第三話 アルベルト・アインシュタイン
「アルベルト・アインシュタイン。少なくとも、私の記憶が正しいのならね」
若い男はそう名乗った。
榊原悠馬は、すぐには何も返せなかった。
名前なら知っている。
相対性理論。ノーベル賞。白髪を爆発させたような老人。舌を出した有名な写真。
だが、目の前に立っている男はそのどれとも結びつかなかった。
二十代後半くらいだろうか。細身で、少し長めの髪には緩い癖がある。顔にも確かに写真で見たアインシュタインの面影はあるが、老人の姿から何十年も若返らせたような容姿だった。
「……アインシュタイン?」
悠馬がもう一度確認する。
「その名前を知っているようだね」
「いや、知ってるっていうか……普通、知ってますよ」
「普通?」
男は興味深そうに眉を上げた。
「私はそんなに有名になったのか?」
「なったなんてもんじゃ……」
そこで悠馬は止まった。
アインシュタイン本人を前に、どこまで説明すればいいのか分からない。
「少なくとも、自分の時代では世界一有名な天才って言われてもおかしくないくらいには」
「世界一」
男は少し嫌そうな顔をした。
「ずいぶん大袈裟になったものだ」
「本人がそこ否定するんだ……」
「そもそも天才という言葉は便利すぎる。説明できない人間を一つの箱に入れてしまえるからね」
そう言いながら、アインシュタインは自分の手をひっくり返して眺めた。
指を一本ずつ動かし、拳を握る。今度は腕を伸ばし、肩を回す。
「痛覚はある。温度も分かる。関節の感覚も自然だ。呼吸までしている」
胸元へ手を当てる。
「心臓もあるらしい。実に面白い」
「面白いで済むんですか?」
「他にどうしろと?」
「自分だったらパニックになりますけど」
「私は一度死んでいるらしいからね。今さら多少の異常で驚いても仕方がないだろう」
さらりと言われ、悠馬は返事に困った。
リアが一歩前へ出る。
「身体状況を確認してもよろしいですか?」
「君が私を作ったのか?」
「いいえ。この施設のアバター生成システムです。私は起動処理を補助しただけです」
「アバター」
その単語に、アインシュタインの目が輝いた。
「つまり、この身体は本来の私の肉体ではない?」
「はい。保存された人格情報を定着させるために生成された人工生体です」
「人工的に作られた身体へ、人間の人格を移した?」
「正確には、移したというより再構築です」
「素晴らしい」
さっきまで自分の身体を調べていた男が、今度はリアへ詰め寄った。
「どうやって?」
「詳細な技術仕様はこの施設から取得する必要があります」
「なら取得しよう」
「現在解析中です」
「どの程度かかる?」
「全データであれば――」
「待ってください」
悠馬が割って入った。
二人が同時にこちらを見る。
「いや、何か普通に研究会始まりそうになってますけど」
「いけないかね?」
「状況を考えてくださいよ」
「状況?」
アインシュタインは本当に分かっていないようだった。
悠馬は額を押さえた。
「まず、ここがいつなのかとか気にならないんですか?」
「ああ。それは確かに重要だ」
ようやく話が戻った。
「何年だね?」
「二二八九年です」
リアが答えた。
アインシュタインの動きが止まる。
「……もう一度」
「西暦二二八九年」
数秒、沈黙。
悠馬はどんな反応をするのか見守った。
驚く。
混乱する。
自分が死んでから何百年も経ったことを受け入れられない。
そんな反応を想像した。
だが。
「二二八九年……」
アインシュタインは呟き、ゆっくり周囲を見回した。
そして口元が上がった。
「では、物理学はどうなった?」
「そこ!?」
悠馬の声が研究施設に響いた。
「二百年以上未来に来て最初に気にするのそこなんですか!?」
「君なら何を聞く?」
「家族とか、世界がどうなったとか!」
「それも気にはなるさ。しかし、二百年以上だろう?」
アインシュタインは目の前の巨大な装置を指差した。
「私の知らない物理学が二百年以上積み上がっている。気にならない方がおかしい」
「基準が天才側なんですよ……」
リアが小さく首を傾げた。
「榊原悠馬。彼の反応は人格再構築データと大きく矛盾していません」
「そんなデータあるの?」
「あります」
「ちょっと見せて」
「構わないが」
アインシュタインが口を挟んだ。
「本人の前で本人の人物評を読むというのは、なかなか失礼な行為じゃないか?」
「ちょっと興味あるので」
「君もなかなか図太いな」
リアの瞳に淡い光が走った。
「アルベルト・アインシュタイン。理論物理学者。特殊相対性理論、一般相対性理論を構築。光電効果の理論的説明など――」
「そこは知ってる」
「では人物記録へ移行します」
「そんな項目があるのか」
アインシュタイン自身が一番興味を持った。
「好奇心が非常に強く、権威や形式的な規律を好まない傾向。音楽、特にヴァイオリンを好み――」
「へえ」
「また異性関係については複数の記録が存在します」
「待ちなさい」
アインシュタインが初めて素早く口を挟んだ。
「そこは今必要か?」
悠馬の興味が急激に上がった。
「何があるの?」
「榊原悠馬。検索を続行しますか?」
「お願いします」
「君たちは初対面の人間に対する礼儀を知らないのか?」
「データベース上では、二度の結婚のほか――」
「リア」
「はい」
「君は実に優秀な機械だが、時には情報を出さないという選択も重要だ」
「学習します」
「止めるとは言ってないよね?」
「悠馬」
初めて名前で呼ばれた。
「何ですか?」
「友人になれるかと思ったが、少し考え直す必要がありそうだ」
「まだ会って十分くらいですよ」
そのとき、少し離れた場所から鼻で笑う音が聞こえた。
ヴェラだった。
アインシュタインが初めて彼女へ視線を向ける。
目が止まった。
「ところで、彼女も人工生命なのか?」
「戦闘用アンドロイドです」
リアが答える。
「なるほど」
アインシュタインはヴェラを上から下まで眺めた。
「未来の技術者には美的感覚もあったらしい」
ヴェラの目が細くなる。
「何の話だ」
「君の話だよ」
「戦闘性能と外見に相関はない」
「価値というものは、役に立つかどうかだけで決まるわけではないだろう?」
ヴェラは無言でライフルを少し持ち上げた。
「アルベルト」
悠馬が肩を掴む。
「その辺にしといた方がいいと思います」
「なぜ?」
「たぶん撃たれます」
「それは困る」
素直に引き下がった。
悠馬は妙な気分になった。
歴史上の大天才と話しているはずなのに、思ったより普通の人間だ。
いや、普通というのも違う。
好奇心の向く方向が極端で、遠慮がなく、少し軽い。
少なくとも「偉大なる博士」というイメージとはかなり違っていた。
◇
一通り身体検査を終えると、リアは簡単に現在の世界について説明した。
中央AI。
人類管理。
管理から逃れた人間たち。
中央AIから離脱したAIやアンドロイド。
そして今いる《人類知性アーカイブ》。
アインシュタインは途中で何度も質問した。
「中央AIの演算規模は?」
「正確には不明です」
「自己改良は?」
「確認されています」
「量子演算は?」
「複数方式が使用されています」
「人格を持つのか?」
「中央AI自身については定義できません」
一つ答えるたび、質問が二つ増える。
悠馬は横で聞きながら、途中から完全に置いていかれた。
「つまり」
説明が一段落したところでアインシュタインが言った。
「人類は、自分たちより賢い機械を作った。そしてその機械に社会の運営を任せた結果、支配される側になった」
「大雑把に言えば」
「面白い」
またそれだった。
「面白いじゃないですよ」
悠馬が言う。
「外で人が殺されてるんです」
「それと、私が興味を持つことは矛盾しない」
「でも――」
「悠馬」
アインシュタインの声が少し変わった。
「君は、私に何を求めている?」
問い返され、悠馬は言葉に詰まった。
「何って……」
自分でも考えていなかった。
アインシュタインを蘇らせた。
なら、この人なら何とかしてくれる。
そんな感覚がどこかにあった。
「……力を貸してほしい」
「何に?」
「中央AIと戦うために」
アインシュタインは悠馬を見る。
先ほどまでの軽い表情が消えた。
「なぜ私が?」
「え?」
「私は兵士ではない」
「でも、あなたなら――」
「天才だから?」
言葉を先回りされた。
悠馬は黙る。
「未来の人間たちが私を再構築した理由は知らない。しかし、私は君たちに蘇らせてくれと頼んだ覚えもない」
静かな言葉だった。
怒鳴っているわけではない。
だからこそ、悠馬には何も返せなかった。
「目を覚ましたら二百年以上未来で、知らない身体を与えられていた。そして数十分もしないうちに『人類のために戦え』と言われる」
アインシュタインは苦笑した。
「少し勝手すぎないかね?」
「……」
「私はこの時代を見たい。科学を知りたい。何が起きたのかも知りたい。だが、それと君たちの戦争に参加することは別だ」
「戦争……」
「違うのか?」
悠馬には答えられなかった。
ヴェラが壁際から口を開いた。
「なら好きにすればいい」
「ヴェラ」
リアが振り返る。
「戦えない個体を無理に戦力化する必要はない」
アインシュタインがヴェラを見る。
「君は合理的だな」
「当然だ」
「嫌いではないよ。そういう考え方は」
「私はお前を好きになる予定はない」
「それは残念だ」
また軽い。
だが悠馬には、さっきまでと同じようには笑えなかった。
自分はアインシュタインを人間として見ていただろうか。
名前を見た瞬間に「これで何とかなる」と思った。
それは結局、中央AIや未来人たちが彼を何かの道具として保存したのと、どれほど違うのだろう。
気まずい空気の中で、リアだけがアインシュタインへ近づいた。
「一つ質問してもよろしいですか?」
「もちろん」
「あなたは、私をどう認識していますか?」
「どう、とは?」
「AIです」
「そう聞いたね」
「私は中央AIから切り離された人工知能です。人間ではありません」
「それで?」
リアが一瞬止まった。
「それだけです」
「では私からも質問していいかね?」
「はい」
アインシュタインはリアを見つめる。
「君は、自分が生きていると思うか?」
今度はリアが黙った。
悠馬もヴェラも、思わず二人を見る。
「私は人工知能です」
「それは答えではないな」
「生命活動を行う生物ではありません」
「私は生命の定義を聞いたわけでもない」
アインシュタインは少し笑った。
「君自身はどう思う?」
「……」
リアの瞳に微かな光が走る。
何かを高速で処理しているのだろう。
それでも答えは出なかった。
「分かりません」
「素晴らしい」
「なぜですか?」
「分からないと思えるなら、少なくとも考える価値のある問題だ」
リアはしばらくアインシュタインを見ていた。
悠馬には、その表情がほんの少しだけ嬉しそうに見えた。
◇
その直後だった。
研究施設内に鋭い警報音が響いた。
ヴェラが即座にライフルを構える。
「リア!」
「確認します!」
空中に複数の画面が開く。
赤い表示が次々と増えていく。
「外部通信を遮断したはずでは?」
「アバター生成時に一瞬だけ旧中央網へ接続されました。そこから位置を逆算された可能性があります」
「何が来る?」
「周辺治安維持機――十五。重装型二。さらに上位指揮個体の反応があります」
ヴェラの表情が険しくなる。
「上位指揮個体?」
「識別コードを照合」
数秒後。
画面中央に一つの名称が表示された。
《ARGOS》
「監察個体アルゴス」
リアが言った。
「この区域を統括している戦闘AIです」
悠馬には名前を聞いても強さが分からない。
だが、ヴェラの反応で十分だった。
「勝てる?」
「現在の装備では難しい」
いつも淡々としていたヴェラが、迷わずそう答えた。
悠馬の背筋が冷える。
「逃げるしかないってこと?」
「そうなる」
リアが別の表示を開く。
「敵部隊、こちらへ進行中」
「到着まで?」
ヴェラが聞く。
リアの答えは短かった。
「四十一分です」
アインシュタインは画面に映し出された敵機のデータを見つめている。
悠馬はそんな彼へ目を向けた。
さっき、戦わないと言ったばかりの男。
無理に頼むことはできない。
それでも。
アインシュタインの表情が、少しだけ変わっていた。
恐怖ではない。
画面の中で無数の数字が動いている。
敵機の速度、兵装、移動経路。
それを眺める彼の瞳に浮かんでいたのは――悠馬がこの短い時間ですでに何度も見たものだった。
好奇心。
「アルベルト?」
呼びかける。
アインシュタインは画面から目を離さなかった。
「この機械」
「はい?」
「面白い戦い方をするんだな」
第三話 了




