1.二人にとっての夢
彼にとって『夢』とは、自分の人生を脅かす害悪でしかなかった。
なぜか――それは決定的な予知夢であったためだ。本来ならば歓迎されてもいいようなものである予知夢という存在。しかし彼には、自身の人生を強制的に決定づけられる、呪いのようなものでしかなかった。
物心ついた時から全ての夢がそうだった。原因はわからない。そして出始めた理由を探る気はなかった。そんなことをしても無意味だと頭で理解していたからだ。
彼がどれだけ忌避していても、予知夢は現れる。また今日も――そんな想いを抱きながら、毎晩眠りに落ち、夢を見る。
その日の夢は、高校へ続く通学路を歩いている光景からスタートしていた。自宅から最寄りの駅まで歩いて十分。それから十五分程電車に揺られ、駅から十分歩き学校に到着する。今回の夢は最後の十分間、坂を上る光景。ドラマのワンシーンのように、唐突に場面が始まる。
学校へ進んでいると、横から彼を呼ぶ声が聞こえた。
「冬弥、聞いてる?」
女性の声。それは彼にとって、幼い頃から聞いてきた声。
「ああ、聞いてるよ。七海」
少しうんざりしながら返したのは、会話がつまらないのではなく、これが予知夢の範疇であるのを夢の自分が悟っているためだと、理解する。
顔を彼女に向ける。肩にかかる程度の黒髪を揺らし、ぱっちりとした瞳と綺麗な色合いの唇が特徴の彼女は、予知夢の理解者である、宮永七海だ。なぜ彼女が夢を知っているのか。それには明瞭な理由がある。
彼女は冬弥と予知夢を共有し、悩まされている人間だからだ。
「それで、私は本を探しに行ったんだけど」
そこまで聞いた時、冬弥は首を戻した。途端、正面に電柱。避けようとしたが間に合わず、頭を電柱にぶつけてしまう。
「大丈夫?」
慌てて声を掛ける七海。彼はそれを手で制止しつつ、ぶつけた場所を手で押さえる。額の左側。触ってみると痛みが走る――ように思われる。夢の中なので、痛みは実際に感じてはいない。
「保健室とか、行く?」
「いや、いいよ」
彼――冬弥は首を振って拒否する。構わず歩き進め、視界には通う学校が見えた。
そこで、突如夢が途切れる。次に見えたのは、授業を受け席に座る光景。黒板上の時計を見ると、あと少しで昼休憩に入る時間。
冬弥は頭を抱え、どうすればいいか悩んでいた。夢の中なので感じないのだが、どうもぶつけた場所がズキズキと頭痛のように襲っているらしい。夢の中でそれを深く認識した時、授業をする年配男性の現国教師が声を掛けてくる。
「新城、どうした?」
呼び掛けられたが、冬弥は「大丈夫です」と軽く応じる。
しかし教師はチョークを置き近づいてくる。その間に冬弥は右方向を見る。一席分挟んで座る七海が、心配そうに見つめていた。
「どこかぶつけたのか?」
「ええ、ちょっと」
近づいてきた教師の問いに、観念したように冬弥は答え患部を見せた。
教師にはひどく痛そうに映ったのかもしれない。彼は「保健室に行って来い」と言い残し、再び教壇へと戻った。
冬弥は仕方が無いと踏ん切りをつけ、立ち上がる。そのまま教室を出て誰もいない廊下を歩き、二階から一階へ降り、廊下を進み保健室へ入る。
「どうしたの?」
四十代の女性保険医が冬弥に気付き声を掛ける。事情を簡単に説明すると、彼女は患部に湿布を張ってくれた。
「これで様子を見てください」
「ありがとうございます」
冷たい湿布の感触が少し痛みを緩和する。保健室を出ると、そのタイミングでチャイムが鳴った。
「昼飯、買わないといけないな」
呟き、冬弥は購買へ向かう。チャイムが鳴ったばかりなので、人はまだいなかった。
「いらっしゃい」
おばちゃんから呼ばれつつも、品定めを始める。すぐにある物が目に留まった。購買で人気のパンを詰め合わせした物。冬弥は迷わずそれを選んで買った。
ビニール袋を掴みその場を後にした時、数人の男子生徒がこちらへなだれ込んできた。それから一分と経たない内に購買に人が殺到し、冬弥はそれを眺めつつ教室へ向かう――
そこで、夢から覚めた。
「……ずいぶん、俗物的な夢だな」
見慣れた白い天井に目をやりながら、冬弥はため息をつく。上体を起こし、傍らにある目覚まし時計を確認。七時前。起きる時間だ。
「行くか」
ベッドから出て、冬弥は支度を始める。くだらない夢を忘れようと、ひたすら準備に没頭し始めた。
* * *
彼女にとって『夢』とは、彼――新城冬弥との関係を繋ぐ一つの絆だった。
物心ついた時から見えていた予知夢は、常に彼と一緒だった。だからこそ彼女はそれを続けたいと思っていたし、何より手放すのは怖かった。だがこの意思を伝えることは、自殺行為であると認識している。彼が予知夢を拒絶し打破しようと必死だった時期を、しかとその眼で見ていたからだ。
「冬弥、聞いてる?」
現実で、夢での会話をなぞるように言う。
「ああ、聞いてるよ。七海」
相手である冬弥は、うんざりした様子で応じる。会話が嫌なのではない。予知夢であることを嫌だと思っている。長く共に過ごした彼女――七海は、そう確信していた。
冬弥が顔を七海へ向けた。夢の光景そのままであったため、心の準備はできていた。しかし不意に目線が合えば、鼓動が高鳴る時もある。七海はそれを必死で押し隠し、柔和な笑みという仮面を付け、応じるのが常だった。
鼻筋が通りなおかつ長身の冬弥は、女子の話に上ったこともあった。しかし女房役のような立場の七海がいるため、ほとんどの人は特に干渉しないままで終わっている。
それは七海にとっては嬉しいのだが、冬弥がどう考えているのかはわからない。
「それで、私は本を探しに行ったんだけど」
七海は夢を再現するように話す。その言葉が言い終える前に、冬弥は立ち止まる。彼の正面には電柱。それを回避するように横に逸れ、再び七海の隣を歩き始める。
「……結局、今回はどんな結末だったの?」
少し間を空け、七海が問う。冬弥は憮然とした面持ちで答えた。
「いつもは食えないセットのパンを買えるか、買えないか」
「当たりだね」
「ああ、当たりだ」
未来に差しさわりの無いなんでもない予知夢のことを、二人の間では「当たり」と呼んでいる。逆に未来に大きく関係する予知夢の場合は「外れ」だ。
「でも、どうして電柱に頭をぶつけることがパンを?」
「昼休み前の現国の授業で、保健室に行くんだよ。湿布を貼られてチャイムが鳴って、一番乗りでパンが買えるというわけ」
「なるほど」
ずいぶんと小さい内容だと七海は思い、クスクスと笑う。
「でも、いいの? 現国の授業はいつも遅いから、目当てのパン買えないんじゃない?」
「怪我するよりは、そっちの方がマシだよ」
冬弥は肩をすくめた。それもそうかと七海は胸中で呟き、その話題はやめにした。
視線を正面に向けると、高校の正門が見えた。今日はひとまず、何事も無く過ごすことができるようだ。
「それで、さっきの話の続きは?」
校門に近づこうとしている中、冬弥が尋ねる。七海は少し驚いた。普段ならあまり食いつかないような話題なのだが。
「ああ、うん。えっと、理衣もその後図書室に入って来て、一緒に探すことになって、結局見つからなかった」
「誰かに貸し出されていたというオチ?」
「その通り。思えばちゃんとカウンターで確認取ればよかったんだよ。なのに私達はそれをせず、三十分という時間を無為に過ごしたわけで」
冬弥は笑う。七海は少し嬉しくなった。こんな些細な話で、笑みを見せてくれる。そして何より、自分が隣にいられるという事実に、幸福感を覚える。
予知夢という不幸な絆であっても、冬弥は自分を傍に置いてくれている。小さい頃からの付き合いということで、結局高校までずっと一緒で、これまで隣にいられた。七海にとっては十分すぎる結果だ。
「そういえば冬弥。文化祭の準備の日程、聞いた?」
ふと、七海は話題を変えた。冬弥は目を細めながら、聞き返す。
「日程? 決まったのか?」
「うん。ホームルーム終了後に積極的に動いている子が決めたらしいよ。理衣から連絡があった」
「そうか。ただ準備って、うちのクラスは飲食店だろ? 文化祭前に何するんだ?」
「調理の練習とか。もちろんそれは担当の子ばっかりでやるんだけどね」
「七海は?」
「私は技量が足らず店員及び、教室の準備担当に」
「俺も多分そうだろ?」
「うん」
ペアで括られることの多い二人は、行事に関してもちょくちょく同じ担当に割り振られる。冬弥はそれに関して、特に嫌悪感はない様子。
「今月末だからまだ先のような気はするが」
「早いと思うよ。それにしても、ずいぶん無茶だと思わない?」
「何が?」
「テスト明けにいきなり文化祭だよ? 日程的に仕方が無いとはいえ、いくらなんでも」
「確かにそうだな」
顎に手をやり、冬弥は言う。
「でもテストで準備が滞るわけじゃないだろ? 例年そうしてきたし」
「それはそうだけど」
淡泊に返答する冬弥に、七海は深く関わるつもりが無いのを機敏に察する。
冬弥はイベント事に携わるのを極力避けている。無論、予知夢が原因だ。
「俺は言われたように動くだけだな」
「そう」
付き合いが悪い人間のように、見えるかもしれない。けれど七海にとっては、冬弥のそうした行動方針を望んでいる部分もある。
予知夢に囚われ交友関係を広げようとしなかった七海と冬弥は、それこそずっと二人で生きてきた。親しい友人もいたが小学校、中学校、そして高校を経て自然と疎遠になり、結局古くからの繋がりのある人間は互いだけだ。
冬弥は誰かと強い結びつきをきっかけにして、予知夢が伝染するのを恐怖しているのではないか。だからこそ外界を閉ざし、予知夢のことも決して口外しないのではないか。
口では話さなかったが、そういう情感が冬弥の胸にあるのは、七海にも理解できていた。それについては、とやかく言わなかった。自分の想いをぶつける勇気のない七海は、予知夢が悪いとしてもこの関係を引っ張ってきた。ずっと、この関係を維持してきた。
正しいかどうかはわからない。けれど、今まで最悪の予知夢――例えば、冬弥に誰かが告白し、それを受け入れてしまうといった出来事――を見たことはなかったのは、ひとえに狭い交友関係のおかげであるのは、明確な事実だ。
(私は、やっぱり卑怯なのだろうか)
隣を歩いてきた彼と、しっかり心通わせたい。そんな願いを抱きながらもできず、それでいて二人でいたいと願っている。醜く愚かかもしれない感情は、七海の心に暗い影を落とす。だが進展させる勇気は無い。無為無策のまま、歩き続けるしかない。
様々な感情を押し殺し、七海は今日も冬弥の隣にいる。今はまだ、このままで――そう自分に言い聞かせるように心の中で呟き、七海は校舎の中へ入った。




