11.彼女の決断
翌日、七海は学校を休んだ。母親には無理矢理仮病で押し通し、病院へ行くと告げ仕事に行かせた。
一晩中泣いたせいで涙は枯れ果てていたはずだった。しかし、それでも無限に悲しみが湧いてくる。
「冬弥……」
最愛の人の名を、一晩で何度呼んだことだろう。ベッドの上で顔を思い浮かべ、絶望的な距離を理解する。
「ごめんなさい……冬弥……」
布団にくるまり、謝り続けた。
疲れ果て、やがて声が枯れ始めた時、ようやく眠ることができた。浅い眠りを繰り返し、何度も昨日の会話を夢に見る。その度に枯れ果てた涙が生まれ、何度も愛する名と、謝罪の言葉を告げた。
変化が起こったのは、それからずいぶん経ってから。扉の開く音が聞こえ、七海は起き上がった。
「誰……だろう……」
時計を見た。驚くことに夕方の四時過ぎだった。けれど母親が帰ってくるにしては早すぎる。まさか早引けしてきたなどというわけではあるまい。母親がそんなことをしない人間なのは、七海が一番知っている。
階段を上る音が聞こえ始める。規則正しい音は、二つ。
(え――?)
二つと感じた瞬間、全身が粟立った。七海はすぐさま起き上がる。引きずるように体を動かし、布団にくるまりながら扉と背中合わせになる。
その直後、ノックが響いた。
「おい、七海。いるか?」
冬弥の声だった。心臓が大きく痛みながら鼓動し、声を出そうとする。
けれど、泣きすぎてまともに声にならない。
「眠ってるのか?」
「様子だけ見とく?」
次に聞こえたのは、親友の理衣の声だった。途端に息がつまり、呼吸ができなくなる。
「ああ、そうだな。眠っているとなると悪いけど」
「……と、冬弥?」
そこでようやく、声が出た。さすがに声は乾ききっていて、誤魔化すような真似はできなかった。
「お、七海。起きていたみたいだな……けど、酷い声だな」
「う、うん」
必死に取り繕おうと返答する。だが、同時にまたも涙が出てきた。会いたい。今すぐ会って謝りたい。やり直したい――
そうした感情を押し殺し、七海は冬弥へ尋ねる。
「お母さんに頼まれたの?」
「ああ。そういうこと」
「大丈夫だから……その、うつしちゃうと悪いから、今日はそこで遠慮してもらいたいんだけど……」
「ん、そうか? 滝橋さんも見舞いに来てくれたんだけど……」
「やっほー、七海」
朗らかな声を聞いて、七海は得も言われぬ感情が胸に膨れ上がるのを自覚した。次の瞬間それが憎悪であると理解し――胸に手を当て必死に抑える。
「ご、ごめん理衣……ここまで来てくれて」
「いや、大丈夫。そっちこそ大丈夫なの?」
「うん、声は酷いけど熱は下がったから」
「そ、良かった」
安堵する声。七海は理衣に対し心の中で謝罪しながら、冬弥に告げる。
「ごめん、冬弥。顔とかも結構ひどいから、できればここで退散してもらえると助かる。鍵は預かったままでいいよ。それは予備だと思うから」
「わかった。明日は学校来れそうなのか?」
「わからないけど、大事とって休むかもしれない。朝になったら連絡するよ」
「了解」
「お大事に」
理衣が最後に言うと、二人はその場を後にした。扉越しに耳を澄ませていると、階段を降りる音と、玄関扉の開く音が聞こえた。
閉められる音と共に、外から理衣の笑い声が聞こえてくる。
「う……」
唐突に、心が軋んだ。七海は胸を抑え、必死に言い聞かせる。
(私は冬弥の隣にいる資格なんてなかった)
嘘と仮面で騙し続けた自分は、隣に立つことすらおこがましいと思った。だが同時に、それでも彼の傍にいたいと思う。
涙は枯れ果ててほとんど出なかった。しかし、なおも出ようと目元が熱くなる。
(明日は、きっと無理だな……)
間違いなく心が折れる。明日休めば土日となる。どうにかその数日で、立て直す必要がある。
「……何か、食べないと」
虚ろな心のまま、七海は立ち上がろうとする。だが、上手く力が入らない。膝立ちとなりドアノブに手を掛けるが、腕が力なく落ちる。
思考が回る。扉の向こう側にいた、冬弥と理衣。隣同士で立つ姿を想像し、たったそれだけで心がひしゃげる――直後、出ないと思っていた涙が出た。
「……嫌だ」
否定の言葉を発する。そんな現実、見たくない。
意味もない叫びを上げた。どうにもならない冬弥との関係、とっくに断ち切られていた二人の絆。二つを狂おしいほど取り戻したかった。
果てしない恐怖と、悲哀が延々と繰り返される。夢であって欲しいと強く願った。これは一夜の悪夢で、明日になればいつものような日常が始まると信じたかった。
けれど、七海は気付いてしまう。
(いや……違うのか)
いつもの日常。そんな七海が想像していたものは、きっとどこにもなかった。存在していたのは無知のまま絆があると高をくくっていた、道化のような自分だけ。
「……そうか」
短く、震える声で呟いた。一人の部屋で天井を見上げる。今度こそ、涙は出なかった。会話を盗み聞きした時のような、虚無が到来する。ぽっかりと胸が空き、ようやく一つの事実に思い当たる。
(冬弥は選んだんだ……私を解放するために)
七海は一片たりとも望んでいない。だが、賽は振られてしまった。冬弥が話した内容と合わせ、身の振り方を決めなければならない。
「そんなの、一つしかないじゃない……」
呆然と、声を発した。乾いた声はあまりに寂しく、部屋に吸い込まれ消えていく。
「冬弥……」
最後に残ったのは、愛する人の存在。自分の願いは叶わない。ならば想い人が幸せになるのを見届けることが、責務であるように感じられた。
それがどれほど恐ろしいのか、七海にははっきりわかった。もし、冬弥が望み理衣と付き合い出したら――想像するだけで、またも泣きそうになる。
ボロボロだった。冬弥が離れる度に、どんどん自分が押し潰されていく。形を無理矢理戻しても、幾度となく絶望が襲い掛かり、今度は心を破壊する。
「けど……それが罪なんだ」
きっと冬弥の行く末を見守るのが、全てを騙してきた自分の罪であり、罰。
「なら……私はやるしかない……」
暗い穴へ自ら飛び込む感覚を抱きながら、七海は決意する。これから進む道は、地獄そのもの。だがわかっていても、歩き続けなければならない。
「ごめんね……冬弥……私は、私は……」
俯き、愛する人がいないまま誓う。願いが絶たれ、否応なしに進まなければならない。七海は今なおフラッシュバックするあの会話を耳にしながら、静かに、ひたすら静かに決断した。
七海が復活したのは、週が明けた月曜日だった。仕事ばかりの母親にも怪しまれずにすんだ。普段は家事すらやらない母親に、この時ばかりは感謝した。
「大丈夫?」
朝、教室へ入ると理衣が声を掛けてきた。七海は苦笑で応じ、
「ごめんね、なんか疲れが溜まっていたみたいで」
そう返答した。仮面の笑顔を伴って。
泣き続けた自分の体がまともに動いたのは土曜日。そこからさらに一日を要して、仮面を被ることができる程度には回復していた。
「何かあったら言いなよ」
理衣は思いやる言葉を告げると、席へ戻った。七海の胸に痛みが走る。だが拳を握りしめ、必死に耐えた。
横手を見る。心配そうに見つめる冬弥の姿。七海は大丈夫なことを示すため、微笑を浮かべ手を振った。冬弥は表情を見て少し安堵したのか、小さく頷いて真正面を向く。
やがてチャイムが鳴り、教師が現れホームルームが始まった。七海は一度深呼吸をして、冬弥と理衣を意識しないように、教壇に立つ男性の担任教師を眺める。
正直、冬弥と理衣がいる時点で逃げ出したかった。同じ空間にいるという時点で、あの会話を鮮明に思い出し、何も考えられなくなる。
取り繕うくらいに回復はしても、万事その調子で記憶がずいぶんと断片的だった。気付けば二限目が終わり、また気付けば昼休みだった。いつのまにか一緒にいる友人の席を訪れ、弁当を広げている。
けれど怪しむ人はいない。どうにか騙すことができている。
「七海」
昼食の終わり、理衣が声を掛けてくる。会話の予想がついていた七海は、優しい声で彼女へ応じた。
「何?」
「少し話があるんだけど、いい?」
「急に改まってどうしたの?」
小首を傾げ聞き返すと、理衣は席を立つ。
「外に出たいんだけど、いい?」
「うん」
七海は頷き立ち上がる。自分の席に弁当箱を残し、理衣と共に外に出る。
場所は中庭だった。ベンチがいくつか設置されており、その一つを理衣が指差し歩く。
隣同士でベンチに座る。横を見ると深刻な表情をした理衣がいた。
「いつになく、真剣な様子だけど、どうしたの?」
「あのさ、七海」
目が合う。言葉を慎重に選ぶように、理衣は口を開く。
「その、先週の話なんだけど」
「うん」
「……新城君と、少し話をして」
「うん」
相槌を打つ七海に、理衣はやりにくそうに顔をしかめた。
「えっと、さ……」
「告白でもしたの?」
先読みをしたかのように――実際はその事実を知っていたため――問い掛けた。途端に理衣の顔に動揺が走り、固まる。
「あ、う」
「なんだかずいぶんとテンパっているご様子だけど」
さっぱりした口調。自分でも驚くほど、演技ができている。
「う、うん。実を言うとそうなんだ」
「それで、なぜ私に?」
「え……」
呻き、理衣は言葉を止めた。
「前にも言ったけど、私に了解取らなくてもいいし、報告も別にいいよ?」
七海はそう答えたのだが、相手は硬直している。それを見て、さらに続ける。
「何か勘違いしているようだけど、私と冬弥は別に付き合っているわけじゃないし」
「そ、それはわかっているんだけど……」
言葉を濁し、七海の表情を窺う理衣。いつもと立場が逆転している。
「あ、それとだけど……私、新城君から聞いたんだ。予知夢のことを」
「……へえ?」
興味深そうに、七海は呟いた。
「冬弥、言ったんだ」
「そう。正直言って、実感ないんだけど」
「それはしょうがないよ。私だって部外者だったら信じてないし」
理衣はそこで、奇妙な顔をした。まるで自分の目論見が外れたような、戸惑った瞳。七海は彼女の表情を一瞥した後、何を考えているか気付いて声を上げた。
「もしかして、負い目があったの?」
「あ、うん。秘密を知ってしまったという気持ちが大きくて」
「なら、冬弥の思うようにさせてあげて」
七海は言い放つ。対する理衣は、驚くように返答する。
「い、いいの?」
「だって冬弥が自分の意思で話したんでしょ? それってかなり大きな進歩だと思うんだ。私はとやかく言わないから、好きにさせてあげて」
七海は静かに立ち上がった。一度空を見上げ、それから理衣に顔を向ける。
「冬弥が私のことをどうするかは知らないけど、もし訊かれたらそんな風に言っていたと伝えてもらえばいいよ」
「……本当に、いいの?」
「何で理衣がそんな顔をするの?」
七海は半ば本心で苦笑する。理衣のおどおどした態度を見たのが原因。彼女の顔は、それこそガンでも宣告されたような深刻さだった。
「私のスタンスは、予知夢を忌避している。ただそれだけ。もし理衣が介入して良い方向にいったら、御の字かな」
「――七海は」
遮るように、理衣は声を上げる。
「七海は、新城君のことが、好きじゃないの?」
核心迫る疑問――冷たい風が、流れる。沈黙が生じ、七海は理衣を見据える。彼女にとっては、こう映っていたはずだ――きょとんとした顔だと。
「……ええっと、何か勘違いしてない?」
そして、怪訝な声で理衣に問う。
「もし好きだったらとっくに告白してるよ。それに、色々あったからね……そんな気は毛頭なかったりするよ」
――その言葉を告げることができたのは、純粋に贖罪だと思ったからだ。
「だからさ、気にしないで。もし冬弥に今告白されたとしたら、私はゴメンと言って終わりだよ。なんというか、変な気遣いしないで欲しいな」
「――本当に」
理衣は、口をつぐんだ。七海に対する返答を、迷っている様子。
「本当だよ」
追い打ちをかけるように、七海は言う。
「だから気にしないで。逆にそうやって気を遣われる方が、私には辛いよ」
「……わかった」
理衣は、少し間を空けた後答えた。纏う雰囲気は、混乱以外の何物でもなかった。もしかすると、罵詈雑言を浴びせられると考えていたのかもしれない。
七海はもし、自分の罪を認識できなければ、酷い言葉を発していたかもしれないと思った。だが知っている――だからこそ、理衣が次に何を言おうとしているのが予想できても、口を挟まない。
「……私」
少し間を空け、理衣が言う。
「学園祭が終わったら新城君と付き合おうと思っているの。もちろん、受け入れてくれたらだけど」
「そういうのって、学園祭中に告白したほうが良くないの?」
「ううん。私ってイベントとかあると逆に落ち着かなくなっちゃうから、それでいいの」
どこか疲れた声で、理衣は応じた。
「実を言うと、学園祭の準備を無理に推し進めているのは、そこが少し関係していたりする。なんというか、目の前にそういう目的があったから、頑張っていたわけだけど」
「体、壊さないでよ」
「心配してくれるの?」
「うん、もちろん」
七海は笑みを浮かべながら、理衣に告げた。
「もし倒れられたら、準備が大変になるじゃない」
「……言ってくれたわね」
口を尖らせ、理衣が言う。七海は無邪気に笑い声を上げ、くるりと踵を返した。
「そういうわけで、話は終わり。いいよね?」
「うん。ごめんね」
「気にしないで。私がいて目の上のたんこぶだったから、理衣も結構辛かったでしょ?」
七海は首だけ振り向く。理衣は複雑な表情を見せていた。
「もうすぐ予鈴が鳴るだろうから、座っていたら遅れるよ?」
「わかった」
理衣は嘆息し、立ち上がる。それを見て七海は歩き出す。視界に理衣がいなくなり七海は思う――どうにか、騙し通すことができた。
胸がズキズキと痛み始める。だがそれでも、仮面は顔に張り付いていた。
嘘で塗り固めた自分の罪は、これからも嘘で塗り潰していく。それが七海の決断。
「私は応援しているから」
最後に、後方にいる理衣へ、はつらつとした声で言った――
それからまたも記憶が断片的となり、放課後になる。七海はその日、冬弥を残して一人で学校を出る。
夕日を見ると、途端に恐怖が忍び寄る。きっと空が茜色になる時間帯に盗み聞きしたためだろう。それからまたも記憶が飛び、やがて家に辿り着いた。
家に入る。そして、自室に戻ると泣き崩れた。孤独になれば仮面が剥がれ、溜め込んだ悲しみが押し寄せてくる。けれど、その全てが罪だと認識し、受け入れ続ける。
救いなど存在しない咎の道を、七海は一人歩き始めた。




