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これほどまでに、緊張感を持つのが難しい戦いもないだろう。動くなと行われた場所で、ケネスは目を瞬かせた。
最初こそ、ここでの唯一の命綱とも言えるレンの様子に、自らもまた緊張を強いられた。しかし。
緊張した表情で、レンは剣を抜いた。そして、鞘を地面につきたてる。不思議なことに、それは固い地面に直立した。彼は闇に視線を固定したまま、剣を構える。かすかに剣が光った。
何かが飛び出してくる気配はない。だが、彼は力強く木立に向かって踏み込む。淡い光が揺れ、闇に尾を引き溶けたように見えた。すぐに彼は重心を移動させる。剣を持ち上げ、自らを守るみたいに横にする。舌打ちした。
再度、彼は最初の姿勢に戻る。ゆらゆらと、剣を覆う光が揺れる。
鳥や獣の声はない。ざわざわと重奏になるほどに木々を揺らす風もない。レンは緊張している。素早い動きは、安定してとても美しい。だが、何が起きているのか全くわからないのだ。ここが異界でなければ、心の中で見えないものとの戦いにエールを送りつつ、生ぬるい笑みでそっと距離を取ったに違いない。
不意に彼は力を抜いた。そして、剣をおろし、ケネスに振り返る。何か、宙にあるものを掴んで捨てるといった動作の後、ようやく口を開いた。
「――鞘をとってくれるか?」
「あ。ああ」
終わったということだろうか。そう言われ、ケネスは自らの足下に直立する剣の鞘に手を伸ばした。棚においた箱を取るみたいに、特に反動など感じることなく、それはケネスのてのひらに収まった。
中身が入っていないのだから、さして気遣う必要はないかもしれない。だがそれでも一応、先端を自らに向け、腕と胴体で挟む。そして、根本のあたりを向けて、差し出した。
レンのてのひらが戸惑うように鞘の近くで動いた。彼は小さく舌打ちし、眉を寄せる。
「――?」
森は深い闇に覆われつつある。木々の葉の間から漏れる光は白く美しい。だがそれは、闇を追い払う役にたっているというよりは、より、夜闇を強調するかのような光だ。
とはいえ、レンの左手と剣は光を蓄えている。足下に落とした硬貨を探すには不十分かもしれないが、剣の鞘を受け取るには十分だろう。
いや、違う。そうではない。それ以前の話だ。わざわざ鞘を取ってもらわなければいけない理由などないのではないか?
確かに、ケネスの方が鞘に近かったかもしれない。だが、ほんの一歩か二歩だ。
先ほど持ってみろと差し出したくらいだ。剣に対し、大した思い入れはないのかもしれない。それでも、わざわざ目的なく他人に自らの獲物を触らせるものだろうか?
やや乱暴な動作で、彼は鞘を受け取った。そして、慣れた手つきで腰につけると、剣をしまう。そして、二人の間にあった距離をつめた。
「……無事で良かった」
固い腕が、ケネスの身体を巻く。壊れ物を扱うかのように優しく、それでいてしっかりとした動作で抱きしめられた。
力強い腕の中、ケネスは目を見開いていた。テーブルに飛び上がった瞬間、家人が扉を開けてダイニングに入ってきた時の猫みたいな表情だった。
追いかけ回していたのは、ケネスの方なのだから、これは喜ぶべきできごとなのかもしれなかった。しかし。押し寄せてくる違和感が、嬉しいとか切ないとかときめきとか、その手の思いを遙か彼方に遠ざける。
距離を取ることも、背に腕を回しこたえることもせず、ケネスはただ力強い腕の中で呆然とした。
「近づくか、遠ざかるかと考えていたが、行かざるをえなくなったようだ。すまない」
口づけの距離で、彼はそう囁いた。音が言葉となり、意味として頭に浸透してくるまでにしばらくかかる。切なげな声色も、理解を妨げる要因の一つだった。
ケネスが凍り付いていることに気づいているのかいないのか。彼は、先ほどまで見えない何かと戦っていた場所に顔を向ける。そして、眉を寄せた。ケネスの身体を抱いたままだ。そんな姿勢で背後を確認するくらいなら、腕をとけばいいのではないか。一秒たりとも離れることを厭う恋人であるとでも言うのならばともかく。
じわじわとケネスの背を悪寒がはいあがってくる。甘く優しい抱擁。まるで睦言のような甘い声色。そして、わざわざすぐそこにある剣の鞘を手に取らせたこと。
「――」
ええと、と。何をどう尋ねればいいかわからず、ケネスは中途半端に口を開いた。
「怖いか?」
「……」
違和感が決定的になる。おかしい。明らかに彼の様子はおかしい。
確かに彼は、不自然なほどに親切だった。無知で考えなしであったケネスに対し怒りを露わにすることなく、罠にはめた学友に対しても敵ではないと言い切り、ただ現状に対する解決策を探る。大金で雇われる護衛でもそうはできないのではないかという寛容だ。
だが。
「――君は私が守る。だから、必要以上におびえる必要はない」
しばらく前に聞いたのと同じ言葉だ。だが、違う響きを感じた。不安をぬぐいさるどころか、恐怖すらおぼえるほどの空虚っぷりだ。
ぐっとケネスを抱く腕の力が強くなった。背に腕を回し、ほとんど変わらない位置にある頭を抱え込むようにして、彼は耳元で囁く。
「だから、怖がらないでくれ」
頼む、と。低く掠れた声が、熱っぽく耳に直接吹き込まれる。ぞくぞくと震えるのは、悪寒かそれとも別の何かか。
「目が見えなくなった」
だから、投下された爆弾を理解するのに、必要以上の時間がかかってしまった。それが故の策略であったのか、それとも。答えるものなどいるはずがなく、判断するには材料が足りなかった。足りなすぎた。




