068⚫️エゴの境界線
ゴキブリに躊躇なく殺虫剤を噴射する一方で、人里に降りてきたクマの駆除には「かわいそう」と抗議の声が一部からあがる。この差は、一体どこから生まれるのか。同じ命でありながら、あるものは「害虫・害獣」として排除され、あるものは「保護動物」として守られる。その境界線を突き詰めていくと、そこには動物側の罪や善悪など存在しない。すべては、100%「人間の都合」という極めて主観的な身勝手さによって線引きされている。
人間が動物を扱う基準は、常に自分たちの利益、安全、そして感情の損得勘定に基づいている。人間の健康を脅かすゴキブリは衛生の敵として抹殺され、致死率100%の狂犬病を媒介するリスクを持つ野良犬は、公衆衛生の名のもとに法(狂犬病予防法)で強制捕獲される。一方で、同じ「飼い主のいない動物」であっても、人間の直接的な命の危険が低い野良猫には捕獲の義務がない。さらに、日本の生態系を豊かに保つとされる野生の鳥やクマは、鳥獣保護管理法によって原則として1羽、1頭たりとも勝手に傷つけることは許されない。もしそれが絶滅危惧種であり、他国の“外交カード”であるパンダが野良で見つかれば、国を挙げて最優先で保護されることだろう。
つまり、人間は動物そのものを見ているのではない。その動物が「人間の社会にどう都合が良いか、あるいは悪いか」という鏡を通して、命の価値を品定めしているに過ぎないのだ。
こうした人間のエゴは、時に取り返しのつかない過ちを犯してきた。かつて明治時代の日本では、家畜を襲う「害獣」としてニホンオオカミに賞金をかけ、組織的に徹底駆除した。アメリカでは、農作物を食い荒らす「大害鳥」としてリョコウバトを容赦なく撲滅した。結果、それらは地球上から永遠に姿を消した。
人間は自らの都合で邪魔者を排除し、完全な勝利を収めたはずだった。しかし、天敵を失ったシカやイノシシが爆発的に増加し、現代の森や農地を荒らし尽くしている。人間は絶滅という最悪の結末を迎えて初めて、自分たちの都合で自然のバランスを変えることの恐ろしさに気づき、激しく猛省することになった。
現代において、行政や専門家がクマの駆除に慎重になり、私たちが野生動物との共生を議論するようになったのは、人間が優しくなったからではない。「やりすぎた駆除」が巡り巡って自分たちの首を絞めるという、過去の苦い教訓を学んだからだ。守るのも、殺すのも、その匙加減に頭を悩ませるのも、結局のところすべては人間の都合なのである。
私たちは自然の管理者でもなければ、命の裁判官でもない。ただ自分たちの都合に振り回されながら、生きるためのルールを書き換え続けている。その冷酷な傲慢さを自覚することこそが、私たちが動物たちの命と向き合う上での、本当のスタートラインなのかもしれない。
そして今日もまた、「自分の都合」を正義という名で脚色しながら、ヒト同士が互いを「害獣」であるかの如く「駆除」し合っている……。そう考えるのは、果たして傲慢な、穿ちすぎた見方なのだろうか。
「’駆除’なんてされてたまるかあ!オレたちはなあ、由緒正しい海賊なんだあ!貴重な生き残りなんだぞお!大海原を自由に行きかい、ふんぞりかえった金持ち連中から不埒な富を巻き上げる!いわば正義の使者だあ!海賊帝にオレはなる!」
「いえ、ボス……そこまで言うのは、ちょっと、どうですかねえ。」
塗装も剥げた高速船が、エンジェラム領海へと静かに侵入を始めた。




