翠のその後(翠視点)
翠のその後です。
私は、大学を去った。
誰も知らない土地へ――すべてを置いて。
「ちょっとあんた、キビキビ動きなさいよ!」
「はい、すみません!」
慣れない敬語と、ぎこちない笑顔。
ここは隣県の小さなホテル。
翠は住み込みで働いている。
朝は早く、夜は遅い。
シーツを整え、廊下を磨き、笑顔を貼り付ける。
忙しさに追われているときだけ、余計なことを考えずに済んだ。
――それでも。
ふとした瞬間、足が止まる。
客のいないロビー。
窓の向こうに広がる、静かな空。
思い出すのは、あの頃の何気ない時間。
「翠、うまいだろ?」
「……うん、美味しい」
あのときの声。
あのときの笑顔。
胸の奥が、きしむ。
息をするたび、どこかが欠けている気がした。
「どうして、私……」
ぽつりと零れた言葉は、誰にも届かない。
「翠さん? 大丈夫ですか?」
振り返ると、同い年くらいの青年が立っていた。
このホテルの息子で、いつも何かと気にかけてくる。
「……なんでもないです」
翠はすぐに視線を逸らす。
距離を取る。それが、自分に許された唯一の選択だと思っていた。
――もう、誰かの隣に立つ資格なんてない。
それでも彼は、何度でも話しかけてきた。
仕事を手伝い、他愛もない話をして、無理に踏み込まず、ただ隣にいる。
その優しさが、かえって苦しかった。
でも同時に、少しだけ――救われてもいた。
その距離が、少しずつ――崩れていく。
「今日、休みですよね? 少し外、出ませんか?」
「……私は」
断ろうとして、言葉が詰まる。
――償わなきゃいけない。
――幸せになってはいけない。
そう思っていたはずなのに。
胸の奥で、何かが揺れた。
そのときだった。
ふと、あの声がよぎる。
――もういい。
――お前も、幸せになれ。
振り返っても、誰もいない。
ただ、風が静かに吹き抜けただけ。
それでも、確かに聞こえた気がした。
翠の瞳に、涙が滲む。
「……ずるいよ」
誰に向けたのかも分からない言葉。
気づけば、目の前の彼の服を、ぎゅっと掴んでいた。
「……ごめん」
震える声。
「私、ちゃんと……前に進みたい」
彼は驚いたように目を見開き、そして、ゆっくりと頷いた。
その瞬間、翠は堪えきれずに――
彼の胸に、顔を埋めた。
溢れ出した涙は、止まらなかった。
泣きながら、何度も何度も、同じ言葉を繰り返す。
過去に縋るように、それでも手放すように。
それでも、もう逃げない。
これは赦しじゃない。
忘れるわけでもない。
それでも――
それでも私は、生きていく。
空は、どこまでも青く広がっていた。
まるで、新しい一歩を、祝福するかのように。
――翠編 完――
最後までお付き合いしていただき、ありがとうございました。
翠の辿った運命に、賛否あると思います。
しかしこれで良かったかと思います。
でないと、ツカサにも幸運は訪れない気がします。
短い間でしたが、また何処かでお会いしましょう。
ありがとうございました。
最後までお読みいただきありがとうございます。
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