表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
式妹(しきまい)は締切を延ばしてくれない  作者: 妙原奇天


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/12

第11話 祈の名前を呼ぶ

 朝の匂いは、夜より少しだけ薄い。蜂蜜の瓶の蓋を開けたときに立つ甘い気配が、夜中よりも遠慮がちに鼻へ届く。湯気の音は変わらない。コツコツと内部の水が指で机を叩くみたいな細い音。ポットの前で立ち尽くしながら、凪は自分の胸の奥にある古い扉の錠前へ、そっと指を伸ばした。

 最初の自分を、掘り返す。

 キーボードの前ではなく、ノートの前でもない。今朝だけは、目を閉じて、脳の奥の引き出しを開ける。埃をかぶったものの並び。触るのが怖くて後回しにしてきた箱。薄いビニールで包まれた紙束。鉛筆の削り屑の匂い。あの教室の光景が、舞台のセットみたいにゆっくり立ち上がる。

 小学校の教室。冬の終わり、窓の外に梅の枝。国語の授業で「物語を書きましょう」と先生が言った日。クラスの誰もが、紙をぎこちなく折った。凪は隅の席で鉛筆を握り、最初のタイトルをあきれるほど大袈裟に書いた。胸が震えた。震えすぎて、鉛筆の黒が濃くなって紙にへこんだ。書いている途中、前の席の女の子が振り返って、「ねえ、何書いてるの」と声をかけてきた。見せたくて、でも見せたくなくて、凪は紙を胸の前で折り曲げ、ぎこちない笑いでごまかした。先生は生温かい目で見守り、最後に一人ひとりの作品を回収した。授業の終わりのチャイム。帰りの会。廊下の空気の冷たさ。放課後に返ってきた紙の端には、先生の赤い丸と、浅い筆圧で残る一言。

 よく届きました。あなたの言葉は、誰かに届きます。

 先生の手の温度は、冬の廊下の冷たさの中で不思議とぬくかった。丸をつけるときに紙を押さえた親指の圧が、軽くも重くもない、ちょうどの力加減だった。その夜、布団の中で紙を読み返して、凪は見えない誰かに向かって一人で小さく頷いた。

 最初の嫉妬は、中学の図書室だった。仲の良い同級生が携帯小説でバズった。ランキングの数字が掲示板に貼られ、クラスの中でその子の肩書が「すごい」に変わった。凪は笑った。おめでとうと言った。夜、布団の中で吐きそうになった。自分の言葉が誰かの胸に入る「順番」を、誰かに抜かれた気がして、息がうまくできなかった。翌日、図書室の奥の席で古いシャープペンで延々と書いた。「嫉妬」という言葉を使うのが悔しくて、別の名前を与えた。「歩幅を測れなかった夜」。名前を付けたら、少しだけ楽になった。

 初めて救われた読者のDMは、スマホの画面の向こうから薄い光になって、朝の凪の胸元でまだあたたかい。地方の高校生。夜のバイトから疲れて帰って、眠れなくて、凪の短編を読んだという。「今日、泣けてよかったです」と短く書いてあって、その次の行に「ありがとう」があった。誤字もなく、顔文字もなく、うまく飾られていない二語だった。凪は画面を握りしめて、深夜だったが祈に見せに行った。祈は目を細め、小さく笑って「届きました」と言った。「はい」とも言った。どちらも、凪の背中を支えるちょうどの温度だった。

 最初の自分は、場所と温度と音でできている。教室の蛍光灯のうなり。図書室の暖房の風。スマホの小さなバイブの震え。先生の親指の圧。嫉妬で吐きそうになった夜の胃の重さ。救いのDMの文章の軽やかさ。凪はそのひとつひとつを両手で掬い上げ、机の左端の空路にそっと置いた。祈がいない朝でも、空路は空路のまま保つ。

 うららが配信を始めた。通知のバナーが目の端に光る。「初投稿、歌い直し」。彼女は昔アップした未熟なオリジナル曲を、今の声と今の肺で歌い直す企画を始めたのだ。マイクの近くで笑いながら、彼女は言った。「最初のつたなさ、消すんじゃなくて、重ねるね」。チャット欄に「最初の拍手」の絵文字が流れた。拍手の音は画面の向こうで重なり、街の表面に薄く降り積もるように広がっていく。

 真柴斗真は「落選ネーム晒し再挑戦」を朝のSNSに投稿した。勝負の場に出して落ちたネームを、反省と分析の図と一緒に全部晒し、今日から一日一枚リライトして出していくと宣言した。ホワイトボードに走る線はいつもより少し濃く、字は少しだけ太かった。コメント欄に新人の漫画家たちが集まり、「見たい」「こわい」「でも見たい」と矢印を揺らし続けた。

 雨宮シオンは短いエピソードを語った。ピアノ教室の初日、隣の部屋から漏れてきたバイオリンのチューニング音に鳥肌が立ったこと。音楽が「好き」になった瞬間に、理由がなかったこと。好きは、理由の外側で起こるのだと同時に知ってしまった九歳の自分。シオンの声はいつもより低く、BPMは落とし気味にしてあった。都市の隙間に、その低い声が沁みていく。通勤の人たちの歩幅がほんの少しだけゆるみ、白い息の帯が長くなる。最初の拍手が、都市に薄く降る。

 凪はコートを着た。マフラーを二重に巻き、ポケットにノートとペンを入れ、玄関の鍵を回す。あの神社へ行く。式の最初の場所。雪の石段は滑りやすく、何度も足を取られそうになった。足を上げるたび、ふくらはぎに短い痛みが走る。その痛みが、今朝の凪には頼もしかった。痛みは、今ここにいることの証拠だ。

 鳥居が雪を被っている。小さな神社。朝の参道。人影はない。石段の上には、薄い雪の層。鈴の縄は冷え切っていて、手のひらの熱を吸う。凪は一度だけ深く息を吸い、白い帯を吐き、心の中で段取りを整えた。祈と交わした契約文は胸ポケットにある。読み上げる段は今ではない。今は「呼ぶ」段だ。

 三度、名前を呼ぶ。三度で足りなければ、四度。四度で足りなければ、五度。けれど、今朝は三度で届くと不思議に確信していた。最初の自分の隣には、いつも祈がいた。式は呼ばれることで立ち現れる。呼ばれた場所の温度で輪郭が決まる。祈が決めた定義は、祈にも従う。

 凪は縄に手をかけ、静かに鳴らした。鈴が空気を突く。凪は目を閉じ、呼んだ。

「祈」

 声は低く、けれどはっきり。息を整える。もう一度、鈴を鳴らし、呼ぶ。

「祈」

 声はさっきより少し高い。高いぶん、空へ抜ける。最後の一回は、腹から出す。雪の石段の冷たさを膝で受け、地面から吸い上げた力で、言葉を押し出す。

「祈。僕はもう逃げない。式妹は、僕の倫理だ。戻ってきてくれ」

 三度目の鈴が、神社の境内に短く走った。音は小さいのに、世界の端まで行くみたいに遠くへ伸びた。空気がゆっくりとたわみ、鳥居の影が薄く揺れ、雪の上に細い影が一筋走る。

 祈が、そこにいた。

 白い。雪の白と同じではない、紙の白とも違う、人の白。彼女は鳥居の影から歩いてきて、鈴の前で立ち止まった。耳飾りの鉛筆は、今朝はまだ鳴らない。けれど、凪にはわかる。鳴りたがっている音が、小さくそこで待機している。

「ただいま」

 祈は言った。声は変わらない。輪郭は戻っている。半歩だけ近づき、目を伏せ、また上げる。凪は笑って、泣きそうになって、それを笑いに戻す。

「おかえり」

 それだけで、十分だった。やり直しの儀式は短くていい。長いのは、昨日の夜に済ませた。紙の上で、嘘をほどき、戻ってくる場所の温度を守った。あとは、呼びかけと、返事。「ただいま」と「おかえり」が、式の輪郭をまた一段太くした。

 祈は胸ポケットの内側から古い紙切れを一枚取り出した。契約文。角は丸く、紙は柔らかい。彼女は紙を凪に返し、指で軽く押さえた。小さくうなずいてから、耳飾りの鉛筆を弾く。かち、と微かな音。

「再契約します。条文の内容は変えません。『嘘をつけば君は冷える。だから私は今日、正直に書く』。読み上げなくていい。今朝は、もう実行されている」

「はい」

「それと、追加の確認」

 祈の瞳は澄んでいた。曇りも怒りも羞恥もなく、ただ確認の色だけ。

「最後の敵は人じゃない。“単一の観客”です」

 凪は、頷いた。昨夜の祭壇。蜂の巣の六角。右に寄る梁。七十二の拍。束ねることで生まれた強い言葉。それが人を眠らせること。緋音の冷たい確信。強敵だ。けれど、祈の言葉の指す矢印は、恐怖ではない。定義だ。敵は人の名を持たない。人の皮を被らない。「単一の観客」は人名ではない。仕組みの名前だ。ならば、戦い方は変わる。

「うん。倒すんじゃない。名前をつけ直す。束ね方を分ける。回り道を残す。『一つの観客』にされる前に、『いくつもの顔』へ戻す」

「よくできました」

 祈の返事は少しだけ幼かった。雪の朝は、人の年齢を一年分だけ下げる。凪は笑い、マフラーの端を整えた。スマホを取り出し、四人に短いメッセージを送る。

 ──今夜、決着をつける。

 弦から秒で既読、スタンプの剣。斗真から指の骨の絵。シオンからはBPMの数字が三つ並び、最後に「整える」と一語。うららはハートの絵文字をひとつだけ送ってから、「今日は泣かない曲で行くね」と短く続けた。日下部編集からは「おまえ、かっこつけすぎんな」と来て、すぐに「でも、勝負しよう」と来た。

 最後に緋音へ送った。迷いなく、一文だけ。

 ──見せる。

 しばらくして、緋音からも短いメッセージが返ってきた。

 ──見せてみな。

 凪はスマホをポケットに戻し、祈の横に並んで神社の階段を降りた。雪は軽い。足の裏がぎゅ、と鳴る。降り積もった初拍手のように、街の上には温度の薄い静けさが広がっていた。

 昼。段取りは淡々と進んだ。弦は配信の枠を取り、緊急ではなく「予定通りの生放送」としてアナウンスした。「いつもの」テンポで始めることが、今夜に必要だと彼女は理解している。いつもから始め、いつもから外していく。急造の緊張は、相手の得意分野だ。こちらは、習慣の強さを使う。

 斗真は章立ての骨をもう一度確認し、四辺の枠に「切り取り不能のための余白」を足した。切り抜かれても死なない言葉ではなく、切り抜かれると意味が壊れる言葉。その違いは、ただテクニックの問題ではない。読者に渡す「読解の権利」の問題だ。権利の境界線を、構図で引き直す。

 シオンは都市のBPMを調整する部署へ、公式の申し入れをした。今日の夕方から夜へかけての公共空間のBGMのテンポを、七十二から七十へ、そして九時以降は六十八へ。冷静に、穏やかに。喧騒が尖りにくい舞台を、音で敷く。「音は空気の段取り」と彼女は言っていた。今日ほどその言葉が正しく聞こえた日はない。

 うららは歌詞カードの二番を直し、最後のサビの前に短い語りを差し込んだ。「最初に投稿した動画、音が割れてたし、テンポも迷子だった。あれを消したら、私は楽になる。でも、消さない。消さないで重ねる」。笑いながら、まっすぐ。彼女の「笑い」は、今夜は武器ではなく、道標だ。

 祈は、再契約の印として耳飾りの糸を結び直した。「ぬくい」と小さく呟いた。耳飾りの鉛筆が、ほんの少しだけ明るい音で鳴った。凪は机の左端の空路を指でなぞり、金具のささくれをすべすべになるまで磨いた。たい焼きの紙袋をきれいに折り、契約文の紙の下に敷いた。「縁起がいい」と祈が言った言葉を、もう一度胸の中でなぞる。泣かない。泣かないと決めた夜は泣いてもいいが、今夜は泣かないと決めたから、泣かない。

 夕暮れが街の角を柔らかく塗っていく。人の影が長くなり、看板の色温度がゆっくり温に寄る。仕事帰りの人たちの足取りは、いつもより半拍遅い。シオンが敷いたテンポが、街の深呼吸に薄く混じる。弦が袖で手を上げ、うららがマイクを握り、斗真がペンを握り、凪はポケットの中で契約文を握る。祈は、耳飾りの鉛筆を指で弾く準備をする。

 そのとき、都市のサイネージが一斉に黒へ落ちた。巨大な壁面画面も、駅の柱の細い縦長画面も、バス停の小さな液晶も、すべてが同時に光を吸って、黒くなった。ざわめきが起きる。誰かが足を止め、誰かが顔を上げ、誰かがスマホを構え、誰かが走りだす。緋音の合図だ。彼女は宣戦布告を派手にしない。派手なのは、黒だ。「何も映さない」を同時に行うことほど、露骨な演出はない。緋音は相変わらず露骨で、誠実だ。

 空が群青に落ちていく。黒い画面が都市のあらゆる角で息を潜め、観客の視線を一箇所に集めずに、全域へ広げる。「単一の観客」へ向かわせないための、逆の束ね。祈が小さく笑った。凪も笑った。弦が指で三つ数え、うららが息を吸い、斗真が線を引き、シオンが針を落とす。

 開戦の合図は、派手な爆音ではなかった。黒い画面のまま、都市の音量が一段落ちる。足音がはっきりする。咳払いが手前に来る。誰かの小さな笑い声が遠くで跳ねる。凪は祈の横で、胸ポケットの契約文に、最後の言葉を重ねた。

 ——僕はもう逃げない。式妹は僕の倫理だ。今夜は、見せる。

 耳飾りの鉛筆が、かすかに鳴った。祈がうなずいた。その音は、都市のどこかで合図のように響き、黒い画面の向こうで待機していた何千という小さな余白がいっせいに目を覚ます。誰かの目がそこへ向かう。向かった目が、ばらばらのまま集まり、集まったまま、個々の顔に戻っていく。

 夜はふくらんだ。黒い画面は黒いまま、都市は光を湛え、拍は落ち着き、言葉は温度を得る。緋音のダッシュボードの前で、彼女は目を細めたに違いない。負けたくない。勝ちたい。だが、「単一の観客」は勝者の名ではない。仕組みの名だ。仕組みには、名前を付け直せばいい。名付け直しの夜が始まった。

 凪は一度だけ祈の横顔を見た。祈は前を見ている。祈の名前を呼ぶ声は、さっき鳥居の下で三度、確かに届いた。以後は呼ばなくてもいい。呼ばなくても隣にいる。呼べばいつでも戻ってくる。呼ばれなくても、ここにいる。

「行こう」

「はい」

 二人の声は小さく、しかしはっきりしていた。雪はまだ降っていない。けれど、空気には雪の匂いが混じっている。黒い画面の下、都市は静かに、戦いの夜へ入った。凪は歩き出し、祈も歩き出す。歩幅は揃っている。足跡は重ならない。重ならないのに、道になる。

 最初の自分を掘り返した朝から、ここまで連れてきたのは、一行だ。先生の赤い丸の隣の一言。嫉妬に名前を与えた一言。救いのDMのありがとう。祈と交わした契約文の短い文。うららの笑いのすぐ前に置かれる一行。斗真の枠の四辺に書かれる小さな「ここを切ると壊れるよ」。シオンのBPMの数字の横に置かれた「整える」。夜明けに鳴った鈴の音と、今夜鳴った耳飾りの音。そのすべてが、今の凪の一行を支えている。

 夜の黒に、一行が走り書きされる。誰かが読んで、誰かが読まず、誰かが立ち止まり、誰かが通り過ぎる。良い。今夜は、それで良い。単一の観客にしない。そのために、黒のまま始める。

 風が、少しだけ、向きを変えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ