10.全ての原因
――階段を上ってやり過ごした七海は、座り込んで遠ざかる冬弥達の会話を聞いていた。
「……は」
口から漏れたのは、意味を成さない言葉。
「は、は……」
それが笑みであるのに気付いたのは、口を歪ませようとしているのを自覚したためだ。
「は――」
力が、入らない。手すりを握ろうとする左腕が、震えていた。
今更ながら、何もかも理解してしまった。自分がどれほど愚かなことをしていたのか、まざまざと見せつけられてしまった。
頭の中がぐちゃぐちゃで、思考がまとまらない。それらを整理しようとするのか、それとも立ち上がろうとするのか自分でもわからない。
冬弥達の声は、少しすると消えた。自分が盗み聞きしている事実など、二人は知らないだろうし、このまま駅へ向かっても寄り道する二人に、遭遇する可能性は低い。
それから三分程を要し、七海は立ち上がった。頭の中は整理できていないし、あまり力が入らないが、歩くことはできた。
不思議と涙は出なかった。号泣してもよさそうな内容だったのに、乾いているのか一滴も出ない。だけどこれは悪い方向なのだと理解できた。あまりにも絶望的な内容であったため、心が記憶から排除しようと押しのけているのだ。
残ったのは限りない漆黒の虚無。心の中にあったものは全てが飲み込まれ、最早何も残っていない。
無言のまま、七海は歩き始める。胸の痛みも無い。むしろ、歩く感触以外何も感じられない。耳も馬鹿みたいに聞こえない。
気が付くと下駄箱にいた。景色が半ば断片的に映る状況に、自分は大丈夫なのかと問い掛けた。答えは無論、大丈夫じゃない。へたりこんでもおかしくないが、それでも七海はスリッパを履き替え外に出た。
その時、電話が鳴る。無意識に電話に出ると、母親の声が聞こえてきた。
『あ、七海?』
「……うん」
僅かな間を置いて、声が出た。悟られまいとする本能からか、いつもの声。
『ごめん、急な仕事が入って、今日は帰れそうにない』
「午前様?」
『そうなると思う。お父さん出張だし、気を付けて』
「わかった。夕飯は?」
『こっちは食べるから心配しないで。そっちは大丈夫?』
「うん、何か適当に買って帰るよ」
『お願い』
短い会話はあっさりと途切れた。七海は携帯電話をポケットにしまい、無言のまま歩き出す。
次に視界に映ったのは駅だった。反射的に周囲を見る。冬弥達の姿は無い。黙ったまま駅に入り、ホームに立つ。左右を見回しても、やはり冬弥達の姿は無い。
電車が来る。乗り込むと、窓際に立ち外を見た。ガラスに映る自分の姿を呆然と眺める。普通と変わらない顔のようにも見えたし、これ以上にないくらい酷い顔にも見えた。
(この何も変わらない表情が……原因だった……)
何の感情も無く、七海は心の中で呟いた。
仮面は、冬弥すらも騙せる程に精巧だった。だからこそ、冬弥もまた友人と話す笑顔が仮面だと気付かなかった。おそらくこれは罪なのだろう。友人達に冬弥との関係を取りざたされ、仮面を着けた。全てが嘘で、その報いが今。
(そんなんじゃないよ。表現しにくいけど、ずっと一緒にいるからとしか言えない)
中学の時言ったそれが、冬弥に全てをあきらめさせる結果となった。
(その声を聞いて、俺は失恋したんだよ)
喪失感が広がった。どちらにせよ自分が恋心を自覚した時には、手遅れだった。
手遅れのまま冬弥も停滞を選び、両者が気付くことなく高校に入った。
(高校に入ってから、ずいぶんと見方が変わったからな……その気持ちは、もうないよ)
「う……」
呻くような言葉が出た。
泣くかもしれない。感情が爆発すれば、その場にへたり込んで泣き喚くかもしれない。七海は必死に押し留める。押し殺し、全てを封じ込める。
やがて電車が到着した。ゆっくりとした足取りで降りる。走り出せば、感情が壊れるかもしれない。薄いガラスの上を歩くように、自分の感情を刺激しないよう歩く。
駅を出て、近くにあるコンビニに入る。適当に選んだ弁当一つと、ペットボトルのお茶を購入した。愛想よく挨拶する店員に対し小さく頭を下げ、コンビニを出た。
家へと歩く。母親は深夜まで帰ってこない。父親も泊まりの出張なので家は自分一人。逆に、好都合かもしれない。
次に我に返った時は、家の前にいた。周囲を見る。誰もいない。陽は沈み暗くなり始めていた。
ポケットから鍵を取り出して、家に入る。暗がりの中リビングへ入り電気を付ける。コンビニの袋を机の上、鞄を机の下に置くとカーテンを閉めた。テレビを付けると、ニュースがやっていた。行為全てが、無感情のまま行われる。
面白いことに家に帰ると空虚だけが残り、涙がまともに出なかった。
(このまま眠る準備までしよう)
思うと、途方もない虚無感と疲労感を胸に、七海は買ってきたコンビニの袋を開ける。
レンジで温めることもせず、そのまま食べ始める。奇妙なことに味がしない。お茶を飲んでも水を飲んでいるように思える。テレビを見ても何も入ってこない。頭に浮かぶのは、盗み聞きした、冬弥と理衣の会話だけ。
(笑顔を向けられるようなことって、ほとんどないからさ。無理をしていると思うんだ)
食べながら、気付いた。自分は、仮面を被った笑み以外に、本物の笑顔をほとんど出していなかった。冬弥との会話で笑うことはもちろんあった。けど、仮面と本物の見分けがつかなくなってしまった自分の笑顔は、恐ろしいほど人を騙し、七海自身に限りない傷を負わせた。
「解放……」
苦しみから、解放。
冬弥はそう言っていた。確かに冬弥の目からすれば、自分は予知夢を憎み、予知夢を通して接する冬弥とは、笑顔も少なく接していた。
そこで冬弥は七海が苦しんでいると察し、解放してあげたかった。
「……はは」
乾いた笑いと共に、頭を抱えた。割り箸を取り落とし、半分は残る弁当を見る。
これ以上食べる気が起きなかった。そのままお茶を半分ほど飲んで、弁当に蓋をした。空腹を感じればまた後で食べればいい。
食事を済ませると鞄を手に取り、二階に行き自室へ入る。眠りたい衝動を抑えながら、七海は洋服ダンスからパジャマを取り出した。鞄を机に放り投げパジャマを抱えて脱衣所へ向かう。
制服を脱ぎ散らかしてシャワーを浴びる。気温を考えれば寒かったが、ぐちゃぐちゃになりそうな思考を抑えるには、丁度良かった。
風呂場から出ると、着替え髪を適当に乾かして、ぞんざいに眠る準備をする。一刻も早く眠りたかった。思考が段々と冬弥と理衣の会話で埋め尽くされていく。空虚な心のまま眠りたい。そうじゃなければ、きっと体がバラバラになってしまう。
再度リビングに入ると、テレビがつけっぱなしになっていた。それを消して電気も消す。戸締りだけは確認して、二階に上がる。
自室へ入る。暗い室内はひどく寂しく、自分の心境を反映している気さえした。
(眠ろう――)
心の中で呟いて、七海はベッドに潜り込んだ。すぐにまどろみ始め、目を瞑った。
このまま眠れる。明日になれば、少しくらい頭の中もマシになっているだろう。そう思うことにして眠りについた――
見た夢は、地獄だった。
延々と盗み聞きした会話がリピートされる。それがまだ現実なのか、夢なのかすら判断つかない。
やめて――心の中で悲鳴を上げる。
「そんなんじゃないよ。表現しにくいけど、ずっと一緒にいるからとしか言えない」
夢の中で再生される言葉。中学時代の自分の声と、冬弥の声が重なって聞こえる。
「高校に入ってから、ずいぶんと見方が変わったからな……その気持ちは、もうないよ」
拒絶に等しい言葉。だがそう冬弥に言わせたのは、自分だった――因果応報。
やがて聞こえたのは理衣の告白。冬弥が歩み寄ることを承諾し、会話は一区切りとなる。七海にとっては果てしなく遠い一歩が、理衣と冬弥の間で達成された。手を繋ぐことさえできないその距離を、理衣は易々と踏破する。
気付けば夢の中の自分は泣いていた。それこそあの場で流すはずだった涙だ。心が壊れていなければ、間違いなく流していたそれが、今になって噴き出ていた。
夢の中でさえ、会話の中に飛び込めなかった。二人に拒絶されると半ば認識していた。最愛の人が怪訝な顔を浮かべる姿を想像し、恐怖する。
立ちすくむ中で、何度も会話が繰り返される。絶望しか感じられない、悲しい会話。
「新城君は、こう言ってたよね? 私に話したのは、願いだって」
休みの日にあった買い物の会話。あれが始まりだった――いや、違う。どこかで気付いた。始まりではなく、終わりだ。
七海と冬弥の、凍りついた時間の終わり。
(やめて――)
「そんなんじゃないよ。表現しにくいけど、ずっと一緒にいるからとしか言えない」
後悔の言葉。今すぐにでも懺悔したい。やり直せるのなら、全てをゼロに戻したい。
「高校に入ってから、ずいぶんと見方が変わったからな……その気持ちは、もうないよ」
終焉の言葉。聞きたくなかったそれは、手遅れだったことをはっきりと表していた。
「そうだな、自分が停滞していたんだとわかったんだから、進まないといけないな」
七海は、冬弥がそう言った時教室を覗き見た。二人が握手をしている姿を認める。
理衣は扉に背を向けていた形なので、表情は見えなかった。冬弥も夕日の逆光に照らされて、顔が見えない。そして、自分がいることには気付かれなかった。
二人の様子を見て、七海は理解した。冬弥は、間違いなく笑っていた。予知夢に対し大きな一歩を踏み出すきっかけを与えてくれた、理衣に感謝している。
自分ができなかった、停滞しかできなかった自分に刺さる、最後の一撃――
目が覚めた。月明かりしか無い部屋で、白い天井がうっすらと見えた。
呆然としながら、傍らにある時計を見た。暗がりの中で確認できたのは、九時を差していることだけ――悪夢のようだった。たった三時間しか経っていない。
さらに風邪でも引いたように、汗が噴き出ている。袖で首元を拭う。同時に、視界がぼやけているのがわかった。
「……あれ?」
泣いているのだと自覚したのは次の瞬間。夢とシンクロして、涙を流していたらしい。
直後、眠るのが恐ろしくなり、上体を起こす。
「ずっと、こんな悪夢なのかな……?」
自嘲的に、笑う。肩を抱きしめるように手を回す。手が震えているのがわかった。
「これが、罰なのかな……?」
嘘で塗り固めて来た自分の、罪。それが今になって自分の手元に還ってきているのかもしれない。
「……どうすれば、どうすれば、許されるの?」
たった一人の部屋で、呟いた。同時に、心の中で塞がっていた感情が頭の中で爆発する。涙が零れ、止まらなくなる。
声にならない悲鳴を上げた。両腕を胸に当て、子供のようにひたすら泣き始める。無理だった。何もかも耐えられなかった。
「……とう、や……」
やがて言葉を成したのは、彼の名だった。冬弥と理衣の会話が、頭の中で回る。何もかも、何もかも手遅れで、断罪され、自分の想いが決して届かないことを悟った。
「……私……」
繰り返される言葉に対し、真実が零れる。目の前に彼がいるかのように、口を開く。
「ずっと……冬弥のことが……好きだったんだ……」
そうだ、と思った。自覚した時からではなかった。
ずっと前――予知夢を共有しだしたその日から、冬弥と一緒にいたかった。それを深く認識したのが、あの時だった。
けれど、全て無に帰したのは自分だった。どうしようもない後悔の念だけが渦巻いて、七海を離そうとしない。
「傍にいたい……冬弥の傍にいたい……」
ズタズタになりつつある心の中で、うわ言のように呟く。
けれど、決して届かない。最早、告白する資格すらなかった。最愛の人すら騙してしまった嘘と仮面によって、終止符を自分で打ってしまった。
意味もない叫びが、口から漏れる。ぐしゃぐしゃに胸が潰れ、心の全てが壊れる。だがそれでも、冬弥と理衣の会話が断罪するように繰り返される。自分の隣で会話をしているかのように、はっきりと耳に聞こえる。
逃れるように、頭を振った。けれど意味は無い。両手が力なくベッドに落ち、それでも泣き続ける。
「冬弥……ごめんなさい……ごめんなさい……」
なぜ謝るのか自分でもわからなかった。けれど、全てをやり直したくて、許して欲しくて言葉が出る。
今までずっと隣を歩いていた自分が、これほど惨めだとは思わなかった。隣にいて冬弥を傷つけ、全てを否定していた。いる価値の無い人間だと宣告され、代わりに前へ踏み出そうと助言する理衣が、冬弥の心に入った。
彼女に落ち度はない。むしろ、冬弥を助け出すであろう救世主。
「何もできなくて……ごめんなさい」
停滞を選んだ全てが、冬弥を苦しめていた。本当に、ただ隣を歩きたいがために、自分は何もしてこなかった。
「やり直したい……もう一度……もう一度……」
心の底から声が出た。けれど、決して叶わない。
七海はその後、一晩中泣き続けた。母親が帰って来たのがわかっても布団にくるまり声を殺して泣いた。止まらなかった。
悪夢が延々と繰り返された。深夜に差し掛かろうとしていた時、全て諦めた。湧き上がる悲しみを享受し、泣きながら全てを認めた。認めざるを得なかった。けれど、自身の罪をはっきり認識しながら、それでも七海は冬弥の名前を呼び続けた。
それが、唯一の救いであるかのように――




