29 裏切った罪
夜。
月は雲に隠れ、闇が町を支配する。そんな中、幸村はそっと学生寮を抜け出した。
……そのつもりだったのだが。
ミズナとゴウが、ちょうど出かけていて。帰ってきた矢先に、学生寮から出ていく幸村を目撃し、眉をひそめた。
「聖君……?」
学校に到着した幸村は、校庭のど真ん中に立った。約束の時刻まであと少し。深呼吸をして、心臓を落ち着かせる。
「大丈夫、大丈夫だ」
暗示をかけるように、繰り返しそう呟く。そのおかげか、さっきよりも鼓動は治まった。
そんなとき、背後からの足音が耳に届く。それがどんどん大きくなって立ち止まったのを確認してから、幸村は振り返った。ちょうどそのとき、時刻は八時になる。
「甲斐谷先生……」
「よかった。来てくれたんですね」
微笑む甲斐谷に、幸村は家康の言葉を思い起こして、手をぎゅっと握る。
『その美しい容姿で惑わし、たぶらかし、近づいて、信用を得て、人が油断した隙をつき、絶望させて殺す……』
騙されてはいけない。
幸村は頑なな意志を宿した目を向ける。
「教えてください、甲斐谷先生。すべてを。真実を」
「ええ。そのつもりで、貴方を呼び出したんですから」
幸村は、甲斐谷の顔面が蒼白なのに気づく。ひどい汗を流している上に、呼吸も荒い。立っているのもやっと、という感じだ。
「まず、佐助のことですが、彼は確かにアヤカシです。ですが、だからと言って、我々の敵というわけではないんです」
「どういうことですか?」
「彼は、忍なんです」
「忍って、暗殺とか間者をやったりするアレですか?」
甲斐谷は首を横に振る。
「いいえ。それは一般的に知られている忍。我々武将の間で言う忍とは、人間側につき、人間と主従契約を交わし、その人間の従者になったアヤカシのことを言うんです」
「ということは……」
「芸名はアルファベットでSASUKEですが、彼の本当の名は猿飛佐助。貴方が前世で彼と契約を交わしたときに、貴方が彼に与えた名です」
「俺が……?」
すると、甲斐谷の背後から別の足音がした。
佐助だ。
「SASUKEさん……」
「我、汝の刀となり盾となり、未来永劫、汝の御身を護り、この身を捧げることを誓わん……これが、俺たちが契約を交わしたときに、主たるお前に述べた誓言だ」
「ご、ごめんなさい。俺、記憶が……」
「構わない。俺は一瞬たりとも、この誓いを忘れたことはない」
これが、アヤカシでありながら、佐助が幸村を護る理由だそうだ。
らしいと言えば、らしい。思わず納得してしまいそうな。でも、きっとこれも……。
『平気で嘘をつきマス。綺麗事を並べマス』
家康の一言一句の重みが、ずっしりとのしかかってくる。騙されて傷つくのはもう御免だ。心の痛みは、ある意味では浄化の儀式よりもつらいのだから。
「なので、佐助は敵ではありません。そして私も、邪気を巧みに隠しているとかではなく、元からないんです。私は武将なんですから」
甲斐谷の目は、それこそ懸命に信じてほしいと訴えている。それに、幸村の心が、かき乱される。迷いが生まれそうになる。
『洗脳されてはいけませんヨ』
幸村は唇を噛み締め、耐えきれなくなり、自分の思いを吐き出してしまう。
「空言は、それで終わりですか?」
「……え?」
幸村のきつい目線に、甲斐谷と佐助は凍てつく。
「言ったでしょう? そんな優しい声で綺麗事を並べられるのはたくさんですって。俺は、もう騙されません。二人共、俺にだけ優しくしてくれたのは、俺が浄化人だからなんでしょう? 俺の命がほしかったからなんでしょう? 護ってくれたのは、他のアヤカシたちに手柄を取られたくなかったからなんでしょう? もういい加減に、お二人の口から白状してください。全部、演技だったんだって!」
「違います、幸村!」
思いがけない告白に、甲斐谷は思わず幸村に手を伸ばす。幸村は、それを全力で拒絶した。
「近寄らないでください!」
「幸む……」
言いかけて、甲斐谷は身をかがめて膝をついた。汗が先ほどよりもますますひどい。右腕を、痛そうに押さえている。
「し……甲斐谷!」
駆け寄ろうとした佐助に、無慈悲な声が降り注ぐ。
「縛動氷蛇」
佐助の足元から氷が出現し、凍てついていく。それは蛇のように佐助の体に絡みついて冷たい縄となり、佐助の動きを完封した。
「ぐっ……!」
「暴れない方がいいですヨ。暴れれば暴れるほど、貴方の体は凍てつき、氷の温度は下がっていきますカラ。凍死したくなかったら、大人しくしていることデス」
あまりの冷たさはまるで拷問のようで、佐助は顔をしかめる。幸村は背後から聞こえたその声に、胸を撫で下ろした。
「家康さん」
「御苦労さまでした、幸村君」
膝をついた甲斐谷と動けない佐助を見遣り、大きな斧を担いで現れた信玄が、勝ち誇ったかのように笑う。
「がはは。さすがは幸村じゃ。おかげでこやつらの隙をつけたわい。まあ、一人はすでに手負いの状態だったみたいじゃが」
甲斐谷のすぐ目の前まで接近し、大斧を振り下ろして右腕を斬りつける。短い悲鳴を上げ、吹き飛んで倒れた甲斐谷を見た幸村は、息を呑んだ。
「あの傷……」
破けた服の隙間からのぞくのは、赤く染まった包帯。それも斬撃でほどけ、更に下に、紫色に変色した皮膚がうかがえた。
「こっちはもう時間の問題じゃな。毒にやられておるわい。だが、ひと思いにとどめを刺してやろうぞ。のう、幸村」
「え……?」
話を振られて当惑する幸村に、信玄は一振りの短刀を渡す。
「これで、奴を」
「俺が……?」
「忘れたか、幸村よ。あやつはお前を謀ったんじゃぞ? その恨みと憎しみを込めて、あやつを葬るがよい。それがお前のためじゃ。未練を残したくはないじゃろう?」
確かに、いつまでも甲斐谷のことをずるずると引きずるのを防ぐには、幸村が自身の手で甲斐谷を倒すしかない。そうすれば、偽りの優しさも思い出も、すべて綺麗に吹っ切れるはずだ。
「……はい。わかりました」
短刀を受け取り、その意外な重みに少し瞠目する。これもまた、命を奪う道具……武器なのだと実感して、これを手にする、つまり戦いに出向くのに必要な意志の強さを改めて思い知った。
……覚悟なら、できている。
短刀を強く握り締め、鞘から抜き取る。鋭利な刃が光って、銀色の刀身はまるで鏡のようだ。
そのまま、倒れている甲斐谷のそばに寄り、痛たましい傷に一瞬、目を背けるが、すぐに再び甲斐谷を見つめる。
「甲斐谷先生……」
「幸村……」
両者の視線が一直線になる。ゼェゼェと苦しげな呼吸を繰り返す甲斐谷の青い瞳は、今までになく潤んでいた。
幸村は、呟くように言う。
「俺……俺は、俺を騙した奴を許すわけにはいかない」
短刀を持つ腕を振り上げ、構える。そして……。
「すみません、甲斐谷先生!」
甲斐谷はそっと目を閉じた。それから、心の中でもう一度、名を呼ぶ。
『幸村……』
その幸村の短刀が、真っ直ぐ振り下ろされた。




