春の夕暮れ
最終話です。
屋上へと続く重い扉を開けると、そこには都心の景色をオレンジ色に染め上げる、春の夕日が広がっていた。
この一週間、俺が支配しようともがいた世界は、高い場所から見下ろすと、驚くほど静かで、そして小さく見えた。
「ツカサ、おめでとう! 新人統括プロジェクトリーダー!」
背後から、聞き慣れた、でも今は不思議と心地よく響く声。
振り返ると、葵が少し息を切らして立っていた。
「……ああ。ありがとう」
俺は照れ隠しに笑った。
一瞬、言葉が詰まる。お互いに伝えたいことが、喉元まで出かかっているからだ。
「ツカサ」
「葵」
重なった。俺と葵の声が、同時に響く。
空気が揺れる。その可笑しさに、二人の間に小さく笑いがこぼれた。
「……あ、葵からどうぞ」
「いや、ツカサからどうぞ!」
再び顔を見合わせる。以前のような疑心暗鬼はない。ただ、そこには温かい繋がりだけがあった。
「そうか……」
俺は覚悟を決めた。
防波堤はとっくに決壊している。この気持ちを言葉にしなければ、俺は一生、本当の意味でここから先へは進めない。
俺は葵の前に立ち、ゆっくりと頭を下げた。
「すまん、俺はお前を信じていなかった。お前が神谷の罠を暴くために、誰にも言わずに戦っていたことも、俺を想ってくれていたことも……何もかも、自分の殻に閉じこもって、お前を切り捨てようとしていた」
「ツカサ……」
「……あの時気づいたんだ。俺が失うのが怖くて必死に切り離そうとしていたのは、俺の弱さじゃない。……お前を失うことの恐怖だったんだって」
葵は、驚いたように目を見開き、そしてゆっくりと俺の元へ歩み寄ってきた。
夕日の逆光に照らされた彼女の瞳が、真っ直ぐに俺を射抜く。
「……遅いよ、バカ」
葵はくすりと笑うと、私の胸元をそっと掴んだ。
彼女は眉を伏せ、しばらくの沈黙――
そして、顔を上げて俺の目をみた。
「私は、怖かった――お前に嫌われるんじゃないかと……」
葵は唇を震わせ、泣き出しそうな声で続ける。
「でも……お前がまた壊れるのは、もっと怖かった!」
葵の大きな瞳から涙が溢れだす。
「私はずっと……好きだったぞ。」
世界が止まったかのような錯覚。
俺は、葵の身体を抱きしめた。温かい。この温もりを、俺はずっと探していたんだ。
震える指で彼女の頬に触れた。逃がすまいと、確かめるように。
そして俺たちは、春の優しい光の中で――静かに、唇を重ねた。
西日に照らされた屋上。
二人の影は、繋がったまま、ゆっくりと夕闇の中へ長く伸びていく。
俺の地獄は終わった。
ここから先は、俺と葵の新しい未来だ。
――◇――
――5年後
「パパー!」
弾むような声と一緒に、小さな影がこちらへ駆けてくる。
俺は思わず笑って、腕を広げた。
「ユナ、おいで」
勢いよく飛び込んできた身体を、そのまま抱き上げる。
くすぐったそうに笑うその顔は――どこか懐かしい面影があった。
「もう、また外で遊ばせて……風邪ひくって言ったでしょ?」
少しだけ呆れた声が、背後から飛んでくる。
振り返ると、エプロン姿の彼女が、優しく目を細めて立っていた。
「大丈夫だよ。ほら、元気だろ?」
「それとこれとは別でしょ。本当に、昔から変わらないんだから」
そう言いながらも、彼女は近づいてきて、ユナの頭をそっと撫でる。
その仕草は、あの頃と何も変わらない。
「……でも」
小さく呟いて、彼女は俺を見る。
「ちゃんと、守ってくれてるもんね」
その言葉に、胸の奥がじんわりと熱くなる。
「当たり前だろ」
俺は笑って答えた。
もう迷いはない。失うことを恐れて、手放すこともない。
この温もりを、全部――守り続ける。
「パパ、ママ、早くごはんー!」
ユナが無邪気に笑う。
「ああ、今行くよ」
「ほら、手を洗ってきなさい」
その声に、ユナが元気よく返事をする。
彼女はふっと息をついて――
「……あなたは昔から、変わらないわね。本田部長」
その呼び方に、思わず苦笑が漏れる。
「もう部長じゃないって」
「知ってるわよ。グループの一つを任されても、こういうところはそのままなんだから」
くすりと笑うその横顔は、柔らかな光に包まれていた。
――ああ、これでいい。
あの地獄みたいな日々があったからこそ、今がある。
守りたかったものを、ちゃんと守れた。
夕暮れの光が、家の中を優しく満たしていく。
――ここが、俺の帰る場所だ。
そしてこれからも、この場所で、俺たちの物語は続いていく。
――完
最後まで、お読みいただきありがとうございます。
最終的にハッピーエンドにできて良かったです。
色々、言いたい事もあるかと思いますが、
これでこの章は終わりとさせて頂きます。
後1話だけありますので良ければ、もう少しだけお付き合いしていただけると嬉しいです。
もし、面白いと思っていただけたら、評価やブックマークしていただけると嬉しいです。




