003⚫️パンが食べられないのなら
その世界線のその時間軸で“エリート”と呼ばれる層が抱くという学説、「ラグジュアリー・ビリーフ」がもし一定の真実を含むのだとすれば、それは滅亡直前の項羽が城の兵糧を食い尽くした愚行の再来である。
彼ら彼女らは「環境保護」や「伝統の解体」といった進歩的な理想論を掲げ、自らの道徳的優位性を誇示すると言う。しかし、その理念が極端化したとき、治安悪化や経済的混乱のコストを支払うのは防壁の外にいる一般庶民だ──という指摘は、実は最終的にはそれでは済まない。
この思想は、未来の社会秩序という共有財産を切り崩し、今この瞬間の階層を維持するための「短期的な保身」に局所化されている。「自分たちだけは逃げ切れる」という傲慢さゆえに、乗っている氷山を自ら砕いている事実に気づかないのだ。土台を腐らせた特権階級が歴史の敗者となるのは必然である。
現実の痛みを無視した「洗練された正しさ」の乱費は、やがて社会の激しい反発を招き、遠からず自らの首を絞める。目先の宴に酔いしれる現代の英雄たちは、自らが招く破滅の足音にあまりにも思慮が浅い。
「パンが食べられないなら、お菓子を食べればいんじゃない?」と公言した貴族の逸話がある。
だが、この言葉が本当に発せられた証拠はどこにもない。貴族が現実を知らなかったのか、あるいは後世の誰かが批判のために作り上げた寓話なのか。もしくはその両方で、語り手も聞き手も、それが“現実を改善する物語”だと信じたのかもしれない。逸話とは、しばしば誰かを断罪するために磨かれ、学説とは、しばしば何かを説明するために単純化されるのだ。
もし“真のエリート”が賢明さを備えているのだとすれば、まずその危うさに気づくはずだ。 物語としての逸話、モデルとしての学説──それらを鵜呑みにした瞬間、思考は停止し、判断は歪む。
貴族はギロチンにかけられ、社会の急変は民衆を苦しめた。 歴史も自然も、解釈や学説の都合とは無関係に動いていく。
いくら堅固に隔壁を築いても、同じ船に乗っているのならば、沈没のときは一蓮托生である。 学説は考え方の一助であり、行動は現状を変える力である。だが、学説も行動も、自らの思索を経ずに振る舞えば、破綻するのは他者ではなく──自分自身なのだろう。
というこの話も、是非、自分自身で咀嚼してみてくださいね。




