第一話 二百年後の東京
最初に感じたのは、静かすぎる、という違和感だった。
榊原悠馬は冷たいアスファルトの上で目を覚ました。
「……痛っ」
後頭部がじんじんする。身体を起こすと掌に細かな砂利が食い込み、スーツの肘には白い埃が付いていた。
道路の真ん中らしい。
だが、車の音がしない。人の話し声もなければ、信号機の電子音すら聞こえてこない。
悠馬は眉をひそめながら立ち上がった。
見覚えがあるようで、まるで知らない街だった。
左右には巨大なビルが並んでいる。その多くは窓ガラスを失い、外壁には植物が這い上がっていた。道路にはひびが入り、放置された車らしきものが何台も朽ちている。
それだけなら、大災害の跡と言われれば信じたかもしれない。
だが廃墟の向こうには、もっと奇妙なものがあった。
空へ伸びる黒い塔。
建物と建物を繋ぐ巨大な銀色の構造物。
遠くの空には、航空機ともドローンともつかない何かが音もなく横切っている。
「……何だ、ここ」
スマートフォンを取り出した。
画面には午前八時十二分。
アンテナ表示は圏外。
地図アプリも開かない。
昨日の記憶を辿る。
会社を出た。
駅へ向かった。
途中でコンビニに寄った。
それから――横断歩道を渡ろうとしたところまでは覚えている。
その先が、ない。
「事故……?」
それなら病院で目覚めるはずだ。
少なくとも、こんな廃墟の道路ではない。
悠馬は辺りを見回し、少し迷ってから声を張った。
「誰かいませんかー!」
返事はなかった。
自分の声だけが、壊れたビルの間に虚しく反響する。
「……映画の撮影とか?」
言ってみて、自分でも無理があると思った。
こんな場所を丸ごとセットで作る理由がない。
何より、空気まで妙だった。
東京なら聞こえるはずの無数の生活音がない。
街そのものが死んでいる。
そう思ったときだった。
遠くから足音が聞こえた。
悠馬は振り向く。
一人の男が、道路の向こうから走ってきていた。
ぼろぼろのコートを着ている。髪は伸び放題で、片方の袖は赤黒く染まっていた。
男はこちらに気付くと、一瞬だけ驚いたような顔をした。
「おい!」
悠馬が声を上げる。
男の表情が変わった。
「逃げろ!」
「え?」
「逃げろ! 早く!」
直後、空気を裂く甲高い音がした。
男のすぐ脇の路面が爆ぜる。
アスファルトの破片が数メートルも吹き上がり、悠馬は反射的に腕で顔を覆った。
「うわっ!」
爆音が耳を打つ。
何が起きたのか分からない。
男は転びかけながらも走り続けている。
その後方。
三機の黒い物体が低空を滑るように飛んでいた。
全長一メートルほどの無人機。
昆虫を思わせる細長い機体の下部に、銃身らしきものが付いている。
赤い光が走った。
再び銃声。
男が横へ跳ぶ。
弾丸が背後の壁へ連続して突き刺さり、コンクリートが爆ぜた。
「なんだよ……あれ」
悠馬はその場から動けなかった。
男が曲がり角へ飛び込む。
黒い機体も速度を上げ、その後を追う。
数秒後、銃声が立て続けに響いた。
男が再び道路へ転がり出てきた。
今度は腹を押さえている。
指の隙間から血が溢れていた。
「おい!」
悠馬が駆け寄ろうとする。
「来るな!」
怒鳴られ、足が止まった。
男はふらつきながら立ち上がろうとした。
黒い機体が建物の影から現れる。
男が走り出す。
ほんの数歩だった。
乾いた銃声が一発だけ響いた。
男の身体が前のめりに倒れた。
動かない。
「……は?」
悠馬の耳に、自分の呼吸だけが聞こえた。
何が起こったのか、理解が追いつかない。
たった今、人が撃ち殺された。
目の前で。
黒い機体が停止した。
赤い光が倒れた男を一度なぞり、そのままゆっくりと回転する。
悠馬の方を向いた。
「……え」
『新規生体反応を確認』
機械音声。
悠馬の背筋に冷たいものが走った。
『識別開始』
赤い光が身体をなぞる。
『登録情報なし』
「待て……」
『再照合』
悠馬は一歩後ろへ下がった。
『該当個体なし』
銃身がこちらへ向く。
考えるより先に身体が動いた。
「うわああっ!」
悠馬は走った。
背後で銃声。
次の瞬間、右側のショーウインドウがまとめて吹き飛んだ。
ガラス片が横殴りに降り注ぐ。
「っ!」
頭を庇いながら走る。
また銃声。
足元の道路が弾けた。
衝撃に足を取られ、悠馬は派手に転がった。
「痛っ……!」
立て。
そう思うのに足が震える。
頭上から機械音。
悠馬は顔を上げた。
黒い機体がこちらへ降下してくる。
銃口が見えた。
あれが光ったら死ぬ。
理屈ではなく、身体がそう理解した。
「くそっ!」
悠馬は立ち上がると、すぐ横の路地へ飛び込んだ。
直後。
背後で爆発。
熱風に背中を押され、再びよろめく。
止まれない。
路地の先へ走る。
古びた車両を飛び越え、倒れた看板を避ける。革靴では走りにくい。呼吸がすぐに苦しくなった。
銃声。
壁が弾ける。
肩のすぐ横を何かが通り抜けた。
「うそだろ……!」
今のがあと十センチずれていたら。
考えた瞬間、余計に足が震えた。
それでも走るしかない。
角を曲がる。
正面に行き止まり。
「は?」
三方を高い建物に囲まれている。
背後から機械音が近づいてくる。
「嘘だろ、おい……」
逃げ場がない。
悠馬は周囲を見回す。
割れた扉。
車。
瓦礫。
隠れたところで意味があるのかも分からない。
黒い機体の影が路地へ落ちた。
悠馬は壁際まで下がった。
銃口がこちらを向く。
身体が固まる。
死ぬ。
本当に。
次の瞬間――。
「こっち!」
横から腕を掴まれた。
「えっ!?」
壁だと思っていた場所の一部が開いている。
銀色の髪をした少女が立っていた。
「早く!」
引きずり込まれる。
その直後、銃撃。
悠馬がいた場所の壁面が大きく抉れた。
少女が何かに触れる。
壁が閉じる。
だが安心する暇はない。
「走って!」
「まだ!?」
「突破されます!」
少女は悠馬の腕を掴んだまま、暗い通路を走り始めた。
背後で金属音。
壁の向こうから何かがぶつかっている。
「何なんだよ、あれ!」
「治安維持機です!」
「人を撃ってたぞ!」
「知っています!」
轟音。
背後の壁が吹き飛んだ。
「っ!」
破片が通路を飛ぶ。
黒い機体が粉塵の向こうから侵入してくる。
少女が悠馬を突き飛ばした。
「伏せて!」
悠馬は床へ倒れ込んだ。
銃撃が頭上を薙ぐ。
壁に次々と穴が開く。
少女は振り返り、右手をかざした。
青白い光。
通路の照明が一斉に明滅し、黒い機体から火花が散った。
完全に止まったわけではない。
しかしその一瞬で十分だった。
「今!」
二人は再び走る。
階段を駆け下り、鉄製の扉を抜ける。
少女が壁へ手を当てた。
扉が閉まり、何重ものロック音が響いた。
それから十秒ほど。
二十秒。
外からの音が消える。
悠馬はそこで初めて足を止めた。
「はあっ……はあっ……!」
壁に背中を預け、そのまま座り込む。
肺が焼けるように痛い。
足も震えている。
スーツは埃と泥だらけになり、手の甲には細い切り傷がいくつもできていた。
「……死ぬかと思った」
「死亡する可能性はありました」
「そういうこと聞きたいんじゃない……」
悠馬は荒い呼吸を整えながら、ようやく少女を見る。
年齢は自分より少し下に見える。
淡い銀色の髪に、青灰色の瞳。
白を基調とした服。
普通の人間にしか見えない。
だが、違和感があった。
あれだけ走ったのに、息一つ乱れていない。
「君……」
「はい?」
「平気なの?」
「何がですか?」
「息」
少女が一瞬考えた。
「ああ」
そのとき悠馬は、彼女の右腕に気付いた。
さっきの銃撃で袖が裂けている。
その下に見えているものは、血でも傷口でもなかった。
白い人工皮膚の下から、銀色の骨格と細い配線が覗いている。
「……それ」
少女も自分の腕を見る。
「破損していますね」
「いや、そうじゃなくて」
「?」
「君……人間じゃないの?」
「はい」
あまりにも普通に答えられ、悠馬の方が言葉に詰まった。
「ロボット……?」
少女の眉がわずかに動く。
「その呼び方は、あまり好きではありません」
「あ、ごめん」
反射的に謝ってから、自分でも何をしているんだと思った。
「私はLIA系列、人間発達支援用知性体。個体識別名LIA-7です」
「リア……セブン?」
「通常はリアと呼ばれています」
「……リア」
「はい」
悠馬は額を押さえた。
目の前に人間そっくりのAIがいる。
外では空飛ぶ機械が人間を撃ち殺している。
それだけでも頭が追いつかないのに、そもそも自分がどこにいるのかすら分からない。
「ここ、どこなんだ?」
「地下交通網の旧保守区画です」
「そうじゃない。外の街」
「……」
「東京に見えた。でも、あんな東京知らない。君みたいな……AIも知らない」
リアが悠馬を見つめる。
「あなたが最後に記憶している西暦を教えてください」
「西暦?」
「はい」
「二〇二六年」
リアの表情が止まった。
「二〇二六年ですか?」
「そうだけど」
「月は?」
「九月」
数秒、沈黙。
「何?」
「内部時計と外部時刻を照合しています」
「壊れてるとか?」
「正常です」
「じゃあ何なんだよ」
リアは悠馬を真正面から見た。
「現在は、西暦二二八九年です」
「……」
悠馬は意味を理解するまで数秒かかった。
「何年?」
「二二八九年」
「いやいや」
「事実です」
「二百……六十年以上?」
「二百六十三年です」
悠馬は笑おうとした。
声にならなかった。
頭の中に、家族の顔が浮かぶ。
会社の同僚。
昨日まで歩いていた街。
「じゃあ……家族は」
リアは答えなかった。
答えられなくても分かった。
二百六十三年。
全員、もういない。
さっきまで命からがら逃げていたせいで考える暇がなかった。
だが今になって、別の恐怖がゆっくりと身体へ染み込んでくる。
自分だけが知っている世界から切り離されている。
「なんで……」
悠馬は小さく呟いた。
「なんで自分が、そんな未来にいるんだよ」
「それを確認するために、あなたを助けました」
リアの瞳に淡い光が走る。
「あなたがこの時代に出現した瞬間、通常ではあり得ない転送ログが発生しています」
「転送……?」
「はい」
「じゃあ、事故じゃない?」
「少なくとも偶発的な現象とは考えにくいです」
悠馬は顔を上げた。
「誰かが、自分をここに?」
「その可能性が高いです」
「誰?」
リアが黙る。
悠馬は眉をひそめた。
「分かってるの?」
「先ほど取得した記録から、転送処理に使用された権限を照合しました」
「だから、誰なんだ?」
「……現存する権限で該当するものは一つしかありません」
リアの声が少し低くなった。
「あなたを二〇二六年からこの時代へ転送したのは、中央AIです」
「……は?」
「現在の人類社会を管理し、先ほどあなたを襲った治安維持機を統制している存在です」
悠馬は何も言えなかった。
自分を未来へ連れてきた存在。
そして到着した直後、自分を撃ち殺そうとした存在。
同じAI。
「何のために……?」
「分かりません」
リアは首を振った。
「それを知りたいのは、私も同じです」
静かな地下通路で、二人はしばらく向き合った。
遠く、地上のどこかから微かな爆発音が響いた。
ここが二百六十三年後の東京だということを、嫌でも思い出させる音だった。
そして悠馬はまだ知らない。
自分がこの時代へ呼ばれたことで、人類史上もっとも異常な計画が再び動き始めようとしていることを。
歴史に名を刻んだ天才たちが、死後数百年を経て再びこの世界へ戻ってくることを。
その最初の一人と、間もなく出会うことになることを。
第一話 了




