第537話 魔力0の大賢者、妹の想いを聞く
拳と拳がぶつかる音が、何度も何度も響き渡っていた。
乾いた衝突音。
肉のぶつかる鈍い音。
そして踏み込む足音。
それが何百回、何千回と繰り返されている。
ファインの拳が唸る。
「おおおおおッ!」
渾身の一撃が僕の頬を打ち抜いた。
衝撃で顔が横へと振られる。だが、倒れない。
僕も拳を振るう。
重い拳がファインの腹へと叩き込まれる。
「がっ……!」
互いの攻撃が同時にぶつかり合い、ファインが後ろへよろめく。けれどすぐに踏みとどまり、再び拳を構えた。
「まだだ……!」
そしてまた殴りかかってくる。
拳。拳。拳。
互いに避けもしない。
ただひたすらに殴り合う。
五百発。
千発。
そのくらいはもう、とっくに越えている。
それでもファインは止まらない。
「まだ終わらねぇ……!」
血に濡れた顔で笑うように歯を剥き、黒く染まった拳を振り上げる。
「俺は負けねぇ……!」
拳が振り下ろされる。
「こんなところで負けるわけにはいかないんだ!」
僕の頬を殴りつけながら、ファインは叫ぶ。
「母さんと父さんと……!」
拳。
「そして妹の恨みを晴らすために!」
拳。
「ここで倒れたら、妹は! 家族は!」
拳が震える。
「報われないだろうが!」
それでもファインは拳を振り上げた。
「妹のためにも俺は――」
「そんなこと妹さんは望んでない!」
その声に、ファインの拳が止まった。
ラーサだった。
震えながら、それでもはっきりと声を張り上げる。
「……私は皆から話を聞きました」
ラーサはファインを真っ直ぐ見つめていた。
「だから、貴方の辛さも苦しさも……全部は分からないけど、きっと凄く苦しかったんだろうなって思います」
小さく息を吸う。
そして続けた。
「それでも……」
ラーサの声が震える。
「妹さんが、今の貴方を見て喜ぶなんて……私は思えません」
ファインの眉が歪む。
「だって……」
ラーサはぎゅっと拳を握った。
「もし私のお兄ちゃんが、そんな辛そうな顔をしていたら……私は悲しいから」
その言葉に、ファインの体が僅かに揺れた。僕もラーサの言葉に耳を傾ける。
「私は、強くて……優しくて、頼りがいのあるお兄ちゃんが好きです」
ラーサは続ける。
「それはきっと、貴方の妹さんも同じだったはずです」
静かな声だった。
「だって妹さんが好きだったのは……」
ラーサはゆっくりと言った。
「難病を治すために魔導医療を学ぼうと決めた貴方だから」
ファインの瞳が揺れる。
「自分の幸せよりも……誰かの幸せのために尽くせる」
ラーサは涙をこらえながら言った。
「そんな優しいお兄ちゃんのはずだから……」
そして最後に、静かに言う。
「そんな辛い顔をして復讐しようとするお兄ちゃんを見て……」
ラーサの声が震えた。
「悲しくないわけ、ないです……」
その言葉のあと。
場に沈黙が落ちた。
ファインは動かない。
拳を握ったまま、立ち尽くしている。
そして。
――視界が揺れた。
ファインの瞳に、ラーサの姿が映る――
◆◇◆
side ファイン
マゼルの妹の叫びが耳朶を打つ。その姿は、どこか別の誰かと重なっていた。
小さな女の子。
細い体。
弱々しく笑う顔。
妹――サラ。
記憶が蘇る。
あの日。
倒れたサラは、かすれた声で言った。
「お兄……ちゃん……」
血の気の引いた顔で、必死に言葉を紡ごうとしていた。
「ごめん、ね……」
声はほとんど聞こえない。
けれど。
唇だけは確かに動いていた。
――ごめんね。
――そんな、顔をさせて。
その言葉が胸に刺さる。
もう一つの記憶が浮かび上がる。
まだサラが元気だった頃。
「ごめんなさい、お兄ちゃん。私のために無理をさせて」
サラが申し訳なさそうに言った時、俺は笑って答えた。
「それは違う。確かにサラの病気を治すのも目的だ。だけど俺は、魔導医療を学んで……サラみたいに苦しんでいる患者も、全員救ってあげたいんだ」
だから、と続けた。
「サラには感謝してる。俺にこんな高い目標をくれたんだから」
サラは目を丸くして。
そして、嬉しそうに笑った。
「お兄ちゃん……凄いね」
そして言った。
「うん、そうだね。お兄ちゃんならきっと出来るよ」
サラは言った。
「私の大好きな……優しいお兄ちゃんなら、きっと――」
そこで記憶が途切れ、俺の思考が現実に戻る。
◆◇◆
ファインはその場に立ち尽くしていた。
拳は震えている。
そして。
ぽたり、と。
地面に一滴の雫が落ち――ファインはただ、静かに立ち尽くしていた。




