曲がった道と、落ちる崖
ツカサが苦労して契約した手柄を、またもや神谷に奪われてしまうのだろうか?
その時、葵のとった行動は……
オフィスに帰った瞬間の空気が、俺を歓迎しているとは思わなかった。
『なんと商事』との大型契約。その重みを綴じたバインダーを抱え、俺は真っ直ぐに部長室を目指す。周囲の社員たちが、何事かと俺を見つめていた。その視線の中に、羨望と、それ以上に深い嫉妬の色が混じっていることに気づく。
バインダーを抱え、部長のデスクを目指す。
視界の端で、同僚の葵と目が合う。だが、彼女はすぐに視線を逸らした。
……最近の葵は、俺に対してひどく冷淡だった。まるで俺を避けるかのように、会話すら成立しない。
その時だった。
「待て、本田!」
怒号に近い叫び声が、フロア全体を凍りつかせた。
神谷課長だ。奴はデスクから飛び出し、血相を変えて俺の正面に立ち塞がった。額には嫌な汗が滲んでいる。
「……その契約書、見せろ」
神谷の瞳が、俺の腕にあるバインダーに釘付けになっている。嗅覚の鋭いハイエナのような目だ。俺が何をしてきたのか、直感で理解したのだろう。
「これは、部長に直接報告する案件です」
俺は淡々と告げる。神谷ごときに、この契約書を渡すわけにはいかない。これは俺が石井部長との信頼関係の上に築き上げた、俺だけの城の礎だからだ。
「お前、課長の言うことが聞けないのか? 俺が確認して、部長に持って行ってやるって言ってるんだ!」
神谷の手が、力任せにバインダーを奪おうと伸びてくる。
俺は半歩引き、それを躱した。周囲のざわつきが大きくなる。神谷の顔から余裕が消え、焦燥に塗れた醜悪な色が浮かび上がっていた。
「本田、調子に乗るなよ。お前のような若造に、これだけの契約が扱えるわけがない――」
――その時だった。
「本田君。それを、課長に渡して」
背後から聞こえた声に、俺は硬直した。
葵――。
俺の横を通り過ぎた彼女が、俺の手に持つバインダーを、なんの迷いもない手つきで奪い去った。
「……葵? お前、何を……」
信じられなかった。葵は以前、俺が最も信頼していた女だった。曲がったことが何よりも嫌いで、俺のやり方を誰よりも理解していたはずの女。
その彼女が、今、神谷の前にバインダーを差し出した。
「はい、神谷課長」
その声には、かつての正義感も、俺への敬意も微塵も感じられない。ただの操り人形のような、虚ろな響きだけ。
神谷は勝ち誇った笑みを浮かべ、奪ったバインダーを俺に見せつけるように掲げた。
「ははっ! 葵ちゃん、君は見込みがある。俺の右腕にしてやるよ。お前みたいな無能とは違うんだ」
葵は俺のすぐ傍を通り過ぎる際、一瞬だけ、冷徹なまでの無機質な瞳で俺を見た。
そして俺に背を向け。
彼女はそのまま、神谷と連れ立ってデスクに戻っていく。
(くくくっ……やってみろよ。相手は鉄の女だぜ)
俺は心の中で冷笑した。
神谷は今、自分が地雷原のど真ん中でタップダンスを踊っていることに気づいていない。
「おい、ツカサ……いいのかよ? ……あれは、お前の努力の結晶だろ!」
駆け寄ってきた高橋が、青ざめた顔で俺の肩を掴む。
俺は高橋の顔を見ず、神谷が上機嫌で受話器に向かう背中を見つめた。
「いい。……勝手に地獄へ落ちるんだ。放っておけ」
――その頃、神谷のデスク。
「あはは、これで俺も部長昇進間違いなしだ」
神谷はバインダーを机に放り出し、独りごちた。
まさか、『なんと商事』との契約をとってくるとは思わなかったが、運が向いてきた。石井部長に連絡さえ入れれば、この手柄は確実に俺のものになる。
「本田の奴、どうやって石井部長を落としたんだ? まさか……体で奉仕でもしたのか? ブハッ!」
卑猥な想像が笑いを誘う。
しかし、葵の奴も面白い。指一本触れさせない癖に、結局は俺の権力に屈したわけだ。これからは、もっと俺の色に染め上げてやる。
神谷は得意げに、石井部長の直通番号を押し始めた。
彼がどれほど無知で、どれほど残酷な結末が待っているかなど、知る由もなく。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
物語りも佳境に近づいてきました。
ツカサと神谷の末路は……?
最後まで見届けていただけると嬉しいです。
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