥は耳元で囁いた。体を離しつつも、肩に手を置いたまま冬弥は告げる。


「七海、これから大変なんだぞ。こんな所でずっと泣いている暇なんかない」

「……冬弥」

「けど、それは七海が歩けなくなったから大変なんじゃないぞ。どういう道筋だって人生は一回しかできないんだ。今更後悔するな」


 強い言葉で、冬弥は告げる。七海は涙が止まり、冬弥をじっと見つめる。


「これから大変なんだ。俺達は幸せにならなきゃいけない。他の選択を取らなくて良かったと思うくらい、俺達は幸せにならなくちゃいけないんだ。いいな?」


 七海は名を呼ぼうとして、言葉が詰まった。代わりに出たのは一筋の涙。けど、それは果たして悲しみからだったのか、自分にも判別がつかなかった。


「七海、幸せになる覚悟はできてるか?」


 冬弥が尋ねる。七海はそこでようやく、小さく頷いた。





 しばらく二人は見つめ合った後、どちらともなく顔を近づけ、唇を合わせた。七海の瞳から涙が一筋落ちる。

 けれどその涙は、悲しみを含んだものでは決してなかった。

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