最低男
ご覧いただきありがとうございます。
理不尽とすれ違い、そして逆転の物語です。
※全体的に修正しました。
一ヶ月前まで、俺はこの廊下をまともに歩けなかった。
右からも左からも飛んでくる挨拶を返すのに忙しくて、講義に遅れそうになるのが日常だったからだ。
今は違う。
「おい、見ろよ……あいつだ」
「うわ、最低男じゃん。よく大学に来れるよね」
廊下の真ん中を歩く俺を避けるように、モーセの十戒みたいに道が開く。
つい最近まで一緒にバカ笑いしていた「友人」たちが、今は腫れ物に触れるような、あるいは汚物を見るような目で俺を見ている。
(……勝手に言ってろ)
視線を無視して歩き続ける俺の前に、ひと組の男女が立ちはだかった。
俺の心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
「よお、司。まだこの大学に居座るつもりか? 鋼のメンタルだな」
取り巻きを連れてニヤつくのは、隆二。
そしてその隣で、俺が贈ったものより数倍は高そうなブランド物のバッグを抱えているのは――翠だ。
かつて、俺の隣で「司くんが一番だよ」と囁いていた女。
「みんな、聞いて!」
翠が突然、悲劇のヒロインのように声を張り上げた。周囲の野次馬たちが一斉に足を止める。
「この人、私と付き合ってる時に他の子と浮気して……。それを問い詰めたら、私に暴力を振るったの! 見て、これ……っ!」
翠がバッグから取り出したのは、安っぽいシルバーのブレスレットだった。
俺が彼女の誕生日に贈ったものだ。
「これ、殴った後のお詫びだって渡されたの。気持ち悪くて捨てられなかったけど……もう、耐えられない!」
翠はそれを、迷いなく目の前のゴミ箱に投げ捨てた。
カラン、という虚しい音が、俺のプライドが砕ける音と重なる。
「マジかよ……」「最低すぎる」「あのブレスレット、あんな使い道だったのかよ」
ざわめきが怒りに変わる。隆二が勝ち誇ったように俺の肩を強く突いた。
「ほら、何か言えよ最低男。翠に謝ったらどうだ?」
俺は、ゴミ箱の中のブレスレットを見つめたまま、拳を血が滲むほど握りしめた。
反論? そんなもの、一ヶ月前にとうにやり尽くした。
スマホのデータは消され、共通の知人は全員寝返った。今の俺が何を言っても、「クズの言い訳」として消費されるだけだ。
「……やめないか」
その場の空気を一瞬で凍りつかせる、低く鋭い声。
「……葵さん!?」
「バレー部の“王子様”だ!」
人混みを割って現れたのは、龍神葵。
短髪に鋭い眼光。圧倒的なカリスマ性を放つ彼女が、冷たく隆二たちを射抜いた。
「大勢で一人をなぶり殺しか。見ていて反吐が出るな」
「あ、いや、葵さん。こいつが翠に酷いことをしたから、俺たちは正義感で――」
「お前の『正義感』の定義など聞いていない。失せろ。私の視界を汚すな」
葵の一言で、
「チッ、行くぞ……」 隆二たちは、不満気な顔で去って行った。翠も、俺を一度も振り返ることなくその背中を追っていく。
野次馬たちが散り、静まり返った廊下。
「……助かった」
俺が掠れた声で礼を言うと、葵はゆっくりと俺の方を向き、一歩距離を詰めた。
鼻先が触れそうな距離。彼女の瞳には、一切の慈悲がない。
「勘違いするな」
氷のような声。
「私はお前を助けたんじゃない。……女に手を上げるような奴、私は世界で一番大嫌いだ」
内臓を抉られるような言葉。
だが、葵はそこで言葉を止めなかった。彼女は俺の目を、魂まで見透かすようにじっと覗き込んだ。
「……だが。寄ってたかってゴミを叩く連中は、もっと嫌いだ。それだけだ」
葵はふっと司に背を向け――
「わかったら、私に話しかけるな」
葵はそれ以上何も言わず、風のように去っていった。
残されたのは、俺と、ゴミ箱に捨てられた俺の過去。
――なんなんだよ。
でも、あいつらみたいに「汚物」を見る目じゃなかった。
***
「……くだらない」
歩きながら、葵は短く吐き捨てた。
脳裏に焼き付いて離れない、本田司のあの目。
(絶望の中で、何かを睨みつけていた……。あんな目をする奴が、本当に無抵抗の女を殴るような真似をするのか?)
一瞬、自分の中に生まれたその疑念を、葵は即座に理性でねじ伏せた。
(――まさか。翠のあの行動が、隆二の態度が、演技だと言うのか? 全て作り物だと? ……そんなわけがない……)
誰もが司の浮気と暴力を認めている。状況証拠は、完全に「黒」だ。
自分の直感よりも、目の前にある「事実」を信じるのが人間だ。
(あいつの目が死んでいなかったのは、ただの『反省していない証拠』かもしれない。あるいは、世界を呪っているだけの、クズの逆恨みか……)
そう結論づけた瞬間、胸の奥に、言葉にできない不快な澱が沈殿した。
(……それでも。あの翠という女の、ブレスレットを捨てた時の勝ち誇ったような顔。あれが被害者の顔か?)
理性と直感が、葵の中でバチバチと火花を散らす。
「……気に入らないな」
自分でも驚くほど低い声が出た。
本田司が黒なのか、白なのか。そんなことはどうでもいい。
ただ、自分の「正義」が、あいつの瞳の前で、わずかに揺らいだという事実。
その「違和感」が、葵は死ぬほど気に入らなかったのだ。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
この先、少しずつ“違和感”が形になっていきます。
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