19.たった一つの答え
早めにお目当ての店に入った冬弥と理衣は、思いの外昼食を早く済ませ、十二時過ぎには店を出ていた。
「美味しかったね」
「ああ」
掛け値なしの言葉を、冬弥は告げた。
「ここって、誰のオススメだったんだ?」
「友人。地元の子で、リピーターらしいよ」
「なるほど。隠れた名店かな」
「そうかもね。けど、繁盛っぷりから見ると隠れているとは言えないかも」
行列ができつつある店を見ながら、理衣は苦笑し時計を確認する。
「さて、次は映画なんだけど……時間はまだあるよ」
「どのくらい?」
「開演が二時なんだ。駅から二駅だから、ここを一時間前に出ても余裕で着いちゃう」
「そっちに行って時間潰せばいいんじゃないか?」
「うーん、それも一つの手だけど……そうだ、腹ごなしに少し歩こうよ」
否定する要素も無かったため、冬弥は頷き隣同士で散歩する。冬弥の左を歩く理衣は、嬉しそうに腕を組んだ。
「はあ、なんというか、幸せ」
「それは何より」
「未来によっては、こういう関係がずっと続くんだよね」
「まあね……ただ、成就した未来の先まではわからないぞ」
「すぐに離婚する可能性があるとか?」
「可能性はゼロじゃない」
「それは、できればご勘弁願いたいなぁ」
口を尖らせ告げる理衣に、冬弥は「そうだな」と応じた。
二人は駅を離れ、住宅街の中へ歩を進めた。どこか見覚えのある景色――冬弥は文化祭の時、公園に赴いた道であると気付く。
「今日は、文化祭の行程をなぞるようなプランなのか?」
「あ、意図せずそうなってるね」
理衣は苦笑しつつも、歩くのはやめなかった。冬弥も時間があるため、これでいいかと思いつつ、ゆっくりとした歩調で進む。
冬弥はどこか、満たされた感覚を抱きつつあった。理衣からの言葉――幸せにならないと、という言葉が、いたく心に染み入った。どうしてそう思わなかったのだろうかと、不思議なくらいだった。
(でも、ある意味当然なのか……)
中学時代に戦う決心をした時から幸せになろうなどという感情はどこにもなく、あったのは憎悪だけ。結果として七海を傷つけ、理衣によって救われた。
「ねえ、そういえば七海はどうなの? 電話、繋がる?」
「ん、そうだな」
言われて、冬弥は再度携帯を掛けた。しかし、やはり繋がらない。
「駄目だ」
「そっか……そうすると、このまま未来が決まっちゃうけど」
「可能性がある以上、協議はしたいけどな……まあ、七海も将来が決まるのは嫌だろうし、携帯を見たら向こうから電話してくるだろ」
冬弥はポケットに携帯電話をしまうと、歩きながらふと呟いた。
「ただ、そうした未来でも、いいのかな……」
「お、心変わり?」
茶化すように理衣が言う。冬弥は「あくまで可能性」とだけ答えた。
「どうしようもなかったら、それを選ぶよ」
「あ、何か仕方なくって感じで、ちょっと嫌」
「……言い方はこうしかできないけど、その未来もいいか、って思い始めてる」
口添えするように冬弥が言うと、理衣は「その意気良し」と告げ、頷いた。
「わかってきたじゃない」
「全くだな」
冬弥は笑い、視線を正面にやった。そこで、道の左手に枯れ木が見えた。
「あ、前来た公園じゃない」
理衣が呟く。冬弥は文化祭のあの公園だとふと思い返し――固まった。
「……え?」
公園の入口間際になって、冬弥は立ち止まった。
「どうしたの?」
理衣が問う。冬弥は、何も答えられなかった。
記憶にある光景。しかし、それは一度赴いたからではなかった。それは、あの予知夢で見た、悲劇的な結末が待つ、あの景色。
今更ながら、この場所が思い出の公園と良く似ていたことを思い出す。冬弥は足が棒になって動かないのを自覚しながら、すぐに退避するよう頭が警告を発する。
「冬弥?」
不安になった理衣が、名を呼んだ。だが答えられず、冬弥は公園の入口を見る。
公園の中から、石畳の道を刻む規則的な足音が聞こえてきた。冬弥は総毛立ち、来るなと叫ぼうとした。
だが、声が出ない。時が止まったように足も動かない。あの予知夢の再現に向けて、準備をしているかのようだった。
* * *
七海が公園入口へ足を向けたのは、ほぼ無意識だった。
「……どうし、て」
予知夢の光景そのものだった。自分はこの見覚えの無い公園を歩き、外に出ると冬弥と理衣がいる。
「でも、そんなわけ、ないじゃない。こんな所に、二人が来るわけが――」
呟きながら、七海は足を動かす。頭は身を翻し、元来た道へ行くよう指示している。だが、止まらない。操り人形のように、足が勝手に動く。
そして次の瞬間にはなぜこうなっているのか理解できた。予知夢――そう、全ての予知夢が、この未来を暗示していたのだ。
今になって確信する。水曜日の予知夢は、事故を回避した未来なのだと。この場に役者が揃い、それでいて全員が無事だった。その結末だと。
やはり選択などなかった。頭が凍りつき、再び絶望が襲う。だとすれば、残る手段は一つしかなかった。残る選択、それは――
足が動き続ける。半ば信じられないような気持ち。頭の中がグルグルと回り、悲劇を回避しようと総動員する――けれど、思ってしまう。果たして事故を止めることこそが、悲劇を回避することに繋がるのか。
もし事故が起きなかったとしたら、奈落しか待っていない。これからずっと、冬弥の告白と理衣の告白――そして二人が結婚するという未来を想像し、苦しみ続ける。間違いなく、壊れてしまう――
公園の入口に近づく。本当ならば、まだ間に合う。このまま走って引き返せば、きっと何も起きない。けれど、もう二度と願いは叶わない。そして友人を犠牲にするわけにはいかない。ならば――
七海は近づく入口を見ながら、決心した。体が強張り、身がすくむ。しかし、一つしか残されていないのならば、それを選ぶしかない。
一歩踏み出す度、恐怖に陥り立ち止まりそうになる。それは紛れもなく、死の恐怖。
けれど、同時に訪れるのは愛する人と共に歩むことのできない絶望からの恐怖。二つがせめぎ合いながらも、足だけは進み続ける。二つが入り混じったことで、涙は乾いていた。しかし、悪寒だけははっきりと背筋に伝っている。
入り口が近づく。七海が見た予知夢の光景そのものだった。最早疑いようもなく、公園入口には冬弥達がいるはずだった。
死と絶望への恐怖の中――二人が並んでいる姿を見たら、どう思うのか想像した。すぐに嫉妬が生まれ、自分が嫌になる。
「冬弥……」
とても小さな声で、あらゆる苦痛が消えて欲しいと願うように、呟く。彼の姿を思い浮かべることで、ほんの少しだけ恐怖が和らいだ気がした。
もし冬弥がこの状況を把握したなら、来るなと叫ぶかもしれない。しかし声は飛んでこない。あるいはここに来ていないか、気付いて引き返したかもしれない。しかし、七海はどこか頭の中で断定していた。予知夢は絶対であり、一つ目の夢であってもシチュエーションが適合すれば、必ず実現する。
入口まであと少し。木々に阻まれまだ冬弥達の姿は見えない。枯れ木ばかりだというのに、公園入口しか状況が窺い知れない。いや、目を凝らせば木々の隙間から公園外の景色は見える。だが、七海はほとんどそれをしなかった。必要がなかった、と言えるかもしれない。
入口が間近に迫る――その時、右手から人影が見えた。七海は反射的に視界に捉える。
見覚えのある愛する人と、自分の友人が、その場に立っていた。
「七海……」
友人が、声を上げる。予知夢のように、駆け寄ってくることはなかった。冬弥の顔は驚愕で染まり、何か声を上げようとして口を開ける。だが、声にならない。
そこで七海は、二人に対して申し訳ないと思った。
(これが、果たして望んだ道だったの?)
自問自答する。引き返せば、きっと二人は笑って過ごせたはずだ。けれどそうしなかった。愛する人の――冬弥の幸せを望んでいたはずなのに、いつのまにか自分のために行動していた。
「……冬弥」
七海は声を発する。だが、続かない。一方の冬弥は予知夢の光景を思い出したか、棒立ちで動かない。
これから起こるはずの出来事を前に、一瞬だけ考えた。選択は四つ。その中で理衣が事故に遭えば自分と冬弥は結ばれる。冬弥が事故に遭えば、自分は抜け殻のような人生を送る。そして、このまま事故を回避すれば、冬弥と理衣は結婚する。
だから、選択は一つしかない。
七海は冬弥へ向け声を発しようとした。しかし、できなかった。
(ああ――)
終わりが近づいているのだと、自覚した。そうしてようやく、七海は全てを受け入れる覚悟ができた。
* * *
七海が目に入り、悲劇が生み出されようとしている中、ようやく冬弥の体は動き出す。まずは近くにいた理衣を、横に退けた。彼女を一瞥すると、硬い表情のまま小さく頷くのが見えた。
これで――後は七海に声を掛ければ回避できる。最初は硬直してしまったが、間に合った。そう冬弥は感じた。
七海に振り向く。彼女は、まだ同じ場所に立っていた。ただひたすら、冬弥を見つめて。
「七海!」
先ほどまで出なかった声が出た。避けろ――そう言いたかったが、後が続かない。七海は冬弥を見て、それでもなお動かない。
なぜ――咄嗟にどう叫べばいいかわからなかった。刻々と悪夢が迫っている。今ならまだ間に合う――冬弥は走ろうとした。だが――
「来ないで」
小さな七海の声が、聞こえた。冬弥は反射的に立ち止まり、彼女を見据える。
冬弥は理解してしまった。この場で決まっていない未来はただ一つ――七海自身が轢かれる。それを実行しようとしている。
馬鹿な――冬弥は足を向けようとした。だが同時に自分が轢かれる光景を思い出し、死の恐怖から足が止まってしまう。
「ごめんね」
七海は言う。小さな声だったが、ひどくはっきり聞こえた。冬弥は叫ぶ。意味のある言葉ではなかった。
彼女は、一瞬だけ葛藤するように肩を震わせた。躊躇する面持ち――しかし、耐え切れなかったように、冬弥に告げる。
「ずっと、中学のあの日から嘘と仮面で塗り固められた世界だったけど……」
語る七海の瞳から涙が零れた。冬弥にとっては普段見たことのない、彼女の涙。
「そんな世界でも、私は……冬弥の傍にいたかった。解放なんて、いらなかった……」
力無く、笑う。それは友人に向けていたものでは決してなかった。言わば、自分に良く見せていた、どこか陰のある笑顔――
(ああ、そうなのか――)
中学のあの日――嘘と仮面――解放――何もかもが、悲劇を前に理解できてしまった。自分は何もわかっていなかった。勝手に七海を解放しようと、一人芝居に興じていただけだった。自分がただ納得したいだけで、どうしようもないほどの傷を与えてしまった。
涙を流しながら、向けられた笑顔が本物だと認識し、冬弥は声を上げようとした。けれど、今度こそ何も言えなかった。悲劇が迫るから――スキール音が、耳に響き始めた。
七海もまた、理解していた。泣きながら、さらに陰が暗くなった。
「ごめんね」
もう一度、七海は謝った。冬弥は何かを叫ぼうとして――それを見た。
七海の背後に、乗用車が突っ込もうとしている光景を。




