029⚫️医師と裁判官
あれ、こんなニュースコメントもあるんだ。
ヤオと一緒に読もうかな。
ミサヨはそっと記事を開いた。
【「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね】 (恩師である医師の最期の言葉)
【それでも私は人をなおすんだ! 自分が生きるために!!】 (安楽死を勧める医師 に対しての反論)
裁く者たちのカルテ:「不完全さ」を背負う覚悟について
法律という物差しは、一見すると冷徹で完璧なシステムのように見える。しかし、その物差しを握り、他人の運命に判決を下すのは、どこまでも不完全な「人間」である。
例えば凄惨な事件があっても、現場の防犯カメラ等の映像が無ければ、対立する供述のどちらを信じるかという、神の領域に近い判断を迫られる。人の命に関わる事案に、もし自分が裁判官や裁判員として法廷に立つならば、どのようにその重圧と向き合うべきなのか。
医師の“なおす”という行為には限界があるように、裁判で“裁く”という行為にもまた、深い限界がある。わたしは人の命に関わった、無免許医が主人公のあの「不朽の名作」を思い出してしまう。
作中で、主人公は稀代の天才外科医として描かれながらも「医者は神ではない」という限界に苦悩する。彼の恩師は「医者は人をなおすんじゃない。人をなおす手伝いをするだけだ。なおすのは本人なんだ」「人間が生きものの生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね」と諭した。
裁判官や裁判員も、事件を「解決」する全能の神ではない。過去に起きた悲劇を巻き戻すことはできず、被害者の命を蘇らせることもできない。できるのは、残された不完全な証拠と、証言台に立つ人間の言葉を必死にかき集め、法というメスを執ることだけである。
だとすれば、裁く者が持つべき第一の姿勢は、「自分は間違えるかもしれない」という徹底的な畏怖と謙虚さである。SNS上にあふれる世論の激しい怒りや、凄惨な事件への感情的な嫌悪感は、時に私たちの目を曇らせる。
前述の物語で、主人公のアンチテーゼとして安楽死を勧める医師が登場する。「救えないものは死という合理性で処理すればいい」と主人公に迫り、苦痛からの解放が優先されると主張する。だが、裁判において、裁く者たちは困難な審議をするという「苦痛」から逃げることはできない。私たちは、「感情に流される傲慢さ」も、「先例をなぞるだけという冷酷さ」も捨て、目の前の複雑な情報に向き合う必要がある。
命の限界を知りながらも、主人公は「それでも私は人をなおすんだ! 自分が生きるために!!」と叫ぶ。この誓いこそ、不完全な人間が他者に向き合う時の覚悟である。
裁判での姿勢も同じだ。絶対的な正解はどこにもない。それでも、私たちは社会を守り自分たちが生きていくために、一人の人間の罪状に判決を下すという決着をつけなければならない。間違える恐怖に震えながらも、証拠の一点一点に目を凝らし、被告の心のグラデーションを限界まで推し量るのだ。
冷静で沈着な思考、集めた情報を見極めようとする姿勢。その意思こそが、神ではない人間が「人を裁く」ための、唯一の道しるべとなる。
裁きの場とは、綺麗に正義を執行する祭壇ではない。傷だらけの人間が、同じく傷ついた人間の業と向き合う、血の通った医療現場のようなものである。私たちは神の身代わりとしてではなく、自らの不完全さを自覚した一人の「人間」として重い法廷の扉を開くのだ。感情ではなく理性で、先例だけではなく自身の分析で立ち向かう。それこそが法治国家の一員としての責務ではないのだろうか。
困難に敢然と立ち上がり驚異のパワーと能力で悪を倒す。そのようなヒーローばかりが社会を支えているのではない。今日も考え、悩みながら闘う人たちに感謝するとともに、自分自身のあるべき姿も再考したい。
う〜ん……。人は神ではない、か。そのとおりよね。じゃあ、人はどこまで他人の人生に関わっていいんだろう。今回も悩むところよねえ。ヤオ、どう思う?
ミサヨとヤオを包む季節は、夏の熱気を手放し、 静かに秋へと移ろい始めていた。




