第538話 魔力0の大賢者、ためらう
「その涙は、君の心に優しさが残っている証明だと僕は思う」
「涙、だと?」
ファインが自分の頬に触れ、指先を見つめた。
濡れている。どうやら本人は気づいていなかったらしい。
「マゼルの言うとおりだ」
イロリ先生の声が静かに響く。
「ファイン――お前はまだ立ち止まれる。やり直せるんだ。そのためなら俺は何でもしてやる。だから――」
「お涙頂戴の下らない劇はそこまでにしてもらいたいですねぇ」
「お、お兄様――」
バジルの嘲笑と、ラーサの震える声が重なった。
視線を向けると、ラーサは人形に囲まれ、そのまま拘束されていた。
いつの間に――完全に死角を突かれていた。
「ラーサ!」
「おっと。動いてはいけませんよ」
バジルが指を軽く振る。
それに呼応するように、人形たちの関節が軋み、ラーサを締め上げる力がわずかに強まった。
「少しでも妙なマネをしたら……わかりますよね?」
静かな脅し。
僕は動きを止めた。
「くそ! 悪いマゼル。相手の動きに気づくのが遅れた」
アズールが悔しそうに歯を食いしばる。
だが責めることはできない。
僕自身、ファインとの戦いに集中していた。完全に隙を突かれた形だ。
「バジル……どういうつもりだ!」
声を荒げたのはファインだった。
明らかに想定外。
バジルの行動は、彼にとっても予期していなかったものだ。
「やれやれ。情けないですねファイン」
肩をすくめるバジル。
「この女の言葉に絆されましたか?」
「何?」
「言っておきますが、この女は貴方の思っているような存在ではありませんよ」
「わ、私は――!」
「ご自分の妹と重ねたのかもしれませんが」
バジルは冷たく言い放つ。
「この女はそこにいるマゼルの衣を借りているだけの紛い物です」
「わ、私はお兄様の衣を借りてなどいません!」
「そうでしょうか?」
口元が歪む。
「優秀だと周囲からは随分とチヤホヤされてきたようですが、それも全て“大賢者の兄がいる”という前提あってのもの」
言葉が刃のように鋭くなる。
「貴方自身は、兄を頼らなければ何も解決できない矮小な存在」
わずかに人形が動く。
「事実――今もこうして、容易に捕まっている」
「――そ、それは……」
ラーサの言葉が詰まる。
「お前、何も知らないくせにラーサを侮辱するな。それ以上言うなら――」
内側から怒りが湧き上がる。
それに呼応するように、空気がわずかに軋んだ。
「お~怖い怖い。ですが、事実でしょう?」
バジルは意に介さない。
「これまで貴方は何度妹を救いましたか? その数こそが、この妹の弱さの証明でもあるのですよ」
「……違う」
僕は静かに首を振った。
「確かにラーサは、僕に助けを求めることもある」
その事実は否定しない。
「でもそれは、何もしていない人間の言葉じゃない」
ラーサを見る。
震えている。けれど、その目は逸れていない。
「見えないところで準備して、考えて、何度も失敗して――それでも前に出てきた」
学園に通うことが決まってからも。
人知れず努力を重ねてきた姿を、僕は知っている。
「僕はそれを知っている」
視線をバジルへ戻す。
「陰で積み重ねてきたものを無視して、弱いと決めつけるのは違う」
一歩、前へ出る。
「誰かに助けられることは、弱さじゃない」
そして――ファインを見る。
「それでも前に進もうとしてきた人間を、弱いなんて僕は言わない」
その言葉に、ファインの表情が揺れた。
ほんの僅かに。
だが確かに、迷いが差し込んだ。
「フンッ。世迷い言を」
バジルが吐き捨てる。
「ファイン、耳を貸す必要はありませんよ。さっさとその男を始末するのです」
指先がわずかに動く。
「今ならその男は手を出せない」
――そうだ。
僕は動けない。
ラーサを人質に取られている以上、軽率な行動は取れない。
ファインを見る。
迷いがある。
だが決断までは至っていない。
そして――ラーサ。
計算する。
僕の速度なら、人形が動く前に全て破壊できる。
だが。
もし、ほんの一瞬でも遅れたら――
その可能性が、頭をよぎる。
僅かな逡巡。
それが――
「砕けろ――」
静かな声が、空気を切った。
次の瞬間。
上空から落下した岩塊が、人形たちを一斉に押し潰した。
鈍い音。
粉砕。
拘束が解け、ラーサの身体が解放される。
「な、何者だ!」
バジルが声を荒げた。
「フンッ。情けないぞマゼル」
聞き覚えのある声。
「この程度の三下に、いいようにやられるとはな」
視線の先。
そこに立っていたのは――
ラクナだった。




