愚者の雑音、賢者の静寂
追加版です。
――数日前。
書斎へ呼び出されることは、慈悲のない宣告に等しい。
重厚な扉の向こう側は、家ではない。慈悲など存在しない、純粋な損得と判断だけが支配する戦場だ。
「入れ」
扉を開けた瞬間、冷気が肌を刺す。デスクの奥、父は顔も上げずに指先だけで資料を滑らせた。
「内藤隆二……21歳、株式会社内藤の次男だ。……どう見る」
差し出された資料を受け取る。ずしりと重い。
ページをめくる指が、不意に止まった。
(……これは)
喉が、微かに鳴る。資料には、ただの放蕩息子の記録が並んでいる。芸能人御用達のBAR、不自然な単位取得、ボディーガードの影。
「……内藤隆二。つくづく救いようのない男だな」
葵は資料の数ページを指で弾いた。そこに記されているのは、株式会社内藤の御曹司、内藤隆二の醜聞の数々だ。金をばら撒き、力でねじ伏せ、気に入らない人間を冤罪で追い込む。その手口はあまりに稚拙で、見ていて吐き気がするほどだ。
「これを見て、父さん。彼がこの半年でやってきたこと。……ただの暴力と金の浪費よ。吐き気がする」
葵はあからさまに呆れた表情を見せる。内藤という男は、己の権力を笠に着るだけの、ただのヘイトを貯めるだけの男。
ページをめくる。そこに記されていた名は――本田司。
大学進学後、内藤への接触。そして、彼が被った冤罪。
葵の瞳孔が小さく収縮する。
「……この女も救いようがないな。」
葵は次の項目を見て一瞬言葉を失う。
「……父さん、これ」
父は何も言わない。ただ、獲物を狙う獣のように口角を上げるだけだ。
葵は資料を食い入るように見つめる。隅にある投資の相関図。そこには、外部に漏れるはずのない龍神TECの未公開情報が、見事に噛み合わされていた。
「単独で、ここまで……」
恐怖? いや、違う。指先が微かに震えているのは、戦慄ではない。高揚だ。
自分の盤上に、自分以上の策士が現れたという悦び。葵は資料をデスクに投げ捨て、ぞんざいに笑った。
「父さん、これ、龍神の面接を受けているんだな」
「ああ。逃すなよ、葵」
「当然だ」
葵はきっぱりと答える。
「……本田は、私のものだ。龍神グループの最高傑作として、私がねじ伏せて所有する。」
沈黙。父の視線が、どこか楽しげに葵を射抜く。
「……惚れたか?」
たった一言。書斎の空気が、張り詰めた糸のように鋭く震える。
「っ――」
葵は表情を強張らせ、わざとらしく大きく背を向けてみせた。顔の熱さを隠すように、あえて冷徹な声色を作る。
「そんなんじゃない。……ただ、私の盤上に、もっとも優れた駒が必要なだけだ」
そう言い捨てて、葵は逃げるように扉へ向かう。
その背中は、父の問いかけに、図星を突かれた少女のようにわずかに強張っていた。
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