更なる別離
志は高くとも、現実には、直子と喜多と小十郎の母子は経済的に追い込まれていた。
景重は、永井荘八幡宮の神職の役により、百貫の禄を得ていたため、貯えはそれなりにあった。
だが、収入がほぼ無くなった状態で、母と娘と男の子の3人が、少なくとも男の子が成長し、一人前になるまで、生活していかねばならない。
貯えは、それをまかなえるほどでは、到底なかった。
それゆえ、まずは、始末のできるものは何もかも始末しなければならなくなった。
「母上、これからは、自分でできることは何でも自分でしていかねばなりません。」喜多は強い決意をもって、これからの生活に取り組もうとしていた。
「そうですね、喜多。あなたの言うとおりです。」直子は娘が頼もしく思えた。
直子と喜多は、片倉家に仕えていたすべての者に徐々に暇を出していった。
食材の調達や食事の調理、家計の管理、薪割りなど日常の雑用、それらが自分達でできるようになっていくにつれて奉公人に暇を出していった。
そうしなければ、片倉家が成り立たなかった。
背に腹はかえられなかったのである。
それでも、生活は切り詰めなければならなかった。
1年に得られる扶持米だけでは家計はまかなえないため、蓄えのお金を取り崩していかねばならなかった。
産まれた赤子、小十郎は丈夫な男の子で、すくすくと育っていった。
小十郎に乳を飲ませるため、直子は栄養をつけなければならなかった。
だが、なかなかその通りすることはできなかった。食事も含めて、生活を切り詰めなければならなかったからである。
直子は自分の肉体を削るように息子に乳を与え、直子自身はやせ細っていった。
「母上、どうぞ、これも召し上がりください。」
喜多は自分の食事を差し出して直子に言った。
「喜多、あなたこそ、1日中働き回って、お腹がすいているでしょう。
わたくしは大丈夫です。
これでも少ないのですから、あなたは自分の分はしっかりお食べなさい。」
「母上・・・」
直子は喜多にやさしく微笑んで返した。
時は過ぎ、直子と喜多が助け合いながら暮らすようになって3年がたった。
赤ん坊であった小十郎も4才になり言葉も話せるようになってきた。
直子から乳離れもして、これからの成長が頼もしく感じられるようになった。
「姉上、お腹がすきました。」
「もうすぐ夕げです。それまでがまんしなさい。」喜多は小十郎に諭すように言った。
「一度でいいから、ご飯をお腹一杯食べてみたいなぁ。」と小十郎は独り言のように言った。
「我が家は貧しいのです。夕ごはんは少し多くしてあげますから、そんなことを母上に言って、母上を困らせてはいけませぬよ。」
「はい、姉上。」
小十郎は喜多に事あるごとに「姉上、姉上」となついていた。
母親である直子は、この頃から病の床に伏せていた。
それは、小十郎が乳離れをする時を待っていたかのようでもあり、そこまでで、何かを使い切ったようでもあった。
ある日の夕方、喜多と小十郎が並んで歩いているとき、小十郎が唐突に尋ねてきた。
「姉上、母上のお体は、大丈夫でしょうか。」小十郎も幼いながらも母親を心配していた。
「じきに良くなります。」喜多は答えた。
小十郎が心細いのか、喜多と手をつないできた。
喜多もその手を握り返してあげた。
日を追うごとに窶れていく。
直子は、いつしか自らの死期を悟った。
ある日の夜、小十郎が寝付くのを待って、直子は喜多を部屋へ呼んだ。
それは、直子が喜多に最期に伝えたい言葉だった。
「喜多。」直子は床の中から喜多を見つめた。
「私はもう長くはないでしょう。」直子は弱々しい声で喜多に告げた。
「母上、そんな心細いことは言わないで下さい。」
直子は首を振った。
「私には分かります。」それは確信に満ちた言葉であった。
「喜多。」直子は改めて床の中から喜多を呼びかけた。
「はい、母上」
「私が鬼庭家を出るとき、あなたは私についてきてくれましたね。」懐かしそうに直子は思い出した。
「ええ、そんなこともありましたね。」喜多も昔を思い出した。
「あなたは、自分の幸せが、向こうに、鬼庭家にあることを分かっていたのに、それを捨てて私についてきてくれましたね。」
喜多はあの時の自分を懐かしく、ふり返った。
「そのおかげで私がどれだけ生きる希望を与えられたか。
喜多、あなたには予想もつかないでしょう。」
直子は遠くを見るような眼差しで続けた。
「あなたがいてくれたから、命を絶たずにいられた。
あなたがいてくれたから、世を捨てずにいられた。」
直子は喜多の方を向いた。
「本当よ。
ありがとう。
そして、
そのおかげで、景重様にも出会えました。
ありがとう、喜多。」
直子は美しくほほ笑んで「景重様も幸せだったとおっしゃっていましたが、私も幸せだったのよ。」と言った。
喜多は直子のその様子に、微笑んで返した。
「ありがとう、喜多。」
直子は真剣な顔になって続けた。
「景重様が亡くなってから・・・」直子は一呼吸置いた。
「あなたは何も言わなかったけれど、心の中で自分の結婚をあきらめていましたね。」
直子は喜多の顔を見た。
喜多は肯定も否定もしなかった。
「母は気づいていましたよ。」
直子はもう一度喜多の顔を見て、「そうでしょう。」と問いかけた。
喜多は、何も言わず、ただ、一度だけ頷いた。
「私は、気づいているのに何も言えませんでした。
ありがとうとも。
ごめんなさいとも。
だから、今。」
直子は喜多の方にむき直した。
「ありがとう、喜多。
そして、ごめんなさい、喜多。」
喜多は首を振った。それと同時に涙が瞳にあふれて、ほおを伝った。
「母上・・・」
「あなたの強さに甘えてばかり、喜多、こんな母を許してくださいね。」
喜多は再び首を振った。
「それでも、喜多。
私は、あなたに、まだ甘えなければならないのです。」
喜多は涙であふれる眼で直子を視た。
「小十郎です。」
直子は喜多の眼をまっすぐに見た。
喜多も直子を見返した。
そして、大きく頷いた。
「私には、もう、あなたしか頼れる人がいません。」
直子の眼から涙がこぼれた。
「喜多、小十郎をお願いします。
景重様と私の、大事な小十郎を、どうか、お願い。」
喜多は、静かに、直子の手をとった。
そして、強く、両手でしっかりと握った。
直子も、握り返した。
二人はお互いの眼を見つめ合った。
喜多は、もう一度、直子に向かってゆっくり大きく頷いた。
その日の夜が、直子と喜多の最後の会話となった。
その数日後、直子は息を引き取った。
「母うえぇ、母うえ。えーん」小十郎が直子に呼びかけながら布団にしがみついて泣きじゃくった。
喜多も涙を流しながら、小十郎の背中をさすってあげた。
「姉上、姉上、」小十郎は涙でいっぱいの眼を喜多に向けて、「母上が、母上が・・」と言って、また直子にしがみついて泣いた。
直子は死んだ。
喜多の母。
直子と喜多が最後に話した夜、眠りについた直子を見届けて、部屋を去るとき、直子は寝言のように、こうつぶやいていた。
「喜多・・・私の・・娘」
それが、喜多が聞いた、直子の最後の言葉だった。