第七話
週明け、田中は僕と武本さんに扇子を渡してきた。
「何これ」
「何って、お土産だよ」
京都に行くって話しただろ、と言われる。
「そういえばそうだった」
「で、食べ物とかでもよかったんですけどね、そろそろ暑くなってくるからこういうのもいいんじゃないかなって思いまして」と田中は武本さんに言う。
開いてみると扇子は淡いピンクをしていて、描かれているのはおそらく桜だった。婦人用といった感じ。武本さんの方も同じだった。
「妻が喜びそうだ」と武本さんは笑顔を見せている。
これを香耶に渡すのか。なんだかもやもやする。喜んでも僕の手柄ではなく、喜ばれなかったらまるで僕の過失みたいになるのだ。流石に捨てるのは勿体無いので、隠しておきたい。
「いやいや、ありがとね」
武本さんがそう言って、慌てて僕も「ありがとう」と言う。
帰り道、田中は僕に京都の話を聞かせてきた。歩道は人一人通るのが精一杯で、田中は自転車と一緒に車道にはみ出している。危ないようだが、車も人もほとんど通らない。そんな道路の格好はしている道を歩きながら田中はお寺がどうこうと語るのだが、いくら説明されてもイメージできるのはこの周辺にあるアスファルトの道路と壁のくすんでいる何十年か前の家と川の傍に生えている木々くらいなもので、それらをどう組み合わせても京都にはならないのであった。彼の興奮というか、素晴らしいと思ったらしいことだけは伝わってくるので、区切りのいい所まで聞いた後に、
「凄いんだな」ととりあえず言うと、彼は「そう、凄いんだよ」と頷くのであった。
「お前も行くといいぞ」
「うん」
曖昧に答える。噛み合ってないな、と感じた。どうしてそうなのだろう、と考えると真っ先に思ったのは熱がきちんと伝わってこないからだということだった。僕と田中の間に空気で作られた壁のようなものを感じる。それは元からあったものなのか。それとも僕が意図的に用意したものだったのか。
壁を取り払ってみようと、なおも京都について話し続ける田中の言葉を遮って、
「お前って元気なんだな」と言ってみる。
「どうしたんだいきなり」
きょとん、と。
「どうしてお前はそんな明るくいられるんだ?」
襖を開けるようにして空気の壁をどけると、田中は困ったような顔をした。「明るくって言われてもな」と呟きながら頭を掻く。
「だってよお、暗くなったら死ぬだろ。絶対。精神的にって言うか、まあ、そんな感じで」
彼は眉をしかめながら「だから笑う門には福が来るのを祈るしかねえって」と言う。
そのまま彼は時折頭を掻くだけで何も言わない。気まずさがある。どうやら開けない方が好ましいものだったらしい。
「なんか、すまんかった」
「謝らないでくれ。余計に恥ずかしくなる」
「あ、そうだ」と何かを思い出した振りをしながら、たった今思い付いたことを言う。
「ちょっと用事あるんだった。それじゃ」
走って去る。明日には壁が元に戻っているだろう。
用事はあるにはあった。本当は通っていた道を引き返した方が近かったのだが、自然な様子を装うために遠回りなんかして、ホームセンターに向かう。花の種を買うためだ。しかしどうにも気取るのが苦手で、綺麗すぎる花を育てようとした時には恥ずかしさのあまり頭を掻かなくてはならなくなる。向日葵ならいやらしさは無いのではないか。そう思って向日葵の種を取る。室内で育てるために背が高くならないよう改造されたものだ。それと鉢と鉢皿をレジに持っていきながら、田中も無闇やたらに明るいわけではないのか、と感心した。
「遅かったねえ」
香耶は咎める風でもなかったのだが反射的に「ごめん」と謝ってしまう。
「ちょっと買い物してて」
そして言い訳をしてしまうのである。言ってから、今のはちょっと言い訳がましいな、と気付くのだからどうしようもない。
「何買ってきたの?」
興味を向けてくる。やはり何かを疑う風ではなくて、ただ気になるといった感じなのだ。それに合わせて僕は背中に隠しながら、
「秘密」と言って、にやりとしてみせるのである。これは上手くできた。
「気になる」
駄々をこねるように言う。
「そのうちわかるよ」
ふうん、と伸びた首がゆっくり戻っていく彼女に今日の野菜を渡すと「それじゃあ夕飯作るね」と言ってキッチンに向かっていく。そのうちに育ててしまおう。窓際の僕のスペースから土を持ってきて、鉢に種を一粒だけ落とす。鉢皿で土がこぼれないようにし、テーブルに置いて、育てる。一輪だけならばそこまで酷い育ち方はしないはずだ。
二十分程で花が咲く。太陽に喩えられることもある大きな花は、間近で見てみると確かに照明器具として並べてあってもよさそうだった。それをテーブルに放置して、窓際のスペースに転がり、知らん顔する。
やがて香耶が気付く。
「あ、向日葵」
「うん」
「どうしたの?これ」
向日葵に顔を寄せながら聞いてくる。
「ええと、まあ」
言うべき台詞は頭の中にあるのだが、なかなか勢いがつかず出てきてくれない。
「それほどのことでもないんだけど、まあ、プレゼント的な」
「プレゼント」
彼女は一層向日葵を近くでじろじろと見る。値踏みされているようで緊張する。
「これくらいしかできそうにないから、その」
「ありがと。嬉しい」
こちらはしどろもどろになるというのに、香耶はすらりと笑顔を作ってみせるのだった。それでなんだか自分もそのようにしていいのだという気になって「普段お世話になってばかりで何もできないから、まあ、こういうことでもしてお返しがしたいかなと思ったわけで」と芋づるのように感情を喉の奥からずるずると引き出していく。
何かしたい。でも何でもできるわけではないから。もしかしたら期待されてないのかもしれないけど、それとは関係なく奉仕したいという気持ちがありまして。
「そうなんだ」
途切れたところで、香耶がそう言った。
「別に無理しなくていいのに」
彼女は笑い、しかし僕の気持ちを汲んでくれたようで、
「それじゃあこれからもちょくちょくご奉仕よろしく」と言う。ご飯出来たからお皿運んで、くらいの調子だった。
「何かリクエストは?」
「考えとく」
香耶は調理に戻った。さっきの「ありがと。嬉しい」の笑顔が記憶の中に貼り付いていて、あの顔を見られるのならばもっと育ててみようかなという気になるのだった。部屋を植物で埋めていくイメージ。彼女の湯気が体内を占領してくるように、僕の育てた植物に囲まれて過ごす香耶を想像する。それならいいか、と思った。彼女は僕の生活の中でおそらく最後の一滴なのだ。人の成長は魔法で早くはならない。だから味が凝縮されているのである。はたしてその理屈が自分にも適応されるかどうか、自信は無いけれど、彼女だけ見ればそうなのである。
風呂を上がってから、僕は向日葵を育てる。今度はいつものスペースで。育った後は土に面倒を見てもらわなくてはならないので、植物用に整えた場所でないと駄目なのだ。種を一粒取っては花が咲くまで育てる。
テレビを付けているのだが、香耶はそれを見ずにいるようだ。こちらを見ているのが向日葵越しにわかる。自分が作業しているところをじろじろと見られると不愉快に思うのだが、香耶の場合は苛立たない。苦味を消して恥ずかしさが残る。それに彼女に注目されているのは嬉しくもあった。
だから最初は「まあ、気になるのだろうな」というくらいで何ともなかった。じろじろから長音符を使いまくったじろーりになってきて、それで蚊に刺された部分を見つめることも触れることもしないようにし続けているような感じになって、とうとう耐え切れず、
「どうしたの」と聞く。見ると、彼女は微笑んでいた。煙草がまさに周囲の空気と混ざりきろうとしている時のように、掴めば一筋の糸が手の中に残りそうな薄い笑み。
「見てるの」
「それはわかるんだけど、どうしてまた」
「面白いから」
ぬかに釘。どうして面白いと思うの、なんて聞いては間抜けな感じがしてしまう。何をどう聞けばいいだろう、と考える。
「集中しないとちゃんと育たないよ」
考えていたら、そう指摘されてしまった。慌てて向日葵に目を戻す。香耶の笑みがぶわっと濃くなって、くすくす、と笑うのが見えた。真っ直ぐ育てるはずだったのが少し斜めになってしまっている。しかしそれを慌てて元の方向へ矯正しようとすれば、くの字に曲がってしまってもっと変になる。不自然でないように直すのは僕には難しそうだった。だから斜めになったまま育てることにした。
「出来た」
言うと、香耶が拍手する。育てた身としては、斜めになってしまったことがどうしても気になる。それに花だって向日葵にしては小ぢんまりとした印象を受ける。実力が不足していることは勿論、決して明るくはない性格をも示唆しているようで、冷静に見れば見る程自信を無くしてしまいそうだ。
「凄いねえ」
なのに香耶はそう言う。植物を育てる魔法を使えない彼女からすれば、これでも凄いものなのかもしれない。本当は凄くないのに、褒められるのはとても恥ずかしくて、向日葵を見ないようにする。そのまま横になってぼんやりとする。
「今日はもう終わり?」
いつになっても新しい種に向かわない僕に聞いてくる。
「うん」
じろじろと見られてしまって、集中できそうにない。もう香耶のことばかり気になってしまって、向日葵のことなんて考えていられないのである。
「そうなんだ」と言って香耶は両手と両膝で動物みたいに近付いてくる。しかし四足で動く動物ではないからぎこちない。まるで指で弾かれてゆっくりとこちらに向かってくるビー玉のよう。途中でタオルケットを掴んで、こちらに到達すると彼女は僕の横に寝転んだ。
そういえば扇子をまだ渡してなかった。しかし別にあれを渡すのはいつでも構わないだろう。なのでそのまま香耶を抱き寄せた。